立花山と三日月山は古くは二神山と呼ばれ、イザナギ・イザナミを祀っていたと云います。
それは玄界灘からは双子の山のように見え、かつての海や陸の交通の目印として崇められてきたことに由来します。
そこで僕は少し気になって、志賀島にある志賀海神社を目指すことにしました。
志賀海神社へ向かう途中、小腹が減ったので名物「金印ドック」をいただくことにしました。
金印ドックは、よくある御当地B級グルメで、海の中道の中程の場所で、ワゴン車にて販売されています。
注文を受けてから焼き始めますので、10分ほど時間がかかります。
その間ちょっとだけ散策に抜け出すと、
この海があります。
oh、トロピカ~ナ♪
これは砂の流出を防ぐための堤防でしょうね。
そんで出来上がった金印ドックとはまさかの!
イカとステーキ肉による隙を生じぬ二段構え!金印カンケーね~
いや、わりと旨いんよ、これが。
となりの黄色いやつは、立花山で買った「はるか」さんです。こう見えて、とっても爽やかで甘いんです。
はるかさんは日向夏の実生(種から育つ事)から選抜育成された平成生まれの新品種なのだそうで、昭和55年に福岡県の石井氏が自宅の庭において「日向夏」の自然交雑実生を発見し、育成させた品種だとか。
んで、やってきました「志賀海神社」。
サルタさんちっす。
さすがは安曇の本宮、いつ訪れても濃密な空気に満たされています。
安曇は海人族ですが、山も同時に大切にします。
山を誉めると海が豊かになる、とても日本的で素敵な考え方です。
その山神の横の木がとてもサイノカミ的だというので、御神木になっています。
以前、安曇族の末裔である志賀海神社の神主さんがこの御神木の不思議な写真を見せてくださったので、僕もチャレンジしてみます。
が、なかなかうまく撮れぬ。
それはこんな感じの、いわゆる太陽光フレア、太陽曼荼羅などと呼ばれる現象の写真でした。
と、撮れね~。。
時に、志賀海神社は龍宮であると伝えられます。
他にも当地こそが龍宮であると、特に拘っている神社が京都の「籠神社」。
この両社を繋ぐものは、海部家と豊家であると僕は推察します。
古代宇佐氏に、ある時点で海部の血が入ります。
それが湯布院の宇奈岐日女。
その頃から宇佐族は「豊」を名乗り出し、一大豊王国を宣言し出した、それがいわゆる邪馬台国です。
そして豊王国の分家のひとつが安曇族ではなかろうか、というのが僕の考えです。
根拠としては、安曇の聖地である壱岐・対馬に月神祭祀と豊玉姫祭祀の痕跡が散見されるところにあります。
安曇族の主祭神は綿津見神です。
これは海の泡と消えた童男童女らの霊が神格化したもの。
龍宮は「わたつみの宮」とも呼ばれ、そこの乙姫として豊玉姫が登場します。
今回、僕が気になった場所というのが
本殿横に置かれた「亀石遥拝所」。
そこには確かに亀のように見えなくもなくもなくもない、そんな感じの磐座が置かれています。
これらの亀石は月神祭祀アイテムと思われる干珠・満珠に関連しており、この遥拝所は正面真東の伊勢神宮はさておき、なぜか方向の違う右斜めの大嶽神社・小嶽神社を拝していると案内されます。
ああでもね、しっかり二神山を拝しているんですよ、この場所は。
これを確認するために、今日当地に足を運びました。
サイノカミを彷彿とさせるイザナギ・イザナミを祀る立花山と三日月山。
それに呼応する二つの亀。
大嶽神社と小嶽神社は全く遥拝の方向が違います。
志賀海神社はもともと、志賀島の先端にありましたが、後に参拝しやすい今の場所に遷座しています。
遷座の時期は2世紀から4世紀の間であると志賀海神社に伝わっていました。
遥拝のラインを伸ばすと、確かに伊勢神宮方面に繋がります。が、宮中三殿はこれまた方向が微妙に合いません。
それに立花山山系には松尾山や白岳という名前もありました。
白岳、そうこれです。
白川・白水・白山信仰、豊玉姫ゆかりの月神信仰痕跡地には「白」の名が見受けられます。
対馬のサイノカミ霊峰はお酒の名にもなっている「白嶽」です。
白は月の白銀を意味しているのだと思われます。
志賀海神社と二神山の繋がりは、立花山に楠を植え、月神祭祀をした一族が安曇族であることを暗示しているのでしょうか。
その可能性は濃厚であるように僕には思えます。
ところで、この御神木の下に置かれた烏帽子石ってこれ、
サルタだよねぇ。
少しモヤモヤするので、大嶽神社と小嶽神社にも行ってみました。
後ろの階段、なんか角度が異常なんですけど。
ひいこら登っていくと
素朴な社殿がありました。
祭神は「志那津比古神」(しなつひこのかみ)、「志那津比売神」(しなつひめのかみ)、「大濱宿祢」(おおはまのすくね)に「保食神」(うけもちのかみ)となっています。
居並ぶ朱色の鳥居から稲荷社であろうかと思いましたが、伏見稲荷大社から保食神が勧請されたようです。
シナツヒコは神風を起こした神として有名な風神です。
志賀島も元寇の際の壮絶な戦場となっていますので、その際に祀られたのかもしれません。
大濱が当地の本来の祭神でしょうか。彼は阿曇の連の祖であると伝えられます。
『筑前国続風土記』によると、神功皇后が二韓(三韓)征伐時に資河島(志賀島)に停泊した時のこと、従者の大濱・小濱(おおはま・こはま)を呼んで次のように言いつけました。
小濱には島に行って火を貰って来るようにと。小濱はすぐに火を手に入れて帰って来ました。
大濱には近くに人家があったかを尋ねました、すると小濱が代わって言うには「この島は奈多の浜くにあり連なっています」
それで、近島と言ったのが、今は訛って資河島と言うのだと。
志賀島の名の由来については、narisawaさんが興味深い考察を述べています。
志賀高原や諏方地籍の四賀、松本市に合併された古い遺跡を持つ四賀村、そうしたものを踏まえ、この志賀と言う名前は安曇古来のというよりも別の要因が絡んでいるのではないかと言うのです。
それは志賀島の志賀は「鹿」であり、それを神使とする鹿島神宮系の一族が移動してきたのではないかというものです。
さらにこの鹿島系神使の由来は、諏訪の千鹿頭神にあるのではないか、と。
信濃国諏訪を離れ、関東を目指したタケミナカタ族に連なるよう、諏訪の原住一族・洩矢族の千鹿頭神族も一緒に土地の開拓に向かったとします。
千鹿頭神社系の最東端にあるのが「都々古別神社」、そのすぐ南は関東出雲国造家の領域で近くに鹿沼があります。
つまり、関東方面には古くから広範囲に鹿の神が居たことになります。
斎木雲州氏によると鹿島神宮家は、海家の村雲と事代主の娘・蹈鞴五十鈴姫の子である神八井耳の子孫、多家(太家)の家柄であるとされますが、古くはタケミナカタ・千鹿頭神族系の血筋によって形作られていたのかもしれません。
やがて藤原氏の手により鹿の神が大和の春日へ遷されますが、それに先立って筑紫の志賀島にも鹿の神が持ち込まれていたのだとしたら。
神功皇后の重臣である雷大臣は中臣であり、十分にそのことは考えられる要素となります。
確かに志賀海神社の山誉め祭は、出雲的な春秋の祭りであり、海人族でありながら御射山祭の様な狩りの神事が行われるのです。
以上、narisawaさんのご考察をまとめさせていただきました。
それにしてもこの大嶽神社の山頂は磐座だらけ、というか磐座の上に建てられた神社でした。
検索してみると、久しぶりに『神功皇后伝承を歩く』の「綾杉るな」さんのサイトが出てきました。
この時僕は気がつきませんでしたが、ここの崖近くまで進むと、二神山(立花山)を望むことができるそうです。
つまりここは、二神山の遥拝所なのです。
さらにるなさんは僕よりはるかに早く、志賀海神社の亀石遥拝所が二神山を遥拝していることに気がついておられました。
ただ、るなさんは物部系の星神信仰からこの要地を見ておられ、僕は出雲・豊系の月神信仰から考察しているというアプローチの違いがあります。
僕の考えは先に示したように、三日月山や白岳の名称から、亀石遥拝所や大嶽神社は月神祭祀の遥拝所であったと推察します。
それはもちろん、豊王家が月神を祭司し、安曇はその末裔であるという考えに基づきます。
ただ全ての古代氏族に言えることですが、単に太陽神のみ、月神のみ祭祀したと言うことではなく、星神も含め、日本の古代人は柔軟に祭祀したのではないかと考えます。
この志賀島の要所から望めば、春秋の頃に二神山方面から朝日が昇るというのも、まこと情緒深いと思わざるを得ないのです。
ところでこの案内板にある磐座はどこなのでしょうね。
あたりをうろついた限りでは、見つけることができませんでした。
さてさて、ついでに小嶽神社にも足を伸ばしてみます。
大嶽神社から県道59号線を挟んで向かい側、志賀中学校の裏手にぽつんとありました。
こちらもお稲荷さん風です。
祭神は「小濱宿禰」(おばまのすくね)、大濱宿禰の弟です。
大濱宿禰が阿曇連を賜姓され、阿曇大濱(あずみのおおはま)と呼ばれるようになったのは後世のことで、彼の生きた時代は阿曇連の氏姓は未発生であったと云います。
それらの話を聞いていると、安曇氏は決して大きな一族ではなかったような気がしてきます。
神功皇后に従軍し、その功績から阿曇連を賜姓された小さな一族、そんな印象が拭えません。
しかし安曇族はその後日本全国に展開し、阿曇、阿積、安積、安津見、安住、阿住、安角、安海、阿澄、熱海、厚海、厚見、渥美、(出)泉、飽海などの地名を残したとされます。
また志賀や滋賀の地名も同じです。
山誉め祭の祝詞が国歌「君が代」とほぼ同じフレーズであることも含め、安曇族にはまだまだ深い謎が残されているような気がしてならないのです。
小嶽神社の裏手の山は古墳でしょうか。最近まで九州で一番低い山(21m)でしたが、残念なことに現在は熊本県の「白島」(19m)に抜かれてしまったそうです。
まあさすがにここからは二神山は望めないでしょうし、やはり志賀海神社の亀石遥拝所が当地を遥拝しているとは思えない、とそんなことを考えながら、小さな山を降りていったのでした。
志賀海神社
色々教えて頂きありがとうございます
友人からパワースポットだと教えて貰い、今、志賀海神社を色々調べていました
志賀島の先端にあり潮の流れを采配し
ヒトの道行をも司る神様なのかなと勝手に解釈しているのですが
それは勝手過ぎますか?
志賀海神社の存在の意味を教えて頂きたく、、とか。
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ユウさん、ようこそ『偲フ花』へお越しくださいました。
志賀海神社について語るのは、どこから話せば良いのか、どこまで話せば良いのか、とにかく深い場所なのです。
志賀海神社は安曇族の聖地とされますが、もともとは今の場所ではなく、志賀島の先端の方に鎮座していました。そして宗像大社のように、そこに中津宮・沖津宮が今もあります。
さらに志賀島自体を辺津宮と見ると、壱岐が中津宮、対馬が沖津宮であると言えるかもしれません。
彼らはある時、これらの聖地を捨て、長野や全国に散っていきました。
祭神の綿津見神は、徐福と共に船出した童男童女のうち、日本にたどり着けず海の泡と消えた御霊を祀ったものと考えられます。つまり、志賀海神社の存在の意味は、安曇族の海に消えた先祖の御霊を祀る霊廟あり、また蓬莱信仰と龍神信仰を合わせた龍宮信仰の入り口であると言えるのかもしれません。
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確か、タテミナカタの入諏に関しては、洩矢神と、タテミナカタが天竜川で対峙したとあります。
そして守矢の鉄の輪が「藤弦」によってサビてしまい、負けてしまう。
確か、大陸出身説をとる藤原氏は昔は「藤」と呼ばれていたというのを目にしたことがあります。
タテミナカタが入諏した時期には既に事代主が居たという一部の伝承にある様に、入植側と受け入れる側には基本的に血筋の様なものが重要視されたと思われ、それが巧妙に隠されてきたのではないかと思います。
タテミナカタ入諏→その後、ハリマタケルの物部軍が秩父から小淵沢を経由して諏方方面に展開。(もしかしたらその時に長野の安曇も乗っ取られた?)それにより、タテミナカタに安曇族から嫁入り伝承が形成される(ヤサカトメには忌部の親戚説と安曇の姫説があります))
その後、政変により物部守屋の次男が入諏(守屋のおばあさんか。母親が信濃出身のような感じ)。祭祀を継承する。更には系図操作により、自らの出自を隠し、母系のタテミナカタの系図で一族を守る。
前宮にては、物部らしい色彩の生贄の習慣が定着。(黒不浄を嫌う出雲の気質に合わない)
それと、イスラエル式の十間楼の様式。まるで籠神社のダビデの星の様です。
長野県には碓氷峠の熊野皇大神宮にもタケル伝承。そして、諏方の隣の富士見町には原休戸千鹿頭神社には同じくタケル伝承があります。
諏方や富士見町の千鹿頭神社は3社形式をとる独特なもので、物部系の上、中、底を彷彿とさせます。
富士は、私はもしかしたら「藤」なのかもしれないと思うわけです。
神功皇后から藤原の勢力が、忌部氏、安曇を伴って全国展開したのではないかと考えています。
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藤原の氏族名は、天智帝以前から存在していたということになるのでしょうか?
確かに藤という文字は象徴的ですし、諏訪には物部や秦氏系の影響を感じます。ある方は前宮の祭祀はユダヤ系だと主張していました。
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藤が来てから、きっと本宮の国道20号のあたりは四賀になったのではないかと思っています
あと日ユ同祖論では、YouTube動画でもありますが、諏訪の前宮のことが出てきますよ〜
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