三歳社 / 狼神社(出雲):八雲ニ散ル花 番外

投稿日:

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大国主・事代主の死をきっかけに畿内・大和へ移住した出雲族の子孫には、故郷へ里帰りした一族もいました。
出雲大社の北奥、八雲山登山口付近に鎮座している「大穴持御子神社」(おおなもちのみこのかみのやしろ)、通称「三歳社」(みとせのやしろ)は、そうした子孫が祀った神社だと云うことです。

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三歳社は山深いとことにありました。
今は登山も可能になっているそうですが、かつては八雲山は、勝手に入ってはいけない禁足地だったと云います。
それもそのはず、猪目洞窟で枯死させられた八千戈王・大国主の遺骸を鎮めた磐座がこの山奥に鎮座するからです。
当然現代においても立ち入るべきではない場所です。
ただし、三歳社までは入っても大丈夫だと、出雲地方の古い伝承でも云われています。

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主祭神は事代主となっていますが、ここはお年玉の発祥と云われる、葛城の御歳神が里帰りした社なので、本来は御年神が主祭神だったのではないかと思われます。
呼び方も「大年神」(おおとしのかみ)、「年徳神」(としとくじん)というところもあれば、場所によっては「お正月様」、「恵方神」などとさまざまであると云います。

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こんな山奥の小さな社ですが、正月三日には参拝客で賑い、参拝客はトシガミさんから、福を招くという福柴を受けて帰り、家に飾るそうです。

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出雲市斐川町直江、斐川公園北に狼を祀る神社があります。
「八幡宮 狼神社」といいます。

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境内は小高い狼山の山頂を切り開いた空間に造られています。
元は「田波八幡宮」と呼ばれていたそうですが、明治23年10月、森の中腹にあった「狼大明神」を迎え入れ二社を合祀し、狼神社は「大神神社」と社字を改められ現在に至っていると云います。

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長い石段を上ります。

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境内にはボロボロになった、古い狛犬が異様な存在感を放っています。

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昔このあたりはうっそうと茂った森の中、狼の恰好の棲家であり、民家に出入りしては危害を加え村人を大変困らせていたと云います。

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由緒を見ると、「中古の昔、此の山に狼徘徊し多くの人命を損害なす。故に時の段原頓阿弥と申す人、此の神を勧請し、乞い願いによって悉く平定せし由、古老の申傳候。いにしえより村人、狼を山の神として祀る畏敬の念もあり。」とあります。

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また当地、狼ヶ森は戦国時代(1570年頃)尼子・毛利の武将達が戦に明け暮れた古戦場でもあったということです。

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しかし、当社も実は、奈良の大神神社の神が里帰りした社だということのようです。

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大神神社に祀られる大物主は「事代主」のことなので、東出雲王家の故郷へ里帰りしたということになるのでしょう。

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狼を神使とする有名な神社に埼玉県秩父市三峰の「三峯神社」(みつみねじんじゃ)があります。
そこの拝殿の手前には珍しい「三ツ鳥居」があり、大神神社との繋がりを窺わせます。

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境内の一角に小さな祠がありました。

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氏子さんらしき女性が教えてくださいましたが、ここは伯耆富士「大山」(だいせん)を遥拝する場所のようです。

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そこにも崩れかけた、古い狛犬があります。

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古い独特の形状を彷彿とさせますが、保存が行き届いていないのが残念です。

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その女性が教えてくださったのが寝転がったように見える山神の姿と、

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境内の下にある、もう一つの大山遥拝所でした。

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それは知っていなければ見つけようのないくらい、ひっそりとその場所にありました。

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2件のコメント 追加

  1. 代々祭祀にかかわってきた 古代の家族のすへと、名乗ってかまいませんか? より:

    近くに住まっております。こちらの神社の片隅に・・・古代の皇族と言われる埴安彦命と埴安姫(媛でしたか)命の名を彫ったひなびた石碑があり、由来が気になっています・・・ インターネットのほうで、京都に記念の碑があるとのこと、祭りがあること、などを知りましたが、出雲との関係が気になります。
    知りたいと思いますが、術(すべ)がありません。どういった関係であったのか、なぜこの石にこの名が刻まれ記念・慰霊されているのか・・・
    もしおよろしければ、いつの日か、この二人にまつわることを記事にしていただけましたら幸いです。

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    1. CHIRICO より:

      こんにちは、ようこそお越しくださいました。
      埴安彦・埴安姫、各地の神社を参拝しているとたまに目にする祭神の名前です。
      が、主祭神として祀られることは少ないようで、多くの情報を見つけることは難しいですね。
      埴粘(はにやす)は粘土を意味するようですので、おそらく出雲系土師氏に関連する神でしょう。
      彦は古代の皇子の呼称ですので、元は出雲系の皇子だったのだろうと思われます。

      土師氏の先祖は野見宿禰と云われています。
      野見宿禰は、本来の名前が富大田彦と言い、東出雲王家17代目の当主でスクナヒコ(副王のこと、主王はオオナモチ)でした。
      彼は現・神魂神社がある王宮を物部とヒボコ族に追われ、出雲の熊野大社の地に屋敷を建て直し、そこに住んでいました。
      彼の重臣はヒボコ族の田道間守に殺されてしまいますが、その田道間守に復讐する機会を得て、名を富から野見へと変え、大和の地でこれを成し遂げます。
      大田彦は復讐を成し遂げた後、出雲に帰りますが、その途中暗殺されてしまいました。
      大田彦とともに大和入りした一族の中で、そのまま大和に残った者たちがいましたが、彼らが土師氏として代々埴輪や古墳造りを担うようになります。
      土師氏の末裔には我が故郷にして私の氏神である菅原道眞もおります。
      そのようなこともあり、京都を始め、各地に埴安信仰も伝えられているのだと推察します。

      出雲神はサイノカミ信仰として夫婦神を祀る傾向がありますので、埴安の神も彦と姫の夫婦で信仰しているのでしょう。
      彼らは子孫繁栄を何よりも大切にしていました。
      奈良の大神神社は事代主の息子クシヒカタの子孫が受け継いできた聖域。
      狼神社の近くにお住まいで、祭祀に関わってきたとおっしゃるのなら、東出雲王家「富家」の血を引いておられる確率は高いのではないでしょうか。
      堂々と名乗ってよろしいかと、思います(^ ^)

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