月讀神社

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そうか、壱岐なら日帰りでいけるんだ!
と改めて気づいた僕は、夜中に車を走らせ、フェリーに飛び込んでいました。
博多から壱岐へ渡る九州郵船フェリーの最終便は、PM11:30出港になります。それで壱岐着がAM2:15、対馬着がAM5:20。
壱岐芦辺港で仮眠をとって朝から島内を回れば、帰りの便の壱岐郷ノ浦港PM5:45発まで、壱岐巡りをするのに十分な時間があります。
なんたって壹岐嶋は車で1時間あれば一周できるくらいの島ですから。
ちなみに4m未満の車を乗せての渡航費は、壱岐往復で¥23,000程度となります。

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壱岐と言ったら「月讀神社」(つきよみじんじゃ)じゃい!
とばかりに、久しぶりに当社を訪ねました。
おお、変わったような、変わってないような。
前回の参拝はおよそ8年半前、平成25年の夏でした。

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入口にこんな石並んでたんだね。前回は気づいていませんでした。

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当社創建は不詳ですが、延宝4年(1676年)に平戸藩の命を受けて壹岐嶋の式内社の調査を行った「橘三喜」が、当神社を「月讀神社」に比定したと伝えられます。
これに異を唱える者もおり、三喜が当社を比定した理由はこの鎮座地が「清月」(きよつき)と呼ばれていたからであったということに因るものなのですが、『特撰神名牒』に「神社考に国分邑深渕の岸の上山端に山の神と称するあり、この深渕を訛りてふかつきと云り、其渕今埋りて猶水の溜れる渕の跡あり、きよつきとも云ふ」とあり、当地は別に「ふかつき」と呼ばれており、その語源は「深渕」であるから、この三喜の判断には疑問が持たれているとのこと。

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なるほどなるほど、過去の僕だったら、確かにここを月讀神社と比定したのは怪しいね、と考えたかもしれません。
が、意義有~りっ!!
清月が深淵?月神じゃなくて山の神?上等じゃい!と言いたい。

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まず壹岐嶋・津島を支配した古代史族は「安曇族」(あずみぞく)で間違いありません。
安曇族は月神信仰を主とした豊王家(邪馬台国)の分家でした。
安曇族は志賀島から壹岐嶋・津島に至る玄界灘を支配する、海洋氏族です。
志賀海神社山誉祭は、海洋氏族の彼らは、山を大切にすることで海が豊かになることを知っていたことの証です。
つまり彼らが神聖な場所に山の神も一緒に祀っていたとして何ら支障はありません。

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また「其渕今埋りて猶水の溜れる渕の跡あり」、僕は月神祭祀において、月を映しとる水鏡は重要であったと考えています。
ここに清らかな水が溜まる淵があったというのなら、これこそ有力な比定の根拠となりうるのでは、と思います。
そうなのです、壱岐で観光化に尽力している皆さん、月讀神社を盛り上げようとしている皆さん、堂々と胸を張ってください!
当地が紛うことなき月讀神社です!!・・・たぶん。

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月讀神社の祭神は月の三つの形、「月夜見命」「月弓命」「月読命」です。
社殿の横にも、月神を祀る小さな石祠が鎮座しています。

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橘三喜が当地を月讀神社として比定するまでは、社殿もなく、長い間忘れ去られていたそうです。
それもそのはず、月神信仰、特に邪馬台国・豊王家の存在は、大和王朝によって厳しく隠されていたのですから。
そのような中、当地に残った豊族の末裔はひっそりと聖地を守り続けたのでしょうが、いつしか祭祀する者もいなくなり、単に「山の神」が鎮座するという伝承のみが残されたのでしょう。

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参拝を終え立ち去ろうとした時に、こんな案内を発見しました。
以前来た時はあったかな?と不思議に思い、足を向けると、

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何か石が祀ってあります。

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「これは何ですか?」とたまたまいらっしゃった御神職に尋ねると、
「平成25年にとある霊力のある方が、本殿の奥の雑木林に何かあるから刈って調べてみなさいと言われ、その通りにしたところ、このような石が見つかりました」とのこと。

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月讀神社には、神功皇后が三韓(二韓)征伐の際に腹に当てて出産を遅らせたとされる石「月延石」の一つが奉納されているとされていますが、現在はその所在が分からなくなっていると云います。
この石がそうでしょうか。

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そもそも神功皇后が石を腹に当てて出産を遅らせたという伝承は眉唾だと僕は考えます。
「月延石」とは、彼女が祭祀に使用した月の霊具「干珠・満珠」であり、このような宝珠型の石だったのではないでしょうか。

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また、僕は霊能力があるわけではありませんが、この土台に使われている丸く平べったい石、これこそが重要な石で、月読の御神体ではないかと思われました。
月神もまた子孫繁栄のための重要な要素を持っていて、これらの石の丸みはいかにも女性的で、サイノカミ的な意味があるのではないかと思えたのです。

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さて、月讀神社で御朱印をいただいていると、次のような案内に目が止まりました。
「國片主神社」(くにかたぬしじんじゃ)、前回も立ち寄りましたが、サラッと流した神社です。
が、月讀命の子孫、壱岐直の居住跡とあります。これは行かねば。

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壱岐の中央部、國片主神社の鎮座地には一風変わった石があります。

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丸く平べったい大小の石は「壱岐名勝図誌」に国分石とあり、壱岐の中心の道標にしていたと云われ、「へそ石」と呼ばれています。
元はもう少し南にあったもののようです。

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石柱の方は「渡良左ヱ門」という人が頂部に顎をかけたという伝説があり、巨石祭祀のシンボルだっと考えられています。
上部の六面十二菩薩の仏塔は後に置かれたもののようです。

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國片主神社の創建は、嵯峨天皇の御世、弘仁2年(812年)10月朔日、日輪の神勅を受けて鎮まる、と伝えられます。

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主祭神は「少彦命」(すくなひこのみこと)で、相殿神に菅贈相國、つまり菅原道真も祀っており、古くは「國分天満宮」とも呼ばれていました。

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当社が國片主と名付けられたのは、「遠き神代に於いて少彦命が大國主命と共に國土を二分して経営され給うに依る」と社伝には記されます。
さらに菅原道真公が合祀され、國分天満宮、國分天神と称されるようになったと。

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またネット上では、当社が古来、國分天神と呼ばれたのは、唐土から石舟に乗ってやって来た唐田天神を祀っていたものが天満宮との混同により國分天満宮となったと伝えるものもありました。
しかしそれは違うと思います。

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当社は本来、手間天神として少名彦=事代主・八重波津身を祀っていたものと考えられます。
やがて全国的に、事代主の末裔である菅原道真が天神として祀られるようになり、手間天神は天満宮として置き換えられるようになっていきました。
そうした新旧の祭神の変遷を残した、貴重な神社が國片主神社であるということなのではないでしょうか。

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多くの神社が少彦名(すくなひこな)と誤った名で祀っているのに、当社は歴史的に正しい「少彦」(すくなひこ)の名で祀っているのも好ましいことです。
そして何より、豊族の末裔にして月讀命の子孫、壱岐直が八重波津身を祭祀していたとなると、これは大いに意義があるものとなるのです。

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12件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    楠木は、史前渡来植物ともされ、九州にほぼ8割
    済州島の一部も持ち込まれたとされ、ほぼ大陸経由の植物
    原生林には殆どない樹木の様です
    他の移転地域が2割の様で、寒いところは向かない様です
    あの木を持ってかれる一族は、九州由来の一族の可能性がありますね

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    1. CHIRICO より:

      そういえば楠木で思い出したことがあります。
      福岡市東区にある立花山にクスノキの群落があります。
      立花山は低山ではありますが、玄界灘からは二峰の山のように見え、かつては海や陸の交通の目印ともなってきたとのこと。古くは二神山と呼ばれ、イザナギ・イザナミを祀っていたと云います。
      その山腹でクスノキが優勢な特異な構成をもつというクスノキ群落があります。
      山全体でのクスノキは数千本にのぼり、幹は高く伸び樹高30mを上回るクスノキも600本ほどあって、その規模は日本に他に例がないと言われます。
      立花山のクスノキは原生林ともされ、そのときにはクスノキの分布の北限にあたる。 但しその特異な植生や一部に一列に並ぶ木が見られること、若木がみられないことなどから、植林されたものが江戸時代を通じて「御留山」(おとめやま) として伐採が禁じられ、保護・育成されてきたためであろうとする意見も強いなどとWikipediaには書かれています。
      僕もそこを訪れた時は、並々ならぬ畏怖を感じたものでした。

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      1. narisawa110 より:

        なん・・・ですと?ww
        二上山

        奈良の笛吹神社、村雲の拠点も、神社の北西にある二上山と呼ばれてた範囲がありますよ。

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    2. CHIRICO より:

      あと立花山と対をなす二峰の片割れは三日月山と言います😊

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  2. narisawa110 より:

    おお〜、なかひらまいさんの本、読まれてましたですか。
    宇佐の伝承と、小野田家伝承には出雲伝承と異なることが書かれており、私が第一に挙げているのが宇佐氏の、島根出雲族とサルタ族を別部族として理解している点です。
    あれは、単に宇佐氏が、記紀との関係で独自に得た視点で、出雲族の前にもう一つの別の鼻高族に比定できる一族が来ているのか?と今では考えています。
    小野田伝承は、長髄彦とニギハヤヒ
    長髄彦は大彦と同じと解釈できるところと、そうでない所があります。
    つまり、記紀の書き方だと同一人物になるが、素材となった長髄彦はキチンと別に実在した、と言う視点です。
    これは、管八耳と、須佐男の描かれ方に似ていると思います。
    最初は気にも留めませんでしたが、これ結構あるなと。

    私がワクワク待ってるのは、宗方家です。
    クニオシヒトの特異点においては、出雲伝承も変更点がありました。大彦の時代です。
    そして、太田家への配慮を捨て、真実を書いた。
    つまり、ミカヅチの後のアタカタス。あれに変更が加わるのではないかという事です。
    アタカタスだけ、奥さんが消されていて不明なのです。
    東征の際の宗方家の動向はほぼ全く描かれてきませんので、また大鉈が振るわれるのではないかと。

    そして、アタカタスの後に豊の字が入り始めている様な気がする訳であります。

    籠神社は、安曇を親戚と言っていますが、分家なのか、本家なのかを言及していません。
    そもそもが、下記の内容に沿って、複数の系図を用意していた野心的な一族で、御影以降の系図が尾張氏と同じで、本来の叢雲の系図を利用して尾張氏が分家かの様に扱っています。

    海部氏本系図、勘注系図の「註文」を入れた系図は以下の通り(2パターンあり、場合によって使い分けを指示している。非常に野心的とも受け取れます。)

    タテイタツを一世孫とします。
    彦火明→彦火火出見→1建位起→2大和宿祢→3笠水彦→4笠津彦→5建田背→6建諸隅(先代旧事本紀でも6世の孫で彼が出てくる)→7大和得魂→8意富那比→9小縫→10小登与(尾張国造家)(宮主姫の父親。宮主姫はタケルの嫁)

    「註文」を反映した系図
    彦火明→彦火火出見→1建位起→3珍彦→4大和宿祢

    海部氏は「註文」によって、物部(山幸彦)を祖として歴史の勝者になれるよう準備をしていてそれを他言無用としていた。
    つまり複数の系図を用意していたという事になります。
    神武天皇の諱を彦火火出見尊としたのは誰であったのでしょうか?籠神社が絡んでいるのでしょうか?

    安曇氏の系図は唯一残っているのはじつは穂高神社の社家の系図のみで、武イタツが同一人物としても

    新撰姓氏録:安曇氏系図
    ワダツミ豊玉彦→-1(ここで分家して穂高見→安曇:穂高神社社家)もう一つの家系が-1振魂→1武位起→2珍彦→・・・

    解釈によっては安曇氏系譜は、安曇と紀伊家の系図に、本来無関係な村雲が入っている訳です。

    安曇氏が、単独の系図を公開してくれればブレイクスルーという事になりそうです。
    しかし、豊玉彦から別れた家で、宇佐氏が作ったとも取れる磯良の舞が「細男舞」と呼ばれることからも、細女ウズメとの関係が想像され、私の中で盛り上がりを見せています。

    五条先生の豊家分家説、多いに注目な訳でございます

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  3. narisawa110 より:

    安曇と伊都でずっと考えていたんです。

    安曇って、伊都だけ、よく考えたら唯一安曇地名ではない気がするんですよ。

    で、時系列無視ですが律令時代の、安曇の領域を俯瞰できる画像が載ってるHPがこれ
    http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16255664.html

    八井耳系(中津臣)の領域と、四国南を抜いた場所が、安倍色が入ってもおかしくない場所www
    伊都は、第一次物部東征前、倭国大乱期の戦端を切った、ヒボコ族の播磨単独侵攻で、ヒボコ族が逃げ込んだ先
    神床家「糸井造いといのみやっこ」そもそもが、伊都は、いとし、いそし、いずし、出石→神床家となり
    イトテはヒボコの末裔と出ています
    筑前国風土記逸文
     天皇(仲哀天皇)、いずれの人ぞや、と問い給うに、五十迹手、奏しけらく「高麗国の意呂山に天降り来たりし日鉾(ヒボコ)の苗裔、五十迹手これなり」。
     天皇、ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し手」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば、恪勤国(いそしのくに)と言うべきを、今、怡土郡といえるは、訛(よこなま)れるなり。

    つまり、ヒボコが逃げ込んだ先が伊都になり、そこから安曇族が入り込んでも、景初に十分間に合うわけです。
    景初までに大陸の炭素量が調整でき、辰韓の鉄を輸入でき、急激に実用鉄器までをヤマトに先駆けて準備する時間は十分にあります。

    よくかんがえたら金印と安曇族は昔から近いと言われながら、絶対的な結びつきを示すものはありませんでした。
    単純に志賀海神社の社家が昔から今まで安曇姓だったというだけなのがハッキリしている事です。(今は女性宮司が旧制安曇だったかと)

    これは土(雲)と関係してはしませんでしょうか?
    五條先生の驚きの記述で一気に何かがブレイクスルーした気がするんです。

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    1. CHIRICO より:

      志賀海神社の宮司さんとお話ししたことがあります。旧姓は安曇だとおっしゃっておられました。
      また伊都国にヒボコ族が逃れてきたのは間違いないと思われます。五十迹手の神跡もいくつか回りました。オキナガ姫時代にヒボコと安曇は北部九州に共存していたようですが、のちに安曇に習合されたのかもしれませんね。
      『漢委奴國王』、那(儺)の国の時代には、安曇は相当な支配力を持っていたと思われます。しかしまてよ、漢の方が魏より古かったはずなので、那の国は安曇の前身ということになるのかな??

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  4. narisawa110 より:

    ぎょ、ギョボ~www
    >安曇族は月神信仰を主とした豊王家(邪馬台国)の分家でした。

    ここでフラグ回収の妄想宜しいですか?安倍と土蜘蛛に関してです。先般の宮地嶽古墳=安倍説をずっと考えていたんです。
    長いですがすみません。結論から言うと、安曇って男系豊家と女系安倍家の土蜘蛛にされた一族ではと言う妄想です。

    阿曇比羅夫(比良夫)と阿倍比羅夫は死亡日が1年しか違わない。活躍したのは記紀成立50年前、650年代。
    比羅夫と磯良は、安曇氏の系譜には登場しない(共通性)
    磯良舞は、海人族と八幡信仰との習合であり、宇佐八幡の統括で、石清水八幡宮の事に言及しているのが宇佐氏の伝承の本(成立は少なくとも応神期以降、神功皇后の事が入っている)
    安曇氏が古い家系というのなら、本来の安曇氏の姿を現しているものではない可能性がある。

    注釈:712年古事記の神話として綿津見神が記される
    注釈:800年には新撰姓氏録にて安曇氏の始祖を綿積豊玉彦とする
    注釈:天武朝の帝紀編集委員には安曇連稲敷がおり、彼らの要望が反映された可能性がある
    注釈:斎木編集長著「飛鳥文化と宗教争乱」に磐井は大彦の子孫であるとある
    注釈:先代旧事本紀の国造本紀にも、大彦の5世孫、日道命(田道命)が初代筑紫国造とある

    系譜には、父系、母系でそれぞれ4つの家系が必要です。

    たとえるなら村雲の系譜が、1母系父(富家)2母系母(三島家:越智?小市?河野?新井田、仁田)3父系父(カゴヤマ→尾張家)4父系母(穂屋姫→物部家)

    対して、安曇族は新撰姓氏録の一つの家系しか存在せず、実際には自称の域を出ていないのです。

    これでは、男子か女子を貰った、男子か女子を輿入れさせたかで、結局4パターンが不明で、「本家なのか分家なのか」証明できないことになります。
    これは本当におかしな話で、首に歌われるほどの家系に「誰も利用価値を見出さなかったとは奇異な話」だと思うのです。
    これは消された一族なのではないか、土雲の雲(くもりと書いて曇)土蜘蛛とはそもそも出雲の雲が入ってるのか?

    仮定・五條先生に触発されまして、時間軸的に可能なケースを想定
       土蜘蛛の時代を、第一次物部東征から、物部政権終わり、景行天皇(九州親征服:神功皇后東征凱旋まで)とする。
       この間ならどの一族でも安曇氏になれると仮定
       地域を、阿閉アヘノ島(相島)東方面を含む仮定する(志賀島の東となり)
       母系か父系かは不明だが、受け皿の血筋を、ホヒ家(薄いですが)、海部(安曇=海住ともいう)、豊家、宗像(水沼?)、多臣(中津臣)、物男系本家?(クコチヒコ→菊池家の家紋は鷹羽紋:高木神)とする
       安曇が隠された理由は、安曇氏の要望により磐井=安曇が継体時代に加羅から賄賂を貰った事を隠す必要が出たため、母系か父系を入れ替えて他の家(安倍)とし、曖昧にした。
       筑紫国造家の祖である田道命を安倍とする

    古墳 宮地嶽古墳(藤高麿、助麿が安倍高丸、助丸のことである説が神社に伝承:宮地嶽神社https://fate-izumo.com/powerspot4461/)
       舩原古墳(宗像との関係、磐井や葛子との関係https://lunabura.exblog.jp/20913640/)
       岩戸山古墳(ちょっと離れているが磐井のお墓説)→岩戸山古墳(出雲系の神様石造猿田彦塔や大山咋命+大正時代に菅原道真合祀:ソラフルさんのHP)
       
    安曇氏に関係した古墳として、宮地嶽古墳がありますが、神社研究者の百嶋由一郎氏が、宮地嶽神社のもとの宮司は阿部氏だと発言していたようで、現在の浄見氏とは異なるらしい。(http://hiborogi.sblo.jp/article/185989693.html)
    特筆するべきは、「神功皇后は本来無関係だった神社」という事です。
    二世紀までは富編集長のおっしゃる通り、物部王国だとします。しかし、母系が村雲系と考えれば、影響する範囲は九州の広範囲に及びます。南西方面に向かって剣神社=タカクラジの領域があり六ヶ岳神社の宮司も兼ねた香月氏は長田彦(小狭田彦)の一族による香月文書によるとニギハヤヒの御子、天照日尊と市杵島姫の間に生まれた子孫で、本名・常盤津彦命のことであるいいます。物部ですね。(男系物部神、女系出雲神)

    女系安倍、五條先生のおっしゃる通り、男系豊家ならバッチリ雲になれると思います。
    蜘蛛の時代は男系物部は雲にならないと考えられます。
    男系八井耳系ならそもそもが雲にして虐める必要がありませんし、九州に地盤があり、西軍側だったとも考えられます。女系安倍家なら放置して書いても問題は発生しません。
    しかし、蝦夷になった阿部なら同じ村雲系でも雲になれます。
    ヤマトから九州方面への安倍系の神社として、布勢神社があり、バッチリ瀬戸内海にあります。出雲王家の紹介以外に、親戚を辿って、第二次物部東征が始まる前に九州方面に出雲系の親戚をたどっていった一派があっても不思議ではありません。
    四国の瀬戸内海側には高橋神社があります(詳細未調査:名前だけでの検索)

    五條先生のおっしゃる通りであるならば、男系豊家、女系安倍が安曇の本質ではないでしょうか?臣家、女系村長は安倍の伝統といえます。
    宗像は、東征の際に物部側に立ったと思われ、男系宗像であったなら、まず雲にはなれないのではないでしょうか?
    ホヒ系は面倒なので考えてません(笑い)
    安曇氏が隠されたのは、蜘蛛にされたから、景行の九州親征の対象になる家系と判断されたからではないでしょうか?

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    1. CHIRICO より:

      女系安倍、男系豊家説、確かにそれが一番しっくりきますね。
      ホヒはあり得ないでしょう(笑)
      壱岐・対馬には豊玉姫祭祀の痕跡があり、そこへオキナガ姫を磯良が案内したとあります。
      磯良の実在云々は別にして、壱岐・対馬は、宗像族の大島・沖ノ島に相当する聖域だったのだと思われます。
      相島がアヘノ島、雲が出雲という発想は面白いと思いました。確かにそうですね。
      人麿は古事記で、蔑称の土蜘蛛を用いず、土雲と記しています。それには出雲の血を受けていることを暗に伝えたい思いもあったのかもしれません。
      それで行くと、息子に村雲と名付けた五十猛も、出雲に対する憧れや崇敬をもっていたのか、あるいは村雲本人が就任時に自らその思いで名乗ったのか。
      名前に秘められたキーワードには、まだまだ注意を払う必要がありそうです。

      ちなみに水沼氏も豊玉姫を祭祀しています。こちらも豊族の分家だと思いますが、景行帝に恭順しているあたりは男系ということでしょうか。しかしおっしゃるように、宗像との関わりも深い一族です。

      豊にも海部(多分女系)が入ってきていると思われるので、
      (((物部+宗像)+海部)+阿部)=安曇って感じなのでしょうか。
      そういえば安曇の山誉祭では国歌と同じ祝詞が歌われていますので、多分現代でも強い影響力を持っていると思われるのですが、噂されるヤタガラスと同じく裏に潜んでいるのでしょうかね。

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      1. narisawa110 より:

        村雲の時代より古くから水稲に触れている可能性があり、系図の習合相手、有力氏族の協力者になりそうなのが、ダントツ一位が豊家、そして親戚かどうかは不明ですが、利害が近い越知家。
        じつは少なくとももう一つあります。それが名草の一族。
        紀伊の土地には九州から移転してきておりらその理由が稲作で人口が増えて移転の必要性が生じたと、なかひらまいさんの本に出ています。
        なんとシンボルツリーが、三島と同じ楠木なんです。本の中でも言及があります。
        五条先生の三島系神社ブログで楠木の話がありうっかり見落とすところでした。

        東の方は、穂高神社を見ても、杉、ではありませんでしょうか?
        安曇は、あまり楠木を重要視してない印象があります。

        さて、豊家はどうでしょうか?今日帰ったら楠木と宇佐家、調べてみようかと思います。

        出雲はヒノキですかね?
        ヒモロギ→モロは神で、神の宿る木

        じつは、我々が思っている以上に豊家ワールドは広いのではないでしょうか?

        先生のブログ、安曇磯良の三韓征伐参加を躊躇う磯良の記述。あれ本当だった気もしてくるのです。

        袂を分かったとしても元成務の奥さん、物部の姫に助力するのに躊躇いのある関係性があったのなら、正にブログの様な事になり、遅参の言い訳に容姿の事が書かれたとも想像できる訳です

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          楠木と宇佐の関連、僕も注意してみます。
          『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』は僕も拝読しましたが、楠木の表記は見落としていました。
          以前、ここにコメントをいただいている「れんげ」さんから当書について教えていただき、意見を交換したことがあります。
          「遺体を頭・胴体・足の三つに切り分けられ埋められた」とつたえられるインドネシア系の「ハイヌヴェレ神話」は豊家との関連が窺える高千穂の「鬼八伝承」に見られ、また長野の「魏石鬼八面大王」にも見られますね。
          どちらも「鬼」であり「八」が付いています。
          記紀では「オオゲツヒメ」と「ウケモチノカミ」の神話がそれでしょうか。

          れんげさんと僕の考察では、当初九州にはインドネシア系の渡海系民族が定住しており、そこに出雲族がやってきて海洋系宗像族や宇佐族の基盤ができた、そこに秦族がやってきて宇佐族が誕生したと纏まりました。それならば、「サルタ族が出雲に来た」ことを知っていた宇佐家伝承の辻褄も合います。
          そこから宇佐族の紀伊国移住があり、名草族となったのではないかと考えています。
          この移住はかなり早い段階に行わたと考えられ、中名草姫が村雲系の尾張家・健斗米に嫁いでおり、また登美家の豊御気主に名草姫が嫁いだと伝えられています。おや、ここにも「豊」があります。
          多分その頃、海部家の宇奈岐日女が由布にやってきており、そのあとから宇佐家が豊家と呼ばれるようになったのではないかと考えています。
          海部家と尾張家はほぼ同族ですから、名草族が宇佐に「豊」を勧請したのかもしれません。

          いいね

          1. narisawa110 より:

            宇佐族から見た出雲族の渡来時期に関してはずーっと考えてきた処です。

            まず、宗方家は四世紀辺りで大きな動きになっており、確か宗方祭祀はあまり昔まで遡れないと。
            さらに、先代旧事本紀ではミカヅチの後になっている点と、出雲伝承の違い

            さらには対馬の中臣家

            オミツヌの時代の宗方家は出雲伝承のみ突出していると考えざるを得ません。そしてほぼクニオシヒトの代でどこの家も代がイジられたり、別人が手前に来て一つの家になっていたり(三輪大君)、一人が別人で書かれたり(大彦)

            初期の出雲族は当然に幸神三柱信仰を伝えたとしても、何故猿田彦だけ別に宇佐によって記録されたのか

            雷や鹿以外に何かの動きを掴まないとダメな気がしているんです
            この点は私は全く考えが纏まっていません

            初期の宗方祭祀は別の一族がやっていても不思議ではない気すらしています

            いいね: 1人

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