宮崎市生目に「生目神社」(いきめじんじゃ)があります。
ここはコノハナサクヤヒメとされるアタツ姫が、イクメ王子を生んだ場所と伝えられています。
住宅街に埋もれるようにありましたが、訪れてみるととても風格ある神社で驚きました。
当社は古くから「日向の眼の神様」として眼病にご利益があるとされ、地元の人たちに信仰されてきました。
もともとは「生目八幡宮」(活目とも表記)という名前でしたが、明治維新の際に今の名に改めたそうです。
「生目」の名は、平家の勇猛な武将「藤原景清」のエピソードに由来していると伝えられています。
景清が源氏に捕まったとき、源氏の総大将「源頼朝」は彼の武勇を惜しみ、宮崎へと赴任を命じました。
しかし仇である源氏の繁栄を見たくないと、景清は自らの両の眼をえぐって空に放り投げ捨てこの場所に落ちたということです。
ただそれも「一説には、」と但し書きが添えられており、別の一説として「イクメ大王の皇子、オシロワケ(景行大王)が九州に遠征してきた時に、父を誕生の地に祀った」と記してあります。
社務所では眼病に効くという御神水を販売しています。
この御神水で目を洗ったり、沸かしてお茶として飲むと様々な眼病に効果があると云うことです。
神社の脇をかなり下っていくと、その御神水が湧き出している場所があるそうです。
祭神は「品陀和気命」(ほんだわけのみこと / 応神天皇)と「藤原景清公」。
相殿に「彦火瓊々杵尊」「彦火火出見尊」「鵜茅葺不合尊」の3柱を祀ります。
イクメ王の名は見当たりませんが、強いて言うなら、彦火火出見がコノハナサクヤヒメの御子であることから、彼が相当するのかと思われます。
アタツ姫はイキメの地に至り、御子を産んですぐに亡くなりました。
父イニエ王は後妻として宇佐の豊玉姫を后に迎えますが、やがてそのイニエ王も早世してしまいます。
真の物部王朝を大和に打ち立てるという、イニエの意志を継いだ豊玉姫は、イクメと我が子の「豊彦」「豊姫」を立派に育てました。
やがて時が熟したと察した豊玉姫は、その3人を中心に軍勢を率い、大和に向けて出航します。
これが第2次物部東征と呼ばれるものですが、豊玉姫もまた道半ばで、安芸の宮島で病が悪化し、そのまま亡くなってしまいます。
女王亡き後、軍の指揮者となったのはイクメでした。
彼はまず吉備王国の征服を目指したと云います。
生目神社の本殿を取り囲むように、立派な御神木がそびえています。
本殿左手にあるのが「オガタマの木」です。
幹周り3.2m、高さ17.5m。
オガタマは「招霊」と書かれ、赤いその実を手に持って、アメノウズメは天の岩戸の前で踊ったと云われています。
それは巫女が舞をするときに手にする、神楽鈴の元になったと云います。
本殿右側には「せきの神」の祠があり、
その上を巨大なクスノキが幹を伸ばしていました。
幹周り8.65m、高さ25mだそうです。
そして本殿裏に回ると、
「目かけの松」と書かれた小さな松の木がありました。
景清が自らえぐって空に放り投げ捨てた両の目が引っかかった松の木であると云うことですが、その松の何代目かの子孫でしょうか。
ところで物部イクメ王は、後に「垂仁天皇」(すいにんてんのう)と呼ばれるその人のことですが、記紀には「活目入彦五十狭茅尊」(イクメイリビコイサチノミコト)、「伊久米伊理毘古伊佐知命」(イクメイリビコイサチノミコト)などと記されています。
このイクメ大王の名前の「イサチ」とは 彼が魏に朝献に行ったときの名前です。
実は田道間守や物部十千根らが魏に赴き、印綬を受けてきたのを見て、イクメ王は自分も魏に行って印綬の資格が欲しくなったようなのです。
しかし大王になる予定の人が、使者のように外国に行くことは、さすがに憚られました。
そこでイクメ王は、自分の名が分からぬように、魏では別名を使い、使節の頭となったのです。
その別名が「イサチ」と言う名前で、「伊声者」、「伊佐知」などと記されました。
「魏書」は次のように書いています。
和王はまた大夫の伊声者と液邪狗ら8人の使いを送り、奴隷と和の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、本の小太鼓、短い弓と矢を献上した。
液邪狗らは、率善中郎将の印綬をもらった。
しかし記紀はイクメ大王が若かりし頃、自ら魏へ朝献に行ったことは、つまり和国が魏の属国だったことは、やはり絶対に秘密にしているのでした。