そうじてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめて記さず。
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」
~ 松尾芭蕉『奥の細道』
月山湖のサービスエリアに立ち寄ると、出羽三山のうちの、二つの山が見えていました。
右手前は天空の神殿「月山」、
真ん中に月山の副峯「姥ヶ岳」、
そして左奥にそびえるのが出羽三山の奥の院「湯殿山」(ゆどのさん)です。
月山湖に面した112号線沿いに「口ノ宮湯殿山神社」があります。
高い石段を登ると、
立派な拝殿がありました。
当社はその名の通り、湯殿山の祭神である「大山祇神」「大己貴命」「少彦名命」の3神を祀ります。
また配祀神として月山の祭神である「月読命」、羽黒山の祭神である「伊弖波神」も祀ります。
明治初頭まで当社は、出羽三山湯殿山派の別当寺のひとつ「月光山本道寺」でした。
社伝によると大同4年(809年)、空海が湯殿山を登拝した時、霧の中に光る老木を見つけ、この老木から「大日如来」「大黒天」の2像を造り、庵に安置したのが当院の始まりとしています。
その草庵を、空海は「月光山光明院」と号し、後に月光山本道寺、そして明治の神仏分離令を受けて湯殿山神社と称することになったと云います。
空海は旅立つ時、従僧に対し「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。さすれば大権現の霊験が世に現われるだろう」と言い残しました。
やがて本道寺は、空海の遺訓もあって湯殿山の中心的な別当寺となっていきました。
拝殿の横に「仏足石」がありました。
日本国内に現存する3尊のうちの1尊と伝えられています。
江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなりました。
「出羽三山参拝の本道」とされたため、街道沿いの集落は大変な賑わいを見せたそうです。
しかし明治元年(1868年)の戊辰戦争で大伽藍は焼き払われてしまい、その後再建されましたが、規模は往時に比べて大きく縮小されたと云うことです。
出羽三山の伝承では、第32代崇峻天皇(泊瀬部大王)の子「蜂子皇子」が、八咫烏に導かれて羽黒山に登拝し、羽黒権現を知覚した後、月山と湯殿山においてもそれぞれ月山権現と湯殿権現を知覚し、霊山三山の開祖となったと伝えられています。
しかし往年の湯殿山は三山には数えられず、別格の「出羽三山総奥院」とされていました。
それまで、羽黒山、月山に続いて三山と呼ばれていたのは「鳥海山」であったり、また「葉山」であったりしたそうです。
天正年間、これまで出羽三山の1つであった葉山は、別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、湯殿山と入れ替わったと云います。
葉山には今も「葉山神社」が山頂付近に鎮座していますが、往年の賑わいは、三山だった記憶とともにすでに失われています。
では、いよいよ湯殿山本宮を目指します。
湯殿山は、「出羽三山」のうち、月山の南西に連なる標高1,504mの火山です。
湯殿山の象徴と呼べる、朱色の大鳥居の前まで来ました。
ここまでは山中から有料道路を通ってやって来ます。
この先は徒歩、もしくは有料バスで御神体の近くまで進むことになります。
徒歩だと20分、バスなら5分といった道のりです。
湯殿山神社本宮は、山に囲まれた谷間にあります。
羽黒山の出羽三山神社、月山の月山神社が山頂に鎮座するのに対し、当社は実際には、湯殿山の麓というより、薬師岳・仙人岳・姥ヶ岳・品倉山に囲まれた谷に鎮座しています。
当の湯殿山は当社から見て右手奥に見えます。
なぜこのような位置にあるのか、それは動かすことのできない御神体が、そこにあるからに他ならないでしょう。
大鳥居の先には精進料理もいただける参籠所があり、
「湯殿山仙人澤」があります。
江戸時代以降、湯殿山の修験者の中には、「即身仏」になる人々が多く現れたと云います。
実際に湯殿山に関係のある寺院には、多数の即身仏が祀られており、今も拝することができます。
修験者が即身仏になるためには、山に籠り、一千日から五千日に及んで五穀(米・麦・豆・ヒエ・粟)を断ち、山草や木の実だけの木食行を行い、腐食を防ぐために肉体の脂肪分を落とさなければなりません。
やがて生きたまま土中の石室または穴に入り、錫を鳴らし仏の名を称えながら即身成仏を達成します。
即身仏になることは、苦行を通して自らの罪や穢れを除き、衆生の難儀を代行して救済するという尊い行でした。
その即身成仏の第一人者こそ、かの「空海」です。
この仙人澤は山籠した場所であり、即身仏となるための第一歩となる聖域でした。
そのためか多くの塚や祠が立ち並んでいます。
さて、湯殿山参道を満喫するなら、大鳥居から歩いて登るのも良い選択です。
しかしお気軽に参拝コースを満喫したいなら、バスで登って歩いて降る選択はいかがでしょうか。
はい、バスならあっという間です。
ここから少し、階段を下った場所に、神秘の御神体があります。
しかしこの先は「語るなかれ、聞くなかれ」と戒められた極秘の聖域。
当然撮影はNGです。
かの松尾芭蕉も『おくのほそ道』において、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな 」と句を詠むのみにとどめているのです。
しかしその様子も、現代においては広く報じられていて、あえて黙す必要も感じません。
ひどいサイトでは、盗撮されたと思われる御神体の写真も露出しています。
しかしそれでも構わないのかもしれません。
なぜなら、湯殿山本宮の真の感動、神威は、実際にその御神体の前に立ってみなければ言い表せないからです。
湯殿山本宮の御神体は、その名が示す通り、温泉水が湧出する茶褐色の巨岩で、流れる成分により生じた水酸化鉄がウロコ状の塊となって付着した岩肌を流れる湯が、なんとも美しく神々しいものです。
僕自身、情報を得て湯殿山を訪れましたが、言葉や写真では全く真価が伝わっていませんでした。
湯殿山は、その目で実際に御神体を目の当たりにしないと、何も伝わりませんし、何も理解できません。
湯殿山神社では社殿など無く、直接御神体を拝します。
神域入口で素足となり、穢れを祓った後、御神体から溢れる湯に身を浸し参拝するのです。
この時、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の心境をようやく理解できます。
そこはまさに、 生命の根源を想起させる場所なのです。
御神体の前に社務所があり、御朱印と「おあか」をいただきました。
おあかは、御神体から湧出する湯から採ったもので、少量ずつ湯に溶いて飲むことで、御神徳を得るというもののようです。
興奮冷めやらぬ御神体参拝の後は、のんびり下山を楽しみます。
下山途中の参道脇には、様々な神を祀った石碑などが建っています。
湯殿山は中世を通じて崇敬を集め、伊達政宗の母「義姫」は子宝を祈願し成就したことから深く帰依したとも伝えられています。
湯殿山には「大山祇命」「大己貴命」「少彦名命」と、出雲系の神が祀られています。
出羽三山信仰の正式な参拝ルートは、まず羽黒山で現世の神徳を得て、そのまま標高1984mの月山に登頂し、死後の浄化を受けます。
そして姥ヶ岳を迂回し湯殿山に至り、その神気溢れる湯に浸かって新たな生命を賜って生まれ変わるというストーリーとなっています。
死と再生による生まれ変わり、「三関三渡」(さんかんさんど)の旅です。
現在の湯殿山参道は往古に存在せず、月山登頂を果たした後、急な崖を何カ所も越えてようやくたどり着く、まさに「奥宮」と呼ぶにふさわしい神域でした。
しかしこの湯殿山と、羽黒山・月山は不仲だった時期もあったと云います。
第50代羽黒山別当に就任した天宥上人は羽黒山の発展に力を尽くした人でした。
天宥は幕府の庇護を得るため、幕府の実力者である天海大僧正に弟子入りし、真言宗だった出羽三山全山を天台宗に改宗し得ようと画策します。
羽黒山と月山は良好な関係を保ち、天台宗へと改宗したのですが、湯殿山は反発、湯殿山派のみ真言宗を守り続けました。
そのため諍いも絶えなかったと云います。
また即身仏信仰も湯殿山系独自のもので、羽黒山・月山両派では即身仏を崇める信仰はないとのことです。
二つの小さな滝の先に、
朱い橋があり、
雪渓の梵字川が流れていました。
この辺りまで来ると、大鳥居はもうすぐです。
大鳥居前まで降りて来てみると、龍を背負った菩薩像の横に、
「玉姫稲荷神社」がありました。
由緒を見てみると、湯殿山参拝に先駆けて参拝しなければならなかったようです。
狭い参道には、急な階段が続いています。
その幻想的な参道の先に
社殿があります。
ひっそりと佇む社殿の前には、涼しい風が吹いていました。
芭蕉の道をたどった時、湯殿山で湯で身を清めた後、拝んだ思い出があります。当時は湯がご神体だと思って、そうなんだ。こういう信仰もあるんだと驚いたのですが、実はご神体は湯の湧き出る岩だったんですね。
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確かに岩が御神体のようですが、あふれる湯も含めてのことではないでしょうか。
ぬるぬる流れる様がとても印象的でした。
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最近、日本の信仰について考えています。イスラム系の人たちに日本語を教えていて、宗教の話題になると、彼らは日本人の宗教に対する考え方が不思議で仕方ないようです。
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世界的に多数を占める「一神教」は、宇宙を含む全てのものを一人の神が創造するのに対し、少数派である「多神教」では自然および現象を神格化してきました。
日本の神道はその自然崇拝に、祖先崇拝が融合して多神教化した、特殊な宗教のようです。
しかし外国の方が日本人の宗教観に対して不思議に思っているのは、そうした一神教・多神教の違いに対してということではなく、日本人の神に対する依存度の低さではないでしょうか?
日本人もかつては「特攻隊」に象徴されるほどの信心深さを持っていたのですが、敗戦によって天皇が「神人」から「象徴」に変えられ、神への信仰から醒めてしまったのだと思います。
「醒めている」が故に、キリスト教だろうと他教だろうと、軽く受け入れてしまえるのでしょうが、それが信心深い他国の人から見れば、不思議で仕方ないはずです。
ただ、古事記・日本書紀に記された神話というのは、藤原氏以降、一部の権力者にとって都合良く作られた側面も多いので、せっかく醒めたのなら、真の日本人古来の信仰を見つめ直すのも良いと思います。
そうすれば、今日起こっている大災害への考え方・対処も見えてくるように思うのです。
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