昔、景行帝巡幸の時、志式島(ししきのしま/平戸島)の仮宮から西海を見ると、海の中に島があり、多数の煙が立ち上っていた。
そこで、帝は阿曇連百足(あづみのむらじももたり)を遣わせて探らせると、そこには八十余りの島があり、そのうち二つの島にはそれぞれに人が住んでいた。
第一の島を小近(をちか)と言って土雲の大耳(おほみみ)が住んでおり、第二の島を大近(おほちか)とって土雲の垂耳(たりみみ)が住んでいた。その他の島には人は住んでいなかった。
そこで百足は大耳らを捕えて報告すると、帝は「誅殺せよ」との勅命を下した。
大耳らは頭を下げて「我々の罪は死に値し、1万回殺されても足りぬ罪です。が、もし恩情によって生かして頂けるのならば、御贄を作って奉り、御膳を恒に献上致しましょう」と言って、すぐに木の皮を取って、長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑などの料理を作り、それを見本として献上した。
すると、帝は恩赦を与えて釈放して言った。
「この島は遠いが、まるで近いようにも見える。よって近島(ちかしま)と呼ぶが良い」。これによって値嘉(ちか)という。
長崎県松浦市志佐町鎮座の「淀姫神社」(よどひめじんじゃ)を訪ねます。
九州北部各地に存在する淀姫神社群の中でも創建年代がとりわけ古い社と云われています。
創建は欽明24年(563年)とされますが、おそらくもっと古くから当地は土雲の重要な聖域として守られてきたのだと思われます。
神社の由緒によると、十二代景行帝の時代、神功皇后が新羅に出兵するにあたり、妹である淀姫命を松浦に遣わされたと伝えています。
淀姫命は松浦より出陣し、海を味方につけ見事新羅軍に勝ちました。
その後、松浦に戻った淀姫命は、病人の治療や干ばつの雨乞いをされたことから、今でも五穀豊穣、雨乞い、天文暦学の神として崇められているそうです。
が、ちょっと待ったー!
神功皇后に淀姫なんて妹おらへんねん!
佐賀の與止日女神社でも淀姫は神功皇后の妹だって話がありました。
でも違います。
「與止日女命 」(よどひめのみこと/与止日女命)は、またの名を「豊玉姫命」(とよたまひめのみこと)といい、海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘にあたるとされます。
綿津見神とは秦国から徐福とともに渡ってきた童男童女の御霊です。
徐福は船団を率いて、故郷の3000人の童男童女とともに海を渡りましたが、荒波激しい玄海の海を全ての船が渡り切ることはできず、海の藻屑と消えた命も多いのでした。
彼らの魂は海童=綿津見の神として、生き残った者たちによって祀られたのです。
また彼らの航海で目印となったのは南の夜空に輝く星(オリオン座の三つ星)であったので、星を意味する筒の神として、住吉大神が祀られました。
徐福らは道教の星神を信仰していました。
故に綿津見と住吉の神は、記紀の中で同時に生まれた設定となっています。
ともあれ、宇佐の女王・豊玉姫は、物部の血を引いていることをこの伝承も謳っています。
また、当社境内には稲荷社も鎮座していますが、稲荷神も物部・秦氏の神。
当地に豊玉姫を祀った姫巫女は、同じく物部神をここに祀ったのですが、
伏見稲荷社の横には
なぜか淡島大明神が祀られています。
淡島神は事代主が亡くなられた聖地・粟島に由来するもので、つまり出雲神・事代主を表します。
しかも参道のより中心に近い場所に、より大きく祀られている印象。
これはどういうことか。
やはり豊玉姫は物部の血を引きつつも、出雲の血もまた濃く受け継いでいると感じさせるのです。
淀姫神社境内には、ソテツやビロウの木が植生しており、南国を思わせる雰囲気もあります。
そんな境内を散策していたら、柵に囲われた木があったので近づいてみることに。
ライオンズクラブの記念植樹でした。
ライオンズクラブという名前の寄進は神社でよく見かけます。
と、そこで社側を振り返ってみると、おお、しめ縄が張ってあるではないですか。
磐座でしょうか。
小さなダルマ型の石が祀られています。
神奈川で見たアラハバキに似ています。
そしてその奥、
淀姫大神と掲げられた鳥居の先は、
何なんだ、この磐座は!
亀の頭を思わせる、奇怪な岩。龍神か。
これは海蝕岩でしょうから、往古はここまで海が迫っていたことを示しています。
淀姫神社の聖域は海に突き出たこの岩の上にあり、潮が干くと龍神の岩が姿を表したのです。
ここには豊玉姫の末裔である土雲の姫巫女がいて、月読・干珠満珠の祭祀が行われていたのでしょう。
伝承では五島の島々のいくつかには大耳・垂耳などの土雲が居て、阿曇連百足(あづみのむらじももたり)を遣わせて捕らえさせたとあります。
しかしこの阿曇族も豊玉姫の末裔でした。
彼の助言もあって、大耳・垂耳らは助命されたのではないでしょうか。
景行帝がこれら島々を制圧する際、清浄の場所として假宮を建てたのが、この淀姫神社であると伝わります。
しかしそもそも、果たして景行帝は当地まで足を運んだであろうか、と僕は訝しんでいます。
当地の伝承は、景行を騙る別の物部族によるものであると、推察します。
この龍神の磐座の上部、大きな窪をして、淀姫大明神と祀るあたり、やはり出雲的なものを感じます。
ここが沖合の島々を含む、唐津から平戸にかけた一帯の土雲族の最大聖域の一つであることは間違いなさそうです。
では彼らを統べたのは大耳、垂耳であったか。
いや、彼らからはその風格は感じられません。
西端のヤマタイ国・土雲王国の女王は、あの海神の髪飾りを名に冠した姫巫女、「海松橿媛」(みるかしひめ)ではなかったかと思うのです。
どうか、窖に棲まう蜘蛛と蔑むなかれ。
その慈愛は大地を覆う土の如し、志は天高く舞う雲の如し、彼女らの威光は果ての島々にまで轟き渡っていたのです。
「ヤマタイ国よ永遠なれ」と。