「なんと痛ましいこと」
人々が争い荒れた地上を見下ろした天照は心を痛めた。
「瓊瓊杵よ、そなたが地上に降りて国を治めよ」
命じられた天孫「瓊々杵尊」(ニニギノミコト)は地上に降り立ってみたものの、地上は暗雲に覆われよく見えない。
彼が困惑していると、どこからともなく二人の里人が現れた。
二人は「大クワ」「小クワ」と名乗り告げた。
「畏み申し上げます。尊がお持ちの稲穂の籾をお取りいただき、それを四方にお撒きくださいませ」
瓊瓊杵が籾を取り四方に撒くと、みるみる暗雲は晴れ、空から光明が差し込み、太陽と月が輝く地上が姿を現した。
故にこの地は「智穂」を転じて「高千穂」と呼ばれるようになったと云う。
神話の里、高千穂。
高千穂の中心とも言える聖地が「高千穂神社」です。
高千穂神社は、天孫降臨の地である高千穂八十八社の総鎮守。
鳥居をくぐった時から、いや高千穂に足を踏み入れた時から、この一帯が清浄であると感じさせられます。
どこか懐かしい、故郷のような空気。
参道の両脇では
凛々しい子持ちの狛犬が出迎えます。
高千穂神社は古来、「十社大明神」や「十社宮」などと称されていましたが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)高千穂神社と名を改称しました。
社伝によると高千穂は、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝えられています。
三毛入野命が祀ったという主祭神は一之御殿に祀られ、日向三代と称される「天津彦火瓊瓊杵尊」「彦火火出見尊」「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」に加え、それぞれ配偶神「木花開耶姫命」「豊玉姫命」「玉依姫命」となり、「高千穂皇神」(たかちほすめがみ)の名で総称されています。
また二之御殿に「十社大明神」として三毛入野命とその妻「鵜目姫」(うのめひめ)、他子神8柱が祀られていると云います。
しかしこの日向三代というのは記紀の内容に沿ったものであり、実際には木花開耶姫(阿多津姫)と豊玉姫の二人と婚姻関係を築いたのは物部イニエ王(崇神帝)でした。
ウガヤフキアエズに比定されるのは「豊彦」です。
そもそも三毛入野は物部五瀬とともに大和に東征して戻ってきていませんので、高千穂の話の登場人物として相応しくありません。
文治5年(1189年)3月吉日の年記を持つ高千穂神社の縁起書に『十社旭大明神記』というものがあります。
それには神武天皇の皇子「正市伊」が「きはちふし」という鬼を退治し、その後正市伊と子孫等が十社大明神として祀られたと記されているそうです。
正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』には、「高知尾」(明神)は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝を載せており、また『平家物語』巻8緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしています。
境内には、立派な神楽殿が設けられています。
ここでは毎夜、観光神楽を鑑賞することができます。
「高千穂神楽」は秋から新年にかけて、地区ごとに夜通し行われる舞の祭りですが、こちらではそのダイジェストを気軽に楽しむことができます。
その内容は「天の岩戸」の話と「国生み」の話。
「天鈿女」(アメノウズメ)が舞い、「手力雄」(タヂカラオ)が扉を開く。
すると天照大神が世に現れ世界を照らします。
「伊邪那岐命」(イザナギノミコト)と「伊邪那美命」(イザナミノミコト)は国造りのお祝いにお酒を呑みます。
やがて二神は酔いはじめて・・・
観客を巻き込んでの愉快な笑い声で高千穂の夜は更けていきます。
この高千穂の夜神楽は、鬼八の慰霊のため行われる「猪掛祭」(ししかけまつり)の中の「笹振り神楽」が元とされていると云います。
「猪掛祭」、それは調べてみると、驚くべき内容が記されていました。
高千穂神社の境内は、決して広いとは言えませんが、それでも面白い神跡が随所に見られます。
境内の中でひときわ存在感を示す杉の木は、樹齢800年の「秩父杉」です。
鎌倉時代、源頼朝の代わりに天下泰平の祈願に当社参拝した「畠山重忠」(はたけやましげただ)手植と伝わり、畠山重忠の出身地に因んで名付けられたと云います。
また、拝殿前西にある「夫婦杉」は、夫婦が手をつないでこれを3周すると、夫婦円満・家内安全・子孫繁栄の3つの願いが叶うと人気の御神木です。
根元を見ると二つの杉は一つにつながっており、サイノカミ信仰を彷彿とさせる姿をしています。
『十社旭大明神記』では高千穂神社は十社大明神の子孫が代々奉仕してきたといい、正和3年(1314年)の古文書には「宗重」という神主が、祖先である「承念」以来26代にわたって他氏を交えず奉仕してきたことを述べ、建武5年(1338年)の文書にも同じ名前が見えるが、その後の神主家の消息は不明である、と云うことです。
南北朝時代からは、当神社領であった高知尾庄を10の地区に分け、それぞれに「宣命」と呼ばれる神官職が置かれ、阿蘇氏に属した三田井氏がこれを補任していたとされます。
この「宣命」が各地区において神事を司るようになったと伝えられますが、こちらもその後の沿革は不詳となっています。
高千穂神社は僕にとって大好きで、特別な神社の一つです。
現在25冊目になる御朱印も、最初にいただいたのが当社でした。
天女とはこのようなものか、と思わせられるほど美しい巫女さんが、額に汗をして丁寧に書いてくださった御朱印です。
正月参拝では新年の祭事に、一般参拝者の代表に選んでいただいて、玉串奉納させていただいたこともありました。
祭壇の中の空間はとても神秘的で、清らかで爽やかな風が吹いていたのを、今も覚えています。
それはどちらかというと出雲的な、柔らかく大らかなものでした。
高千穂神社の拝殿を迂回し、本殿右手奥に「鎮石」(しずめいし)というものがあります。
多くの参拝者が見落としがちな、俗にいうパワースポットです。
人の悩みや世の乱れを鎮めてくれる石と言い伝えられており、茨城の「鹿島神宮」にある「要石」(かなめいし)も当社より贈られたものであるという話もあります。
第11代垂仁天皇の勅命によって、高千穂神社建立の際に用いられたと伝わっている石で、古い社殿の礎石であろうと考えられています。
本殿東側の脇障子に、鬼八を退治する三毛入野命の神像が彫刻されています。
三毛入野命がアララギの里と訪れた時、里を荒らす「鬼八」(キハチ)という鬼に困り果てた里人の姿に心を痛めました。
また命が高千穂峡七ツヶ池あたりを歩いていると、水鏡に美しい姫の姿が映っていました。
里人に問うと、それは鬼八に攫われた「鵜目姫」(ウノメヒメ)だといいます。
命は鬼八退治を決心しますが、鬼八は斬っても斬っても蘇り、命を悩ませました。
ついに鬼八を斬り殺した時、体を頭と胴と足の三つに切り分け、それぞれを別の場所に埋葬すると、再び鬼八が蘇ることはなかったのだと云います。
三毛入野命は助け出した鵜目姫を后に迎え、神籬を建て日向三代をここに祀ったのです。
本殿の裏を周り、西側から本殿を見てみます。
すると、こぶのように小さく祀られた社が本殿にくっついているのがわかります。
これは稲荷社で「事勝国勝長狭神」と「大年神」を祀っていると云います。
また、神社の方にお伺いすると、ここに祀られるのは天照大神に対する豊受大神のように、食事を提供する供物神であると説明を受けました。
大年神といえば出雲の「正月祭りの神」で、サイノカミ信仰に由来するものです。
主に西出雲王国圏で祀られていたようです。
また、事勝国勝長狭神という聞きなれない神の名を調べてみると、それは「塩土老翁」(シオツチノオジ)という神の別名でした。
塩土老翁は武甕槌神と経津主神が諸国を平定した後、宮城県塩竈市に二神を先導した神として知られ、また海幸彦の釣り針を無くした山幸彦に、龍宮へ向かうよう勧めた神でもあります。
出雲市上塩冶町に出雲国八社八幡の第一と謳う「鹽冶神社」(えんやじんじゃ)があります。
主祭神「鹽冶毘古命」(ヤムヤヒコノミコト)は、「出雲国風土記」に「阿遅須枳高日子根の命の御子、 塩冶毘古能命が鎮座しておられる」とあり、鹽冶彦がアジスキタカヒコの正当な後継者であり、神門臣家を受け継ぐ当主であったことが窺い知れます。
彼は10代少名彦として、10代大名持である富家「国押富」王と共に出雲王国を支えた人物であったと想定されます。
高千穂神社の目の前に小高い塚があり、何か祀られているようなので上ってみました。
高千穂の夜神楽の元になったとされる「猪掛祭・笹振り神楽」、それがどのようなものかよくわかる映像がNHKのアーカイブにありました。
町内3箇所の鬼八塚に氏子等が供物をする慰霊祭を行った後、高千穂神社にて神前に1頭の猪を丸ごと献饌し、鬼八の魂を鎮める「鬼八眠らせ歌」を歌いながら笹を左右に振る「笹振り神楽」を舞います。
これによって鬼八は神へと昇華し、霜害を防ぐ「霜宮」に転生するといわれています。
笹振り神楽は一に「地祇(ちぎ)の舞」とも呼ばれ、当地の土着に伝わる神事であることが窺えます。
実は猪掛祭はかつて、16歳になる生娘を生贄として捧げていたといいます。
戦国時代、日之影町中崎城の城主「甲斐宗摂」(かいそうせつ)はこれを悪習と嘆き、高城山で巻狩を行って獲た16頭の猪(しし)を代わりに捧げます。
以後「鬼餌の狩」と称する狩りで獲た猪を捧げるようになり、今の祭りとなりました。
生贄とは形式上の生贄というものなどでは無く、文字通りの生贄だったのだと思います。
各地の古い伝承を追っていると、稀にそのようなものがあったのだと、認めざるを得ない事実に行き着きます。
しかしそれは今の感覚で推し量れるものではありません。
なぜ荒ぶる鬼を見事退治した英雄譚の陰に、このような悪習が続けられていたのか。
これには別の伝承もあり、それによると祖母岳明神の娘である鵜目姫は、地元の長だった鬼八の妻であり、それに横恋慕した三毛入野が鬼八殺害を企て、姫を我が物にしたのだと伝えられていました。
鬼八殺害が目を覆うほどの後ろめたいものであり、その後酷い霜の害で作物が不作になったとたら、里人達にできることは何だったのか。
切ないながらも若い命をもって償うことしか、彼らにはできなかったのかもしれません。
ところでこの塚は何なのでしょう。
ひときわ目立つ石碑の猿田彦大神の田の字が、サイノカミの印「×」になっていたのが気になっていたのでした。
こんばんは。CHIRICOさん。歴史の改ざん・・・それはなかなかに辛い響き。
それでも、富家を敬い、その地を訪れ文献に則り考察を続け隠れた歴史を追いかけ伝えるということが、そういうことをなかったかのように振る舞う人よりよほど大切なことだと私は感じます。
某元総理の「我々は単一民族である。」なんて無知の極みの発言がある位に歴史を改ざんされた教え方を今の私達はされてきてるのでしょうから。
日本もいつの間にやら新しい史跡を発見し、新しい新説が生まれたりすることもあるのですから。
伝承。伝記。物語。口伝。一書曰く。別書曰く。碑文。言い伝え。これらは、未来へ私達が残しておく日本。
その時代を生きる人達への課題。失われず誰かの検証によって新しい歴史を紡いでくれる一助としてCHIRICOさんのブログもあって欲しいと願います。
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こんばんは、8まんさん。
先ほど前の返信でお送りしましたが、おかげでH氏から多くのことをご教授いただきました。
貴重なご縁を結んでいただき、感謝申し上げます。
コロナ禍で少々鬱になっているのではないかと感じていた今日この頃でしたが、一気に雲が晴れたようです。
まあ、私なんぞは、理屈をこねたところで、結局やりたいことをやるだけなのです。
これからも、時にはつっこみ、時には示唆していただけると幸いです、8まんさん。
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こんばんは。畠山重忠・・・どこかで聞き覚えがと思ったら私の住んでる所に史跡を残している人物でした。(笑)九州は高千穂まで主君の源頼朝の天下太平を祈願しに出向く忠義が知ることが出来てなにより。ただ頼朝亡き後、後の世に重忠の息子と北条家の牧の方との確執で滅亡させられたらしいのですが、まあ権力争いやら何やらはいつに時代も変わらないもんですね。
さてさて、鬼のもともとの語源はオン(穏)らしいですね。心にある隠れた暗い部分。いつからか転じて鬼になり、悪い人達に(誰かに都合の悪い人達)に
総称して名づけられたと。鬼八さんも当時はそこを治める主で誰かの都合に合わなかったのかもしれません。吉備にも温羅(ぬら)と呼ばれた主が鬼とされ討伐されました。酒天童子は桓武天皇の血筋に当たるそうです。こちらも鬼として討伐されました。
さて・・・猿田彦の「X」に関しては確か昔の田という漢字の由来は口(土地)から芽「メ」が出るで口に「X」だった気がします。また関係ないとは思うのですが、島原でのキリシタンの生き残りの人達に伝えられた話では、灯篭などに十字の格子を作るとキリシタンと疑われるので十字架隠しをするために「X」を用いたという話を聞いたことがあります。
本当の歴史は隠れてしまって掘り起こそうとする人達を誰かの都合に合わないからと、鬼にされないよう祈ります。
追記。
フェイスブックのHさんはタケミナカタさんの血筋にまつわる者として口伝を伝えています。
CHIRICOさんの知る文献と口伝の間で齟齬を感じ似通っていて違いもありますが、そこには共通性もあり出雲の大国主はクーデターによって幽閉されたと。歴史の史実は人の都合で変化しうるもの。芯の部分も把握しつつ、別書曰くみたいな感じで諏訪語りも記憶や記録として楽しませてもらおうと思ってます。では、あちらもこちらも改めて宜しくです。
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こんにちは、8まんさん。
頼朝公の偉業は誰もが認めるところですが、その業、怨念もまたしかり。
鬼とはまつろわぬ民への蔑称のひとつだと思います。
ただ土蜘蛛よりは、その武勇を認めている一面があるような印象もありますが。
八は出雲の聖数、つまり鬼八はそういうことなのではないかと探っています。
田のメの話、とても納得しました。
ありがとうございます。
なるほど、H氏の記される内容の正確さに納得しました。
大筋は私が学んだ内容と氏の口伝の内容に相違はないと思います。
しかし細部に至ってはおっしゃる通り。
齟齬というなら、複数の大元出版本の中にも、あるいは一冊の本の前半と後半部分などにも齟齬が存在します。
あまりに長い時間の経過の中では、齟齬の発生はいたしかたないのでしょう。
富家の伝承では、そのように真実の歴史が、当時の人の思惑で曲げられることを危惧し秘密裏に、一字一句違えぬよう、過酷なまでに厳密な方法で口伝にて伝えられてきたそうです。
確かに、地方に行くと、かなり富家の伝承に寄っていながら決定的に間違った歴史を伝えていることも目にします。
そういったことを危惧されたのだろうと思っています。
実を言うなら、私もこのように、勝手に伝承を解釈し、ブログに記すと言うのは、歴史を改ざんする行為になるのではないかと危惧しているところです。
大元出版本にしても、どこまでが口伝でどこからが著者の見識なのかとその境目がわかりません。
あくまで口伝は口伝として、一言一句違えず、後世にまで伝え残して欲しいと願うものです。
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8まんさん!
おかげさまで、H氏から色々ご教授いただく機会を得ることができました。
とても貴重なご縁をありがとうございます。
情報が多すぎて混乱していますが、またゆっくり理解していきたいと思います。
いやあ、お腹いっぱいになりました(笑)
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