大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経(おほなむち すくなひこのいましけむ しつのいわやは いくよへにけむ)
–『万葉集』巻3-355 生石村主真人
ずっと気になっていた島根県大田市静間町の海蝕洞「静之窟」(しずのいわや)を訪ねました。
そこは生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)が歌い『万葉集』(巻3-355)に収録される「志都乃石室」(しづのいわや)の比定地の一つとされるからです。
「大汝(おほなむち)と少彦名(すくなひこな)の二神がいたという志都の石屋(しつのいはや)に、どれほどの時が流れたことか」
この歌は少し疑問を感じる部分があります。
この二つの出口を持つ洞窟は高さ15m、幅30m、奥行45mの海蝕洞で、大国主と少彦名が国造りの際に仮住まいした洞窟であると伝承されます。
小さい方の洞穴の上にある石板には、この静之窟に関する由緒が書かれているようです。
ふむふむ、なるほどわからん。
鳥居がある方の洞穴の奥には
石碑がポツンと立っているのが見て取れます。
現在では洞内は崩落の危険があるため、立入禁止になっています。
しかしその注意書きは洞穴の側面のコンクリート壁に貼られているのみで、十分な下調べをしていない猪突猛進な僕はあわや侵入するところでした。
よく見てみれば、上から落ちて来たと思われる巨岩も見えます、こわっ!
この洞窟は江戸中期の延宝2年(1674年)の大洪水で集落が流され荒廃したままになっていたが、大正4年(1915)に洞窟を整備し歌碑を建てたといいます。
この歌碑は題字を徳川家達の筆から、そして歌碑は千家尊福の筆から写されているそうです。千家家か、ぐぬぬ。
真実を知らぬではあるまいに、ぬけぬけと。
この歌の示すところは西出雲王家・郷戸家の8代目大名持「八千矛」(大国主)と東出雲王家・富家の8代目少名彦「八重波津身」(事代主)が、国造家の先祖、ホヒとヒナドリ親子によってそれぞれ別の洞窟に幽閉され、枯死させられた事件を伝えるものです。
その場所は富家の伝承により、猪目洞窟と粟嶋であると伝えられているので、舞台はこの静之窟ではありません。
しかし洞穴で出雲の偉大な王と副王が亡くなられたことを知る人が、当地に御霊を祀られたのだと思われます。
それにしてもこの静の海岸は不思議な形の岩が多く、この虎の子が座っているような岩の穴から差し込む光がとても神々しいのでした。
この静之窟の洞窟内には平安時代・仁和2年(886年)創建の静間神社が鎮座していたそうです。
しかし延宝2年(1674年)の静間川の大洪水で崖が崩壊、静間神社の社殿は丘上の垂水地区に遷されています。
海岸を歩いていると、石神が祀られた、見覚えのある風景に出会いました。
なるほど、日々大切にされてある様子。
微笑ましい光景です。
垂水地区に遷されたという静間神社にも足を運びました。
垂水といえば月神信仰が思い浮かびます。
車道を挟んだ対面には、月が映しとれそうな池があります。
志都乃石室は、平田篤胤(ひらたあつたね)が『古史伝』19巻で静之窟のことであると比定しています。
他の候補地は兵庫県・生石神社の石乃宝殿や島根県邑南町の志都岩屋神社の岩屋のようで。
でもなぜ「しず」なのでしょうか。
粟嶋の洞窟は「静の岩屋」と今でこそ名付けられていますが、それは後からそう呼ばれるようになっただけではないか。
「しず」といえば「倭文」、機織り文化を日本にもたらした秦族が祀る神社が倭文神社(静神社)であるとされます。
倭文族の祖・建葉槌(たけはづち)は秦族海家の人間ですが、大国主と曳田・八上姫の娘、下照姫を妻に迎えています。
当然倭文族は出雲寄りの一族であったのですが、西出雲王国領の当地にその一部が住み着き、ここを静の海と呼び暮らしたのかもしれません。
そして先祖の同僚が犯した大罪を忘れぬため、贖罪と鎮魂のためここに出雲王と副王を祀ったのではないかと思われたのでした。