
さて、である。
霧島北斗七星について、発見者である谷口実智代(旧・イワクラ学会理事)さんの説を見ていくと、北斗七星を形成する神社の共通点として、
① 小高い丘にある
② 山頂部及びその付近に磐座を持つ
③ 高千穂峰が見える
という共通点があるとのことでした。
僕が実際に現地を訪ねてみると、
③については、現在は木が生い茂っていたりして、必ずしも目視はできませんでしたが、確かにそのような場所にあるように思われました。
①、②については、確かにその通りでしたが、住吉神社・金峯神社・母智丘神社の磐座群と、東霧島神社・霞神社・皇子原の磐座は、ちょっとタイプが違うように思えました。
池之原については不明です。
これらの磐座が同時代・同時期に北斗七星を象ったものとして、一斉に祀られたのかと言うと、やや弱い気もします。
住吉神社・金峯神社・母智丘神社の磐座は古い古代信仰として祀られていたが、それを利用して後世に他の磐座を設定し、北斗七星を象った、と考えられるかもしれません。
その配置は確かに見事なもので、大淀川の水を汲み上げ、御池にすることで、高千穂峰の火を治めるような風にもみえますし、道教の「反閇」(へんばい)のような呪術的作用で、高千穂峰と大淀川両方を治めようとしたのかもしれません。

さらに谷口さんは、霧島に北斗七星があるのなら、北極星もあるはずだ、として、これを高千穂峰に当てはめて考えたようです。
すると、北極星を高千穂峰とした時、もう一つの天体が、その地に見えてきたとのこと。
そう「ミルキー・ウェイ」、通称「天の川」です。
高千穂峰を挟んで北斗七星の反対側に、「天降川」(あもりがわ)があったのでした!

これは栃木県大田原市の『ふれあいの丘 天文館』さんのサイトからお借りした図ですが、北極星を中心に相対するように位置する北斗七星と天の川、確かに似ている気がします。
江戸時代後期に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』によれば、天降川の名称は、その水源が天孫天降の地とされる霧島山にあることに由来するとします。
しかしながら、江戸時代において天降川という名称は一般的ではなく、上流部から中流部にかけては金山川または安楽川、下流部は大津川または広瀬川と呼ばれていたと云います。
天降川の名称は昭和16年(1941年)、当時の牧園町町長が鹿児島県知事に請願したことによって復活し現在に至っています。
果たして、この天降川を天の川と見て良いものかどうか。

というわけで、天降川下流に鎮座する「鹿児島神宮」(かごしまじんぐう)にやってきました。

鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座しています。

式内大社(国幣大社)で大隅国一宮。かつては「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されていました。

なかなか立派な神社です。

創始は社伝によると遠く神代、「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされます。

和銅元年(708年)に現在地に遷座され、建久年間(1190 – 1199年)には社領2500余町歩の広さがあり、江戸末期まで千石を有していたといいます。

戦国時代から江戸時代には、島津氏の尊崇を受けた当社。
大永7年(1527年)に兵火により焼失したため、天文20年(1551年)に後奈良天皇の綸旨を得て島津貴久は日秀上人に再興を命じ、永禄3年(1560年)12月13日に新造社殿に遷宮しました。

『延喜式神名帳』では、日向、大隅、薩摩のいわゆる南九州では最も格の高い唯一の式内大社(国幣大社)となっており、その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人を神職から輩出しています。

祭神は「天津日高彦火火出見尊」(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)とその后とされる「豊玉比売命」(とよたまひめのみこと)。
相殿神に「帯中比子尊」(なかたらしひこのみこと/仲哀天皇)、「息長帯比売命」(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)、「品陀和気尊」(ほむだわけのみこと/応神天皇」、「中比売命」(なかつひめのみこと/応神天皇皇后)の八幡系4柱を合祀しています。

ところで、鹿児島神宮を「大隅正八幡宮」と呼ぶのは、当社が八幡宮の根本社だということに由来する、とされています。
しかし、あれ?八幡宮の本宮は、「宇佐神宮」では?
これには、次のような伝承があります。

かつて国分八幡(鹿児島神宮)と宇佐八幡(宇佐神宮)との間に、どちらが正統な八幡かを巡って争いが起きました。
この時、宇佐八幡は密かに15人(14人とも)の使者を遣わして国分八幡を焼かせたといいます。
国分八幡の社殿は燃え上がり、黒煙を昇らせるのですが、その黒煙の中に「正八幡」の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は一斉に溝辺の地まで逃れて行きました。
ところが、彼らには神罰が降りたのか、次々と倒れ、その数は13人に及びました。

亡くなった13人を憐れんだ土地の者は塚を盛って霊を慰めましたが、その数が13であったことから、そこを「十三塚原」と名付けたといわれています。

この伝承が真実かどうかはなんとも言えませんが、その伝えるところは、鹿児島神宮と宇佐神宮の間に、本家・元祖の諍いのようなものが存在したことを匂わせています。



鹿児島神宮の境内周辺には、いくつかの摂社・末社が見受けられますが、

その一つに稲荷神社があります。

赤い鳥居に誘われて歩いて行きますが、

だんだんと、怪しげな雰囲気になってきました。

森の中を彷徨っていくと、

二つお社がありました。
息長帯媛命(おきながたらしひめのみこと)を祀る「大多羅知女神社」(おおたらちめじんじゃ)と、

大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀る「山神神社」(やまのかみじんじゃ)です。
いくつかの神社では、門の神として豊石窓神(とよいわまどのかみ)・櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が配されているのを見かけますが、稲荷社の門神として神功皇后と大山祇神が祀られているのは、見たことがありません。

そして参道はさらに奥深くへ続いています。

どこまでいくの~・・・

と、ようやく稲荷社が見えてきました。

石垣で整地された、厳かな空間。

神々しい稲荷社が、密やかに鎮座していました。

創建や由緒は不詳。

祭神は「宇賀魂命」(うかのみたまのみこと)、「大宮売命」(おおみやのめのみこと)、「猿田彦命」(さるたひこのみこと)となっているようです。

この稲荷神社の鎮座地を見てみると、鹿児島神宮本殿のほぼ真北にあり、鹿児島神宮を参拝すると、同時に稲荷神社にも参拝する位置になっています。
また、鹿児島神宮の元宮(旧鎮座地)とされる石體神社(しゃくたいじんじゃ)のほぼ真西に当たることから、この稲荷社が鹿児島神宮の神体ではなかろうか、と思えてきます。

そうやって見てみると、あるんですよね、磐座らしきものが。

三角形の、不思議な造形の岩。
磐座と言われればそのようでもあり、ただの岩と言われればそのようでもある。

でもこのあたりからは何かの氣配を感じ、さらにこの上にも何かあるような気がします。

社殿の左側にも小さな洞穴のようなものがあり、

お稲荷さんが祀られていました。

さっきの磐座らしきものを、横から見た図。

顔をなくした神使は、何を思うのか。

また、少し離れたところには、蛇がとぐろを巻いたような腰掛け岩がありました。

12世紀初期以降、平安時代後期に成立したとされる『今昔物語集』巻第十一の中に、八幡石清水宮の放生会についての説話が収められており、「(前略)初大隅ノ国ニ八幡大菩薩ト現ハレ在シテ、次ニハ宇佐ノ宮ニ遷ラセ給ヒ、遂ニ此ノ石清水ニ跡ヲ垂レ在マシテ、多ノ僧俗ノ神人ヲ以テ、員ズ不知ス生類ヲ令買放メ給フ也、(後略)」とあるとのことです。
八幡大菩薩が最初に大隅国に現れ、次いで宇佐宮に遷り、遂には石清水宮に遷ったと記されているわけですが、やや政治的匂いを感じさせるものの、ここに何か、神秘的な存在があったことを示しているのかもしれません。



鹿児島神宮の北東300mほどの位置に鎮座する「石體神社」(しゃくたいじんじゃ/石体)に足を運びました。
和銅元年(708年)に鹿児島神宮が遷座したので、その跡地に社殿を造ったのが当社であると伝えられます。

当地は、「天津日高彦穗穗出見尊」(あまつひだかひこほほでみのみこと)と「豊玉比賣命」(とよたまひめのみこと)が、高千穂宮(たかちほのみや)を営んでいたところであると伝えられ、鹿児島神宮創建の由来ともされています。

が、その前に、なんとも不思議な神社があります。
「卑弥呼神社」「卑弥弓呼神社」です。

由緒には分かったような分からないような話が書いてありますが、まあそれは置いておきましょう。

ただ、八幡宮系で、鹿児島神宮ほどはっきりと親魏和王の「豊玉女王」を祀った神社は、他にはないのではないでしょうか。
本家・宇佐神宮では、かなりしっかりと隠されています。

そして宇佐の豊玉姫こそが魏書に記される姫巫女(ヒミコ)である、と知っている人が、このヒミコ神社を建てたのではないかとさえ疑います。

大隅・薩摩といえば、物部イニエ王の前妻、コノハナサクヤヒメたる阿多都姫の国であるように思っていたのですが、意外なほど彼女の痕跡は少なく、代わって豊玉姫を祀る神社・伝承が多いことに気が付きます。

これはどう言うことか。

鎌倉時代中期・後期にに成立した『八幡愚童訓』(はちまんぐどうくん)は、八幡神の霊験・神徳を”童蒙にも理解出来るように説いた”寺社縁起であるとされます。
これによると、
「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという」
とあるとのことです。
色々とツッコミどころはありますが、欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したのがこの旧社地であるという由縁とされているようです。

八幡愚童訓は元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても有名で、特に対馬・壱岐入寇について記された史料は他にないとされています。
著者は不明で、石清水八幡宮の社僧・祠官の作と考えられています。

あらすじとしては、迫り来るモンゴル軍に対して日本の武士たちが完敗する様が描かれ、武力も尽き果て日本側はもう終わりかと思われたその時、夜間に筥崎八幡宮から現れた30人ばかりの白衣の者が蒙古軍の船団に向けて矢を放つ。
大混乱に陥った蒙古軍は、炎上する筥崎の街の火が海に映るのを見て「海が燃えている」と驚き、我先に逃げ出したため、翌朝には大船団は一隻残らず消えていた、という内容です。
これがいわゆる、「文永の役では蒙古軍は大嵐に襲われ、わずか一日限りで撤退した」という神風史観に結び付くこととなりました。

要は、八幡愚童訓は祈祷による箱崎八幡の神威の顕現によって度々蒙古軍が撃退されたことを主張するものであり、元寇当時に敵国調伏の祈禱を行った社寺側が、自分たちの功を朝廷に訴えて、武士以上の恩賞を得ようとするための「元寇における八幡神の活躍を宣伝した布教用文書」であると考えられています。
誇張された部分も多く、そのため嘘である内容も多分に含み、真実の根拠とするには厳しい側面があるように思います。

石體神社は「天津日高彦穗穗出見尊」と「豊玉比賣命」を祭神としますが、

豊玉姫は、鵜の羽根で葺く産床の葺き終えないうちに出産を終えたほど、お産が軽かったという解釈で、ここでは安産の御神徳篤く崇敬されているとのことです。
本殿の前にある石塔の小石を御神体の代わりにひとつを頂き、産後は河原の清浄な小石を拾って2個お返しする慣わしが続けられています。
岩田帯も、この石體神社より出た言葉という説があるそうです。

本殿の横には、磐座っぽい岩もありましたが、やはりあの稲荷神社の岩の方が、それらしく感じられました。


ついにここが、と思いながら読ませていただいています。 さくちゃん❤たまちゃん きたー ←うちの天然媛の言い方です😂
アタツ姫の痕跡は鹿児島県の広域で調べてみたい案件です。薩摩と大隅では全く文化も違い、大隅の一部から日向國へのエリアに霧島山系も内包するので、都万・豊王国連合以前の歴史の証をもっと掘り起こしたいです。
さくちゃんたまちゃん、鹿児島は気になるエリアですね〜😊
このお話を読ませて頂いていた当初から、北極星にあたるランドマークを探していました。
天空での配置から、北極星の位置は藺牟田池になるのでは?
また天空では北極星を中心として北斗七星の反対側にはカシオペアがあります。
では、藺牟田池の反対側には・・・?
甑島列島がありますね。もう少し大スケールで考えると良いかも知れません。
さすが、よせふさん。
おっしゃる通り、スケールの大きな話なのです😌