見借:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 30

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昔、この里に土蜘蛛あり、名を海松橿姫といひき。天皇、国巡りしましし時、陪従、大屋田子をやりて、誅ひ滅ぼさしめたまひき。
霞、四もを含めて物の色見えざりき。因りて霞の里といひき。今、賀周の里といふは、訛れるなり

- 『肥前国風土記』

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佐賀県唐津市見借(みるかし)、そこに田園広がるのどかな集落がありました。

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その集落を見下ろす場所に鎮座する「見借庚申様」、それは

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猿田彦神社でした。

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サルタ彦、ここでもまた土雲と出雲の結びつきが窺えます。

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肥前国風土記は、昔、この里に土雲がいて、名を海松橿媛(みるかしひめ)と言った、と記します。

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景行帝巡幸時、従者の日下部の君の祖・大屋田子を派遣してこれを罰し、滅ぼしました。
その時に霞が四方に立ち込めて、景色がよく見えなくなった。よって霞の里というのだと。

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これが訛って「賀周の里」と呼ばれたそうですが、それが唐津の名の由来になるのでしょうか。
はっきりと賀周の名は残っていませんが、なぜか土雲の姫の名は、「見借」という地名で残っています。

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それは海松橿媛が、討たれてなお当地の村民に長く慕われ、語り継がれてきた証であろうと思われるのです。

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素朴な神社ですが、トイレなどはとてもきれいにしてあります。

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一枚の岩を用いた手水も趣深い。

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庚申の水とありますので、湧いた水なのでしょうか。

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境内を見渡すと、やたら石が多く置かれているのに気がつきます。

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何か意味があるのか、ないのか。

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当社創建は永禄8年(1565年)と伝えられます。

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猿田彦大神を祀り、猿田彦神社の名前が付けられていますが、「見借庚申」様とも呼び親しまれ、猿田彦に庚申尊を重ねているものと思われます。

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また当社では、毎年2月17日の初庚申節に、 「見借浮立」(ふりゅう)という踊りが奉納されます。
浮立とは室町時代から江戸初期にかけて流行した 中世芸能「風流」に通じ、祭りの行列の華やかな部分が独立して演じられるようになったものとされていますので、それなりに古いものであることがわかります。

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さらに遠く福岡・直方市の多賀大社前にある庚申社も、ここから勧請したものと伝えられており、何故か由緒深きものを感じるのです。

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ところで猿田彦と庚申尊を結びつけるものはなにか。それは庚申尊を表す三猿「見ざる・聞かざる・言わざる」にあるのでしょう。

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三猿は日本発祥と思われがちですが、そのモチーフは古代エジプトやアンコール・ワットにも見られるそうで、シルクロードを伝って中国経由で日本に伝わったと考えられているようです。

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博物学者、生物学者、民俗学者である南方熊楠(みなかたくまぐす)氏によれば、青面金剛と猿の関係はインドに起源があり、青面金剛はインドのラーマの本体たるヴィシュヌ神の転化であり、三猿はラーマに仕えたハヌマーンの変形といいます。

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日本では8世紀ごろ、「不見・不聞・不言」の教えが天台宗系の留学僧を経由して伝わったと云われており、三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになりました。
この庚申信仰の主尊が青面金剛であり、夜叉神でした。

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三猿は青面金剛を描く際にその足元に添えられた例が多く、ラーマ(ヴィシュヌ)とハヌマーンの関係を見ることができます。

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天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が庚申信仰と習合し、さらに日本に広まることになりました。

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ちなみに2010年リリースのUnicode 6.0にて、三猿の絵文字が実装されています。🙈🙉🙊
猿田彦のサルタとはドラヴィダ語で「長い」を意味し、長い鼻をした神ガネーシャのことですが、サルタも庚申信仰もどちらもインド由来ということで、両者は後世にたまたま習合したのでしょうが面白いものだと思います。

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境内の隅に鳥居があります。

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「大明神」と彫られた扁額。

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その奥の建物内には、旧本殿が保存されていました。

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さて、当地を治めていたという海松橿媛。
その名から思い浮かぶのは海藻の海松(みる・みるめ)です。

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今はあまり馴染みがありませんが、古代には一般的な食用海藻で、租税としても納められたそうです。
つまり命をつなぐ、とても貴重な海藻だったのです。

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和歌にも「見る」の掛詞として多数詠まれており、僕の印象に残ったのも、『人麿古事記と安万侶書紀』執筆中に和歌を調べていた時でした。
柿本人麿は海松を、恋しい女性として例えており、『伊勢物語』第八十七では、「海神が海松を髪飾りにした」との記述が見られます。

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黒色掛った黄緑色のオリーブ・グリーンに近い色として海松色(みるいろ)は表現され、お祝いごとに身にまとうおめでたい色であったり、着物の重ねの色目にもその名があります。
海松の形も「海松模様」として古くから様々なデザイン・様式に用いられています。

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このように古代から人々に大切にされ、愛されてきた海松を名に冠した姫巫女とはどのような女性であったか、想像に難くありません。

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まつろわぬツチグモと称され、滅ぼされながらもその名を地名に残されてきた戸畔。
この土地は谷となっており、三方が山で、北は海に向かって下っています。

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おそらく当地は海松橿媛の最終拠点であり、最後の砦だったのでしょう。
彼女の支配域自体は海の名を冠するあたり、唐津方面に至る広範囲にあったのではないでしょうか。

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この辺りは地元の豪族達が組織した海賊・松浦党(まつらとう)の拠点でもあります。
高台の境内から望むのどかな田園の風景は、海松橿媛が見ていた景色と、今もそう変わらないのではないかと思えたのでした。

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