
日の本の夜を守る神社「日御碕神社」のその先、

島根県出雲市大社町日御碕、島根半島のほぼ最西端に位置する高台に、「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)の終焉の地と呼ばれる神跡があると聞いて、訪ねてみました。

それが「隠ヶ丘」(かくれがおか)。
入口にある由緒書きによると、出雲の国造りを終えたスサノオが、後のことを大国主に譲渡し、自らは根の国に渡り、熊成の嶺に登って柏葉を拾い、
「私の魂は、この柏葉の止まる所に住もう」
と言って投げたところ、その柏葉がひらひらと舞い降りた場所がここだということです。

「スサノオ=徐福」という考えは限定的であり、そろそろその発想を改めようと思っています。
根の国に渡り、スサノオが登ったという「熊成嶺」(くまなしのみね)とはすなわち「熊野山」のことであり、あの「天宮山」のことになります。

つまり、ここでいうスサノオは、出雲王国初代「菅之八耳 」(すがのやつみみ)王のことであり、その御魂を当地に祀ったのが「天之葺根命」(あめのふきねのみこと)、別名7代大名持「天之冬衣」(あめのふゆきぬ)である、ということになります。

緩やかなカーブを描く参道を少しばかり歩くと、目的の地が見えてきました

が、その前に、境内社と思われる社に参拝します。

「稲荷大明神」ですか、なるほど。

箒がかけてあったので、僕自身の穢れ祓いの意味も込めて、境内を軽く清掃しておきましょう。

きれいな五条桐彦となったところで、いざ、隠ヶ丘を参拝します。

おお、確かに古代祭祀跡を思わせる雰囲気です。

安寧天皇13年(紀元前536年)に、天之冬衣の5世孫である御沼彦(みぬまひこ)に命じて、今の日御碕神社の「神の宮」(上の宮)に社殿を建て遷座したということです。
この社が『出雲国風土記』に「美佐伎社」、『延喜式』に「御碕社」と記される社となります。

おお、ここ隠ヶ丘は、富家ファンにとっても、聖地中の聖地と言えるのではないでしょうか。
菅之八耳王のご遺体は天宮山の磐座に埋葬されたのでしょうが、言わばここは、出雲王国初代王の拝み墓があった場所なのかもしれませんから。

この日御碕の場所は古代出雲王国の東王家と西王家の、ちょうど境界ラインになりそうです。
天之冬衣さんは富家のひとではありますが、

かのB女史さんは、こうおっしゃいます。
「和邇氏の実態は、神門系です。日御碕神社の小野家の末裔であることが、この小野家の方との対談でわかりました。天之冬衣の末裔ですね。
天冬衣自体は、冨家ですが、その後に神門系になります」
…ど、どゆことー???

賽銭箱に大きく描かれる神紋は「三ツ柏」。
スサノオが「吾が神魂はこの葉の止まる所に住まん」と投げた柏の葉にちなんだものだと言いますが、葉の形がギザギザになっています。これは梶の葉ではないのでしょうか。

柏の葉はこのように葉先が丸く、梶の葉はギザギザです。梶の葉の写真は、良いフリー素材が見つかりませんでしたので、検索してみてください。

また、隠ヶ丘の三ツ柏と須佐神社の神紋が同じ柏紋であると説いてあるサイトを見かけましたが、須佐神社の神紋は葉先がなだらかで、隠ヶ丘のものとは別物と見た方が良さそうです。

どちらかというと、一般的にいわれる「えびす紋」に近いものと思われます。

まあ、そもそも紋というのはデフォルメありきなものであり、柏紋か梶紋かと区別するのもあまり意味がないのかもしれませんが、この杜には、深い秘密があるのかもしれません。



日御碕神社には、アマテラスを祀る日沉宮(ひしずみのみや)とスサノオを祀る神の宮があります。
そうとくれば、ツクヨミさんはどこにいらっしゃるの?と探してみれば、ちゃんとありましたね。

で、29号線脇の小さな入口を見つけ出し、突進してみたのです。突撃!

wktk

いきなり行き止まり。ガーン。
でも大丈夫。これはイノシシなどの動物避けの柵であって、戸を開けて進むことができます。
開けたら、ちゃんと閉めましょう。

なだらか道を歩み進めます。

途中、脇道の先に、墓石を発見しました。
後から聞くと、ここは日御碕神社宮司家代々の墓地なのだとのこと。

月讀神社への道は続きます。

また脇道の先に遺跡のようなものを発見。
ここも小野家の御陵であったと聞いています。

深淵へと続く道を独り歩きます。

しばらくすると、少しひらけた場所に、社殿が見えてきました。

やったー着いたー。

Googleマップで見た時は山中の社で苦労するかと思いましたが、意外に楽勝でした。

2礼2拍手1礼の後、顔を上げます。
ん?

月讀神社やないんか~い。。
推惠神社(すいけいじんじゃ)とあります。

なるほど、月讀神社への参道(山道)はあちらということね。

あと180m、ちょろいな。

そう意気込んだのですが、この後壮絶な参道が、僕を待ち構えていました。もう帰りたい。

さて、先ほどの末社「推惠神社」の祭神は「尊俊道命」(たかとしじのみこと)と「清操辺命」(すがみさべのみこと)でした。
この尊俊道命とは、日御碕神社68代宮司「小野尊俊」(おののたかとし)のことですが、語られる彼の壮絶な人生を、僕の壮絶なトレッキング風景を背景に紹介したいと思います。

ある時、松江藩松平家2代目の綱隆は、日御碕神社を訪れることになりました。この時、彼を饗応したのが検行で宮司の小野尊俊でした。
尊俊は妻の花子と共に、綱隆をもてなしました。すると綱隆は、尊俊の妻の美しさに魅入ってしまい、これをモノにしたいと考えました。
綱隆はその後、花子の実家・神谷家に、娘を離縁させて側室として城へ参内させるよう強く求めましたが、神谷家は固く断りました。
そこで綱隆は、尊俊にあらぬ罪を被せ、隠岐に流罪としたのでした。

尊俊が流罪となったあと、綱隆は再三神谷家へ、花子を城へ連れてくるよう命じました。悲嘆に暮れた花子は、夫への操を立てるため、ついに自害に及ぶのでした。
そのことを知った尊俊も、三日三晩の呪詛を施し、自ら絶命したといいます。
延宝2年(1674年)のことでした。

そのようなことがあって後、松江城内では異変が続き、騒ぎとなります。そして翌年、綱隆は45歳で急死したのでした。
これは尊俊の祟りである、と噂され、さらに出雲では厄災が続き、財政は逼迫、藩主にも不幸が続いたと云われます。
尊俊が亡くなって60年近くが経った享保18年(1732年)、6代藩主の宗衍は命じて、松平家の土地であった松江の楽山に尊俊を祀る推恵神社を建てさせました。
さらに隠岐島の海士町に設けられていた尊俊の廟にも、推恵神社が建てられました。

隠岐の知夫里島に鎮座する「天佐志比古命神社」(あまさしひこのみことじんじゃ)には、小野尊俊が悲嘆に暮れて座り続け、中心がへこんだといわれる「検校の石」がありました。
中ノ島・海士町では「隠岐神社」境内のはずれに、小さな箱のような推恵神社が残されているそうですが、昭和15年(1940年)に隠岐神社の改築が行われた際に石棺が発掘され、中にはミイラ化した白骨体があったとのことです。この報を受けた当時の日御碕神社宮司は、現地に赴き、小野尊俊の遺体であると確認したとの逸話が残っているそうです。(日本伝承大鑑)

推惠神社のもう一柱の祭神「清操辺」は、夫への操を立てて自害した小野尊俊の妻・花子のことであろうと推察されます。
つまり推惠神社の中でも小野尊俊夫妻が揃ってまつられるのがここであり、切なくも、サイノカミとしての形を残すものなのです。
彼らの御魂が常世で安らかであるようにと願いつつ、腰まで及ぼうかという藪漕ぎの黄泉路の果てに、ようやく僕も辿り着きました、

「月讀神社」へ。

人を寄せ付けぬ雰囲気の山頂に、ひっそりと佇む小さな社。
祭神は「月夜見尊」(つくよみのみこと)と「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)。
後者は後付けのものと思われ、本来はおそらくツクヨミ一柱のみが祀られていたことでしょう。

古来、月は常世の入口であると考えられ、月に坐すツクヨミの神は命の源泉たる変若水を持っているとされていました。
変若水は、竹のヨ(節)とヨの中を満たしたのでカグヤは竹から生まれ、龍宮を満たしていたのでウラシマは海中でも息ができたのです。
常世とは、命が生まれ、命が還る場所。

小野家の御陵・墓地があり、小野尊俊夫妻の御魂を鎮めるこの山は、磐座こそ見当たりませんが、小野族における天宮山なのかもしれません。

僕は思います。日本の夜を守るという日御碕神社、その謂れの本来の聖地はここ、月讀神社なのではないでしょうか。

隠ヶ丘と当地を知って改めて、小野族の何たるかを考えてみる次第なのです。

もうなんか。。コメする場所を間違えちゃって。もとい😂
いや〜ん😭😭😭
コメ荒らしかストーカーって思わないで〜
ただの、ド級天然と思うて許してくださいませ🙇
よせふさん、島根大学が大根島の上は面白かったです。
(追記)
幽鬼洞を進むと、
鬼の寝床、鬼の井戸、などがあります。
これまでヤマト政権に組み敷かれる経緯にあった、全国各地の鬼と呼ばれる名所の由来、出雲族の痕跡を数々巡ってこられた五条先生や、富家伝承をこよなく愛する方々、そして偲フ花シリーズのファンの方々にとっては、。。。そこを想像させるに難くない名前ですよね。。
すみません、コメント欄が行方不明になっちゃって、返信をこちらに新たにいたします💦
大根島になった由来は諸説あるみたいで長くなりそうなので、アップしたこちらで宜しければご覧下さいませ。色々な発見がありこちらのコメには書ききれませんでした(^_^;)
https://izumeworld.wordpress.com
大根島にはタコ神社もありますね。
また、幽鬼洞ですが、淀江の姐さんが以前に勤務していた学校で、かなり昔、洞窟探検をされていた生徒たちが不運な事故に見舞われて、亡くなられたことから、許可やガイドが必要となりました。
また、この大塚山という公園の名前も大きな墓所山。(あれ?なぜかウナギのおおはかやを思い出しました💦)
「焼島という不吉な名前を捨て」、とある由緒。
なんとなくですが、
神魂神社横の出雲王家にとっては御神域である聖なる墓所。。のような
禁足地を思い出したんです。
きちんと焼火神社跡を参拝してから洞窟は行ったほうがいいのかなあとか思っちゃいました。
幽鬼洞という名前がまず(^_^;)💦
雰囲気は全然そんなことないんてますけどね。
可能性としては、水葬地だったのかもしれないですね。
水葬で思い出しました。
下照姫の弁天さんがある、東郷湖。結構近代まで水葬の風習があったと聞きました。淀江の姐さん曰く、お友達のおばあちゃんのお墓はないと。。。そんな近い世代で😨と思いましたが、風習ですもんね。
龍神さまの住まう湖でシジミが浄化して水に還るのかもですね
ご無沙汰しております。
五条先生のこちらのブログの記事での御考察を参考に、我が家を含む甲斐市川家から出た一族の惣領家が代々宮司を務める山梨県市川三郷町の御崎明神表門神社を創建した一族を考えております。
御崎明神の名称や日置氏との関係を考えると、天葺根命、つまり天冬衣王を祖とする日置姓小野氏の初期の分家が甲斐国に東遷して、御崎明神表門神社を創建したと考えましたが、表門神社の境内の摂社には「熊野宮」「諏訪社」もあるようで、どうやら、日置氏の祖である天冬衣王もそうですが、熊野宮や諏訪社も含め、東出雲王家の史香が強いですね。
12年前、宮司家をお訪ねして、伝来の家系図を拝見させていただいたあと、表門神社を参拝させていただきましたが、その当時は、富家伝承を全く知らず、本殿だけ参拝しただけでした。
年内、今一度、宮司家にアポをとり、表門神社に昇殿参拝し、境内の摂社にもお参りして、宮司さんに、摂社につきましてもレクチャーしていただこうと思っています。
宮司家伝来の家系図、気になりますね。
愚策により日本各地の土地が荒らされている昨今、古家のルーツを探る試みは重要なことではないかと思います。
ぜひ機会があれば、日御碕神社方面にもお出かけください😊
先日の投稿では、ハンドルネームを入れ忘れてました。市川@武州荒木(横浜在住)です。
表門神社の宮司家の家系図は、鎌倉幕府に属した市川別当内膳行房以前の系図は、いわゆる清和源氏の系図になりますが、市川別当内膳行房の父に位置付けられている源義清の譜注記事には、被官(家臣)として、日置(へぎ・ひき)弾正政家の名前が記され、源義清から源氏の弓馬術の極意の相伝を受けたことが記述されています。
思うに、この日置弾正政家が、表門神社の本来の宮司家で、源義清の親族が、表門神社の宮司家を継承することになったので、日置弾正政家は表門神社から身を引き、その代わり、源義清から弓馬術の極意の相伝を受けて、弓馬の道で日置氏は身を立てることになったのでしょう。現在でも、古武道の弓術で日置流が残っておりますが、その実質的な元祖が源義清の被官であった日置弾正政家であったと思われます。
表門神社の宮司家には、御先代までは、膨大な古文書が伝来していたとのことですが、御先代の時代(昭和)に、東大教授を名乗る人物が宮司家を訪れ、研究の為に貸してほしいと申し出た。御先代は信用して貸したら、そのまま持ち出されて喪われました。富家でも、富當雄氏の代に同様の事件があったことを斎木雲州先生の「出雲と蘇我王国」で読み知りました。もし現存していれば、県指定の有形文化財となり、山梨県内の古代史から中世史を解明する貴重な古文書であっただけに大変残念です。
鈴木眞年翁が収集した史料を元に宝賀寿男氏が編纂した「古代氏族系譜集成」は、かなり宝賀氏の個人的見解も含むもので、古代の部分は使えませんが、日置臣シビの先祖が出雲国造家の系譜に入れられているなど、ホヒ家は、出雲地域の古代豪族の系譜をかなり取り込んでいるのが窺われて興味深いですね。
日御碕神社は、数年前、ホロトロの出雲の旅で参拝させていただきましたが、個人としても、遠い先祖に関わるお社ですので、何れまた、参拝させて頂く所存です。
どなただろう🤔と思っていましたが、市川様でしたか。
なるほど。
橋本家でもある時期、家から古文書が盗まれるという事件があったそうで、似たような話をちょくちょく耳にします。
何かの目的があって、昭和期に証拠隠滅のような動きがあったのかもしれないですね。
おまけに、爾佐神社のあたりの港は隠岐島へ出港するエリアだったと思うので
これまた、
月形神社→爾佐神社→隠岐島にほぼ一直線で拝殿も隠岐島向き。
これまた偶然かしら(^_^;)
多くの方が神社を線で結ぶ事に何かを見出そうとしますが、日本はとにかく神社が多いので、なんとなく結べてしまいます。
大事なのはなぜそのような配置にしたか、という事ですね。意図的に神社を並べたとしたら、その鎮座地の計測には天体が用いられたと考えられます。月神を意図的に直線上に配置したなら、そのラインは月の特定の軌道上に配置されたのではないでしょうか。
もしくは、隠岐島を遥拝していたのなら、隠岐に月神祭祀の元宮のような痕跡がなければなりませんね。
あと、神社は後世に遷座されていることも多いので、その点も調べなければなりません。
確かになんとなく結べてしまいます。てか、大体、何某かの重要なお社が線上にありますよね(^_^;)
なんとなくこじつけられてしまいますね。聖地こじつけの発信物が巷では多すぎるので、何が何やらです。
この東西の月読命を主祭神とする一直線はたまたまかなあと思っています。が、気になるっちゃあ気になるので、また調べてみよっかなと思います。ありがとうございます。
ちなみに本能でいうならば。。の域ですが、
大山を遥拝していたであろう聖地は恐らく飯梨川河口付近にもあったのではないかなと体感してます。。
飯梨川の河口に近いところ。
富先生の蘇我王国の本によると、
蘇我氏が王陵の墓を建造するのにお手伝いに来られ移住したとされてて、飯梨川河口付近に宗賀神社があるとのこと。ここ何年間かお社を一生懸命探すものの、探せません。地図をみると、なんとなくですが、
飯梨川沿いに出雲路幸神社があります。
(境内社に佐為神社がありますが、こちらのほうが元宮とも言われてます)
鳥居の先、飯梨川の川沿いの小高い場所からの大山があまりにどストライクでド~ンとありました。古代は今よりももっと見晴らしがよかったでしょう。
王陵の墓も近いですし。可能性があったら、あの場所は自分にとっては大切な場所なので、ロマンがあるなあと思っています^_^
しかし、富先生の書かれている宗賀神社って。。飯梨川河口の何処に?という感じです。名前が違うかと思い探したら
住吉神社がありました。住吉三神のソツ彦と武内大田根は関係深いけれど。。蘇我系つながりはあれど。。なんか違うような気がします。
こんにちは。
島根の月読命(月夜見)を主祭神とするお社を地図で点をつけていたら
こちらの
月讀社→丹部神社→来待本宮→月形神社が東西一直線上にほぼありました。偶然でしょうか💦
来待本宮は来待神社じゃないほうかと。
太陽神であれば分かりやすいのですが、月神を東西一直線に並べた理由はなんでしょうかね。
ここから北は夜(常夜)の国だという境界でしょうか?
ここから北は常夜の国。。かもしれません。
月讀社〜月形神社ラインは、直線ではなく割と大きめな弧を描くような線になりますね。
あえて意味を持たせるというのであれば、天体の方角というよりも境界線といったところでしょうか。
月形神社〜爾佐神社のラインは、隠岐島前の西の海域を抜け、ぶつかる先は北朝鮮になります😅
地図に線引きビギナーズとでも呼んでください(笑)
たっ確かに隠岐島。。。をちょいズレてますね💦 え〜っ?
北朝鮮🇰🇵ですか😨
伽耶は興味津々ですけど、流石にそれはない。。(^_^;)
ロマンチックぢゃない〜😭
でも今日の私の気分は、
月もですけど、星★☆
古代は月明かりと星は、海路の道しるべですよね。隠岐島と島根半島を繫いでくれる常夜の灯火。これにいま、私が妙に惹かれてしまい、常夜のような闇見とよばれる地にフラフラ休みの度に足が向いてしまうのは一体なんなんでしょうね。取り憑かれたのかもしれません(笑)
一昨日、大根島に行きました。焼火島だったのですね。大根島と呼ばれる前は。大塚山公園にいまはなっていますが、大塚山は、日本一低い火山だったようで、激しく噴火したのですね。大塚山という名前は焼ける火のような火山の後のお墓=塚なのかな。。大きな墓の山?
その低い大塚山の、丘のようになってるてっぺんにあるもの、今も鎮座している。。
大山を遥拝し、後方の隠岐島を繋いで佇んでいるようなソレにもう目が釘付けになりました。
ぜひまたの機会に。
大根島が火山だったとは知りませんでした。
それこそ月形神社〜爾佐神社のライン上にありますね。
なんで、よりによって大根なのかが気になります。
横から失礼いたします。
大根島には溶岩ドームがあり、予約すれば中を見学できますよ。学生時代に入ったことがあります。
ちなみに・・・
下級生にふるーい地図を見せて「昔、島根大学はここにあったんだね」って言うと、半分くらいは信じてました(笑)
なるほど、写真を見てみましたが、思った以上に大規模でした。
面白そうですね♪
ここのシダ、大変でしたよね(^_^;)
180メートルがあんなに長く感じたのは始めてでした。夏だと藪蚊やマムシが怖そうでした、一昨日行けて季節的にも天候的にも恵まれました。イノシシの掘った大きな穴が推恵神社の拝殿前にありました。何かか美味しいモノあったのでしょうか。栗もたくさん食べた跡が落ちてて、イノシシ天国なのでしょう。熊いないのが救いです。
ところで、お写真みてあれ?
途中にある小野氏の御陵のような、ストーンサークル風の石の碑。
てっぺんの丸いお月さま、このお写真では下に落ちてますね。
大丈夫、安心してください。
一昨年はちゃーんと、まん丸お月さまが上に乗っかってました。
おそらく小野宮司のどなたか、または氏子さんが直されたのでしょうね。
おそらく古い時代の、小野家のお墓だと思います。
narisawa110
いけ新撰姓氏録的に考えると、クシヒカタ→磯部氏→宇治土公氏になるんですね。
更には、猿女の役職が小野や、ワニから出ていた時期もある様です。
匂う、ニホフぞw
narisawa110
自分にレス
事代主→磯部氏→宇治土公氏
後に神門化して
大田命→磯部氏→宇治土公氏
事代主が猿田彦に変わる。
ここら辺に関わる家は毛部=宇佐と繋がりが出てくる。
物部化=宇佐化
narisawa110
本日も破壊力のある記事を有り難うございますwwwww
ウズメに関して考えてみました。ウズメやサルタヒコは都合よくつかわれてきた経緯があり、白髭神社などの朝鮮系の神社の上書きに使われてたりします。
神門臣に関して考えてみました。椿大社はどうも神門臣家、タキツ彦系かなと想像します。そして大山の社家も神門臣系、春日家や花田家に近いという印象。
ヤマトの加茂家に関して考えてみました。神門臣、富家の境が曖昧でわけわからなくなっています。
和邇氏に関して考えてみました。クニオシヒトからの別れですが、実際には出雲系であることが口伝本には書かれていました。
此処からが大事件なんですが、小野家で継承されてきた「稗田流」って、つまり神門臣家の語り部の資料がベースになってるって事になりませんか?よく考えたらその方が地域的にも矛盾がありません。王家は婿や嫁を贈りあってたでしょうから、本質がどちらにあるのかは後年の人の解釈ですものね。
わぁーぉ、他の記事の事が全く頭に入ってこないwww
確かに椿大神社が神門なら、猿女由来の稗田流がしっくり来ます。