景行帝が行幸した時、この山の山頂に八十女という土雲がいた。八十女は帝の命令を拒み、背いて降伏することも無かった。
そこで、帝は兵に奇襲させてこれを滅ぼした。これにより嬢子山と呼ばれるようになった。
小城の南西、多久市に聳える美しい両子山(ふたごやま)、
それに鬼ノ鼻山には土雲族がいたと言い伝えられます。
風土記に記され土雲・八十女人(やそをみな)がいたというのが嬢子山(をみなやま)であるとし、これらの山が比定されていました。
鬼ノ鼻山をズームすると、
お、
鬼がーっ!
この八十女人伝承地の近くにも、神籠石がありました。
おつぼ山神籠石です。
おつぼ山神籠石は、1962年(昭和37年)に全国で8番目の神籠石として発見され、翌年に発掘調査が行われました。
その結果、朝鮮式の山城であることが確認され、それまで神域説と山城説で大論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史にその名を残してるのだといいます。
南門、東門、第1水門、第2水門および列石を有し、その列石は総延長が1866m、数は1313個あるそうです。
おつぼ山の標高は約62m。
山というより丘と言った方が良いくらいです。
それを高さ70cm程度の石を並べ、土を盛ったところで城となりえるのでしょうか。
おつぼ山を半周すると第1水門に出ました。
この第1水門前からは柱根3本が出土しています。
神籠石は文献に出てこない遺跡のことであり、その築造の時期については様々な異論があるところです。
このおつぼ石神籠石は山城としての特徴を有しており、663年の白村江の戦いに関連させる説が有力です。
しかし大野城や基肄城、金田城を見てきた僕は、それら百済式の古代山城とこの小さな丘が同じものとは思えません。
神籠石は土塁のための礎石程度にしか役目を果たしておらず、その土塁が大規模な戦争で防御力を有せるとは全く思えないのです。
やはりこれは聖域のための結界ではなかろうか、というのが僕の印象です。
そしてそれら神籠石は、土雲の戸畔がいたと言い伝えられる場所に、見かけられるのです。
さて、この一帯にいたと伝えられる土雲・八十女人、それは名前から、複数の姫巫女が統治する集落がここにあったことを連想させます。
それは小さな集落が寄り添ってできた連立政権があったことを表しているのかもしれません。
八十女人がいた山は嬢子山と呼ばれていたことから両子山のことであるという主張があり、また鬼ノ鼻山もかつては嬢子山(おとめやま)と呼ばれていたからそうなのだという主張があります。
僕はそのどれも神奈備として十分な美しさと風格を有していると思いますし、それぞれに統治する姫巫女・戸畔がいたのだと推察します。
彼女らが団結して八十女人となり、その共同の聖域の一つがおつぼ山神籠石であったのではないかと思えるのです。
第1水門から一旦戻り、498号線を北に進むと第2水門があります。
登ってみると、残念ながらブルーシートで覆われていました。
案内板によると、黒部ダムのような優雅なアーチを描いているようで、しっかりと見てみたかったです。
まあご近所なので、そのうち改めて出かけてみようと思います。