景行帝巡幸時、この里に、大白・中白・少白の三人兄弟の土雲がいた。
彼らは砦を作って隠れ住み、服従しなかった。
そのとき、従者で紀の直らの祖・穉日子を派遣し、罰し滅ぼさせようとした。
大白ら三人は叩頭て自分達の罪を述べ、ともに命乞いをした。よって能美の郷(能古美)という。
景行帝が熊襲を滅ぼして凱旋し、豊前国の宇佐の海岸の仮宮にいたとき、従者の神代の直に命じて土雲を捕らえさせた。
ここに、速来津姫という女がいて「私の弟・健津三間が健村に住んでおります。彼は石上の神の木蓮子玉という美しい玉を持っていますが、人に見せません」と言った。
神代の直が健津三間に尋ねると、山を越えて逃げたので、追って捕らえて姉の言葉の真偽を問うた。
健津三間は「実際に二種の玉を持っています。一つは石上の神の木蓮子玉で、もう一つは白珠です。中国の有名な玉にも比べられる程ですが、願わくば献上させて下さい」と言った。
さらに速来津姫は「篦簗という川岸の村に住んでいる人が、美しい玉を持っていて大変いとおしんでいますが、命令に従うことはないでしょう」と告げた。
神代の直はこれを追い詰め捕らえて問うた。篦簗は「実際に持っています。献上します。決して惜しみません」と言った。
神代の直は帰って、三種の玉を帝に献上した。帝は「この国は具足玉の国というがよい」と言った。今、彼杵というのは、それが訛ったものである。
また景行帝は、「私は多くの国々を経巡って、すっかり服従させ治めるに至った。まだ私の統治を受けていない逆賊はあるか」と神代の直に問うた。
神代の直は「その煙の立っている村は、いまだに統治を受けておりません」と答えた。
そこで神代の直に命じ、その村に派遣した。
浮穴沫媛という土雲がいたが、帝の命に従わず大変無礼であった。そのためすぐに誅した。よってこの村を浮穴の郷という。
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宇佐の豊国に神留坐す 豊き月玉の龍宮の姫命 数多の眷族を以ちて偉大なるヤマタイの王国を築す
末裔の者共悉く誅され 悉く従され 史は滅されん
されど亘りて歌い譚らん 我が姫命こそ天つ神よと 地つ神よと 然るに土雲の女王姫命と
常しえに 栄え祀らん
土雲歌譚
土雲歌譚篇の締めくくりとして、佐賀県嬉野市鎮座の「豊玉姫神社」に参拝しました。
嬉野といえば、「日本三大美肌の湯」。それにあやかってか、当地の豊玉姫は「美肌の神様」として崇敬を受けています。
豊玉姫神社参道の前にある老舗旅館「大正屋」さんは、
当地名物「嬉野温泉湯どうふ」のお店でも有名です。
嬉野温泉湯どうふは、温泉の湯に豆腐が溶け出し、とろりとした風合いがとても美味しい湯どうふです。
さて、当社では、豊玉姫の眷属として、なまず様が祀られています。
当地を流れる嬉野川には古くから大なまずが棲んでいて、豊玉姫のお遣いをしているのだそうです。
佐賀の與止日女神社でも淀姫神の遣いはなまずであり、そこではなまずを食べないのだと云われていました。
また、熊本の郡浦神社では、祭神の「蒲智比咩命」(かまちひめのみこと)がなまず神であると伝えられています。
蒲智比咩は阿蘇神社の主祭神・健磐龍命の后「雨宮媛命」(あまみやひめのみこと)であり、阿蘇の元宮と思われる国造神社には鯰社が鎮座しています。
健磐龍は阿蘇盆地にいた大鯰を退治したと伝えられ、一時は大和族に制圧されたようでしたが、今、阿蘇の祭祀を紐解くと、そこにあるのは蒲池系のものであることを知ることができます。
豊玉姫神社の創建は室町時代以前。
祭神は「豊玉姫大神」に加え、「春日大神」「住吉大神」となります。
藤原系の神の名がありますが、当地は他社のように、豊玉姫の名を隠すことはできなかったか。
この豊玉姫神社は日向国から勧請されたと伝えられていますが、古代の土雲族が、ここに祖母神を祀ってその名を守り抜いたというのが史実でしょう。
豊玉姫を祀る神社は九州北部を中心に多く存在していますが、表立って「豊玉姫神社」と冠する神社は全国に八社のみ。
当社のほかに鹿児島に2社、香川に2社、徳島に2社、それに千葉の香取市に1社です。(実際にはもう少し多くあるようですが)
これは逆に言うなら、鹿児島四国に至るまで、豊玉姫の名を守る勢力があったことを裏付けます。
祭神の豊玉姫は、古事記では海神・綿津見神の娘で、龍宮城の乙姫として記されます。
これは豊王国・ヤマタイ国の存在を消さねばならない状況下で、苦心して書き残した、柿本人麿の功績です。
宇佐の豊玉姫は大和東征を前に、地方豪族を取り込むため、魏国の後ろ盾が必要であると考えました。
そこで数度に渡って使者を出し、100枚の銅鏡と幟旗、そして親魏和王の金印を受けたのでした。
豊玉姫神社の境内には祇園社も鎮座しています。
祭神は素戔嗚であり、そこには大蛇退治の神話が伝えられていました。
スサノオのこの神話は、彼の子孫が出雲族を制圧した時に語られます。
当地でも物部族による土雲族征伐の事実があったと言うことでしょう。
本殿を挟んで反対側には、対照的に出雲系の神々が祀られています。
やはり土雲には出雲の血も濃く流れていると感じさせられます。
宇佐族はインドネシア系の原住民族に、秦氏が入り込み、生まれた一族であろうと考えられます。
当初の宇佐族は大きな勢力ではなかったと思われます。
しかしある時、豊を冠するようになってから、その支配域は一気に拡大します。
宇佐に「豊」の文字を持ち込んだのは富家の姫「豊水富姫」の血を受け継いだ海部家の宇奈岐日女(宇那比姫)でした。
東出雲王家は「富家」という名を直系意外に名乗らせることを禁じ、それによって「富」ブランドを確立させました。
これと同じことを、豊家も行ったのではないでしょうか。
「豊」と言う地名が豊前豊後はもとより、山口から四国方面にかけて散在します。
「玉」とは月のこと、月読の姫巫女である豊玉女王の時代に、豊王家は最も勢力を拡大しました。
しかし大和東征は成功したものの、物部イクメに裏切られて、豊玉姫の息子・豊彦は上毛国に追いやられ、娘・豊姫は鈴鹿の椿大神社で暗殺されます。
九州に残された、ヤマタイ・豊王国の勢力は物部王朝に対する裏切りへの恩讐を抱き、反旗をひるがえします。
まつろわぬ民、土雲族の誕生です。
しかし土雲たちの不運は、なまじ優秀な巫女が多かったため、それぞれが分裂して戦い、一つに纏まることができなかったことにあります。
偉大な女王を失った末裔たちは、恭順か死かを迫られたのです。
さらに歴史はヤマタイ国の痕跡さえも消し去ろうとしました。
なぜなら建前とは言え、親魏和王の女帝が大和を制圧したという歴史は、藤原不比等の日本を大国に比する存在であると世に知らしめることに、不都合だったのです。
豊玉姫神社の境内に「なまず様」というものがあります。
この白磁の「なまず様」は、古くから嬉野温泉の湯治客により皮膚病(白なまず)平癒の祈願多く、現在では日本三大美肌の湯に鎮座する美肌の神として人気です。
なぜ豊玉姫の眷属がなまずなのか。
それは豊家の巫女が月神祭祀を行う上で、月を映しとる水鏡が必要だったから、と推察します。
水鏡は池であったり、流れの穏やかな川であったり、または干潟の海であったりしました。
そしてそこに生息していたのが、なまずだったのではないでしょうか。
あるいは儀式の途中で、水面にその姿を度々表していたのかもしれません。
そうして蒲池族やその他の豊族の末裔たちに崇められてきたのです。
実に豊家の末裔たちは、さまざまな家に分かれていきました。
水沼、日下部、蒲池、安曇、etc.
その中で滅ぼされた多くの者が、土雲と呼ばれたのです。
恭順か、死か。
死を選んだものは、勇敢に戦いました。
豊族は女系社会なので、土雲の戸畔も多くが女性です。
景行帝は、恭順を示すのなら、我が子を腹に宿せと命じました。
それは景行帝には、物部であるが故の理由があったのですが、土雲の姫巫女も、それに付き従う者たちも、血の涙を流すほどの屈辱だったことでしょう。
しかし彼らはそれを乗り越えて、かの偉大なるヤマタイ国の痕跡を、名に、伝承に残してきたのです。
そしてこの豊玉姫神社にも、名前の他にも、水鏡の痕跡を残していたのでした。
湯豆腐に重曹を入れると、豆腐がトロトロになるんですよね。
立派なナマズ、、、面白いですね!!
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おお、重曹ですか、温泉の重曹の成分があの美味しい湯豆腐を生み出すんですね♪
賢くなりました!
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そうなのですよ。温泉の美味しさとまではいかないかもしれませんが、家でもあのトロトロ感は味わえると思います☆
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Hi ! Chirico!
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This is some awesome thinking. I love this! Wonderful ideas!💓
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