福岡県朝倉市の杷木(はき)にも神籠石(こうごいし)がありました。
車を止めて、古墳状の丘を登ります。
杷木神籠石は、筑後川北岸の筑後平野最東端、標高192mの丘陵にあります。
神籠石は山城説が優位ですが、果たしてこの程度の丘に、あれだけの重い石をわざわざ並べて城としたのでしょうか。
頂に立つと、悠々と流れる筑後川を眼下に見ることができます。
ここは治水・豊漁・豊作を願った、祭りの庭だったのではないかと思うのです。
頂から少し降ったところに神籠石列石がありました。
これは崩壊していたところを並べて再現したものだそうです。
さらに道を渡った先に、水路も残されていました。
案内板に
杷木神籠石の全景がありました。
こうしてみると、出雲の田和山遺跡にも似ているような気がします。
第一水門、
それはあまりに無造作にあって、今も普通に使われている用水路のように思えました。
さらに山に踏み込んでいくと、
薄暗い場所に第二水門が残されていました。
神籠石は土雲族に関連があると僕は考えています。
杷木神籠石からほど近い場所には「杷木神社」(はきじんじゃ)が鎮座していました。
参道には恵比寿神が祀られていたりと、出雲を匂わせる神社。
祭神は「伊弉諾尊」「伊弉冊尊」に加え、「大己貴命」「武甕槌命」となっています。
創建は約1500年前第26代継体天皇の頃と云われており、その頃、筑紫の豪族磐井が反乱が起きました。
朝廷は鹿鹿火大連(あらかいのおおむらじ)に討伐を命じましたが、磐井の勢力は強大で苦戦します。
この時、杷木大明神に幣帛を捧げ祈願してからは、草木の風になびくが如くに平定することが出来たと云うことです。
また当社に伝わる面白い話に、3月と12月の春秋年2回行われる「鎮祭」(ちんざい)にまつわるものがあります。
日本の神々は神無月に出雲大社での神集いに行くとされますが、杷木神社の祭神はそれには参加せず、一年中氏子の安全と豊作を守って働き続けるのだそうです。
それで氏子たちはそのことに感謝し、年2回の鎮祭を行います。
この祭りは神がゆっくりと休まれることを目的としていますので、期間中は大きな声や音、歌などを鳴らしてはならなく、下肥等のにおいをさせてはいけない、生木や生竹を伐ってはならない、漆器を用いて食事をしてはならないなどの取り決めがあります。
これは出雲・佐太神社の神在祭が「お忌さん」(おいみさん)と呼ばれ、祭の期間中は、歌舞音曲、喧騒、造作等も慎む禁忌の祭としていたという話によく似ています。
さて、境内にちょっとだけ変わったものが鎮座しています。
うさぎの狛犬、狛うさです。
宇佐族=菟狭族は本来、うさぎ族と呼ばれていたと富家は伝えています。
古代中国では月にうさぎがいるという信仰があり、それが北部九州地区に伝えられ、月神信仰のある一族がうさぎ族と呼ばれたのです。
それがやがて省略されて菟狭族と呼ばれるようになりました。
つまり当地に菟狭族がいたことをこの狛うさは伝えているのでしょうか。
また、杷木神社に残された記録によると、麁鹿火大連が御井郡にて終に磐井を討ち殺し、凱陣した後、磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した、とあるそうです。
磐井の残党らに協力したという土の蜘蛛餘類、これまさに土雲族と言えると思います。
そして恵比寿像が並ぶ境内裏には
月形の石が祀られているのでした。