妻隠る 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散らまく惜しも
(万葉集 2178番 歌聖柿本朝臣人麻呂)
愛媛県八幡浜市の、ノスタルジックな商店街そばに鎮座するのは「八幡神社」(はちまんじんじゃ)。
多くの八幡社と区別して「矢野八幡神社」と呼ばれます。
工事中の参道を登ると
こんもりとした丘(山?)の上の、こじんまりとした境内に出ました。
宇佐神宮の幻の特殊神事「行幸会」は、八幡大神の御神体である薦枕を入れ替える儀式として奈良時代より卯の年と酉の年の6年に1度行なわれてきたと伝えられています。
行幸会は、新しい御神体の薦枕が「薦神社」で作られるのに始まり、各社を巡りつつ宇佐神宮本殿(上宮)に納められ、上宮の古い薦枕は宇佐神宮の御炊殿(下宮)に納められました。
そして下宮の古い薦枕は再び各社を巡り、大分県杵築市の「奈多宮」に納められた後、海に流されました。
その海に流された薦枕が流れ着く先が、この八幡神社であったとされています。
当社の由緒によれば、宇佐神宮は当社の分霊を奉戴したとされ、すなわち宇佐神宮の元宮であると謳います。
矢野八幡神社の分霊は豊後水道を渡り、大分県奈多浜に上陸、景勝の地を求めて豊後、日向、肥後の各地を巡幸した8年の後、現在の宇佐市亀山に鎮座したと云います。
これはあるいは、宮島で亡くなったという豊玉姫のご遺体の搬送を意味しているのかもしれません。
豊後、日向、肥後の8年の巡幸はさておき、一度矢野八幡神社に安置されたのち、奈多浜に送られ、そこから宇佐神宮、ひいては御許山に遷され、埋葬されたのです。
八幡宮といえば神功皇后伝承が付き物ですが、三韓征討の折り、皇后の妹である豊媛命が当地に来駕し、壮丁を募り軍旅を整えたという話が伝わり、そのような霊蹟のある当地に八幡大神の神霊が降臨し、以来神主清家貞網が奉斎したと云います。
皇后の妹が軍旅を整えたとはありますが、その程度でわざわざ八幡神が降臨したとは大袈裟です。
これは記紀制作当時の藤原氏の圧政に、やむなく書き換えられた伝承ではないでしょうか。
この豊媛命というのは当然、神功皇后の妹などではなく、豊玉姫のことでしょう。
15代大君に就任した応神帝は、神功皇后の皇子・ホムタ皇子ではなく、豊玉姫の末裔である竹葉瀬ノ君であることを暗に示していると思われます。
また実際に応神帝は、当地の祖母神に参拝に訪れたのかもしれません。
当社祭神は、「誉田天皇」「大帯媛命」(神功皇后)のほかに「田心媛命」「湍津媛命」「市杵島媛命」の宗像三女神となります。
宇佐神宮でも中央に祀られる謎の祭神「比賣大神」は、一般には宗像三女神とされますが、その正体は豊玉姫。
この矢野八幡神社の宗像神も、本来は豊玉姫であった可能性が濃厚です。
ともかくも親魏和王の女王・豊玉姫の事跡は、ことごとく隠されてきたのです。
本殿の裏に、さらに高いところに祀られる摂社がありました。
一段上がったところには「生目八幡神社」、むむむ、物部イクメか。
さらに登ると一番高いところに波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神を祀る「愛宕神杜」と、その下に「大山祇神杜」。
こちらはクナト信仰の名残でしょうか。
矢野八幡神社の鎮座する、この小高い丘は、古来より「矢野神山」として世に知られ、多くの歌人に詠われてきました。
「妻隠る 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散らまく惜しも」
柿本人麿が詠ったこの歌の「矢野の神山」の場所は不詳とされますが、当地のことであると矢野八幡神社は言います。
「神の妻が篭れる矢野の神山は 露と霜で美しく色づき始めた ずっと見ていたいものだがやがて散ってしまうのが惜しまれる」
矢野八幡神社の社家は、清家貞網が奉斎して以来、今も清家氏が継いでおられるということです。