三峯神社について調べていたら、秩父神社と寳登山神社を合わせて秩父三社と呼ぶそうで、それならば、と参拝してきました。
秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、埼玉県の秩父市街地中心部に鎮座する神社。
武蔵国四宮で秩父地方の総鎮守です。
市街地とあって境内はそれほど広くありませんが、とても清潔に保たれ、地元民の崇敬を集めていることが窺えます。
祭神は「八意思兼命」(やごころおもいかねのみこと)と、八意思兼命の十世孫で初代知々夫国造とされる「知知夫彦命」(ちちぶひこのみこと)。
それに「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)が鎌倉時代に合祀され、さらに昭和天皇の弟君にあらせらる「秩父宮雍仁親王」が昭和28年に合祀されています。
創建は『先代旧事本紀』の「国造本紀」に従い、第10代崇神天皇の時代、知知夫彦が初代知々夫国造に任命され、「大神を拝祠」したことによるとしています。
この「大神」は知知夫彦命の祖である「八意思兼」をさすと考えられます。
中世には妙見信仰と習合し、その後江戸時代までは「秩父大宮妙見宮」として栄えました。
江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、何度か修復の後、今の社殿となっています。
社殿には左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施されているのも特徴。
ただこの日は社殿の半分が修復中となっており、全てを見ることは叶いませんでした。
律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していった時期がありました。
この時登場したのが妙見信仰社です。
社記および『風土記稿』によれば、天慶年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍「平国香」が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができたとしています。
以来良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構え花園村から妙見社を勧請しました。
以後、秩父に土着した彼の子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成していくこととなります。
鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀します。
以降神仏分離まで「妙見宮」として栄え、秩父大宮妙見宮の名称で親しまれていきました。
当社の南側延長線上にある武甲山は武光山・秩父嶽・妙見山・嶽山などとも呼ばれ、元々当社の神奈備でした。
荒川の源流にある秩父地方は江戸時代の重要な水源地であり、家康は水源地である秩父を守る目的で1592年に社殿の建立を命じます。
やがて明治になり、神仏分離によって妙見菩薩は天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻されました。
秩父神社の大きな祭事のひとつが「秩父夜祭」です。
12月に行われる冬の祭りで、笠鉾や屋台を市内ひきまわす、「日本三大曳山祭り」のひとつとして有名です。
約350年間続く伝統的なお祭りであり、ユネスコ無形文化遺産にも指定されました。
また2011年に放送されたアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の舞台が秩父であり、実際にアニメや実写化された際のロケ地になっており、近年は若者たちにも人気のスポットになっているようでした。
境内の隅には武甲山の伏流水が流れ込んでいる池があり、水につけると文字が浮かび上がる「水占い」も人気のようです。
秩父三社の残りの一つ、「寳登山神社」(ほどさんじんじゃ)は秩父郡長瀞町の宝登山山麓に鎮座しています。
祭神は「神日本磐余彦尊」(かんやまといわれひこのみこと/神武天皇)、「大山祗神」(おおやまづみのかみ)、「火産霊神」(ほむすびのかみ)。
景行天皇41年(111年)、皇子の日本武尊は東征の際、新たな戦いの前に神体山である宝登山に登ることを考えました。
尊が山頂に向っていると突如として東北方より猛火が迫ってきて山火事に遭います。
炎で行く先も見えず、進むことも退くこともできない状況の中、尊の前に現れたのは巨大な山犬でした。
山犬は猛然と火中に跳入り、火を消し止めました。
さらに道案内をし、尊は無事頂上へ登り遥拝することができたということです。
この話から「火を止める山」、「火止山」(ほどやま)と呼ばれ、のちに「寳登山」(宝登山)となったと伝えられています。
犬は大山祇神の神犬であった事を知り、防火守護のため火産霊神を拝し、その後山麓に社殿を建て三神を鎮祭しました。
これが当社の起源であるとされています。
こちらの社殿にも絢爛豪華な彫刻が施されていますが、当時の予算は厳しく制作には苦労したそうです。
平成になって彩色が施されたこれらの彫刻は、「剡子」(ぜんし)など、中国の逸話がモチーフになっています。
本殿を取り囲む玉垣の内側に、「日本武尊みそぎの泉」というものがありました。
これは湧水でしょうか、四角い縁の中に水が溜められています。
富家の話では、ヤマトタケルは創作された話となっています。
実際に九州征伐、蝦夷討伐に向かったのは、12代帝にして物部王朝2代目の大王「景行天皇」でした。
前帝の物部イクメ大王は大和東征を果たしましたが、豪族らの人気は浅く、十分な支持を得られなかったようです。
それもそのはず、彼は一緒に東征を果たした異母兄妹の豊彦を上毛国へ追いやり、豊姫は暗殺し、また田道間守は野見宿禰に討たせました。
共に戦った仲間を裏切ったのです。
結果、物部王朝時代は母国の九州や、大彦・豊彦の子孫が根付く東方で、大和にまつろわぬ勢力が拡大します。
物部王朝は彼らを、土蜘蛛や熊襲、そして蝦夷と呼び、徹底的に討伐する方針を固めます。
しかし軍を率いてこれを成し遂げてくれるような豪族が居なかったので、帝自ら将軍のように地方遠征をしなくてはならなかったのです。
記紀では帝のそのような姿を恥と考え、その息子が行ったような創作した話が作られました。
それがヤマトタケル物語です。
当社に伝わる「火止山」神話は三峰神社の話とよく似ており、ここに居たオオカミ(大神)族が物部氏の東北遠征を助けたという話になってくるのだろうと思われました。
さて、寳登山神社は宝登山山頂に奥宮があります。
その近くまでロープウェイで登ることができます。
ロープウェイはほぼ30分間隔で運行しており、山頂駅までは約5分ほどで到着です。
程よい低山なので徒歩で登る方も多いようです。
行きはロープウェイ、帰りは徒歩という選択も良いと思います。
山頂駅からの絶景。
眼下に秩父の街並みが広がります。
宝登山山頂にはロウバイ園やつつじ園、動物園などがあります。
駅から5分ほど、斜面を登ると奥宮が見えてきました。
白い鳥居が印象的です。
5月2日(八十八夜)に行われる奥宮祭。
この祭りは尊の登山に倣い、神職氏子崇敬者が御供仕え、境内摂社の日本武尊社から神輿にて神霊を奥宮に迎えます。
社前では神楽や奉納演武が催され、神人共にこの日を祝い楽しむのだそうです。
この祭りの頃は山頂にツツジが咲き乱れることから「ツツジ祭り」とも称され、古来から秩父地方の農作業開始の目安となってきました。
ヤマトタケルは実在か創作か。
最近の僕は、真の古代史が知りたくて旅を続けていますが、それはそれとして当地に伝わる神話などはそのままに、思いを馳せることも大切なのではないかと思っています。
長い期間祀られ、降り積もった祈りの地はもう、日本の神の営む郷に違いないのですから。
秩父三社巡りお疲れさまでした。秩父神社は新一の宮とされております。埼玉には一の宮が三社。
氷川神社、氷川女体神社、秩父神社です。
関東地方で唯一、一の宮がないのが東京。武蔵国、旧一の宮として小野神社がありますが後ろ盾を失った為に廃れてしまった神社です。御祭神は思金の子孫、アメノシタハルミコト。いつの間にやら氷川神社は三の宮から一気に一の宮に昇格なんて歴史があります。
埼玉にはもう一社古い社で現在、三の宮、かなさな神社という趣深い社もございます。また埼玉にお越しの際には寄ってみては如何でしょうか?
もういくつ寝るとお正月・・・そんな年の後半、コロナの猛威が再び訪れそうです。どうぞご自愛くださいませ。ではでは。
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神社庁もいろいろ疑惑があり、離脱する神社も少なくないようです。
一ノ宮だとか三ノ宮だとかはあまり気にしていませんが、小野神社は行かねばならないかもしれません。
小野妹子を輩出した小野家の神社だと思われます。
かなさな神社も気になりますね。
かなさな、本来は製鉄民族系の神社であろうと思われます。
千葉方面にも行かなくてはなりませんので、そのついでに行けたらいいけど、無理かな。。
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かなさな神社、雰囲気が好きでした〜。訪れた時の主観的な体験は秩父の今宮神社とよく似ていました。「夕暮れ時に、自分の家をいつまでも庭から眺めていたいような気分」みたいな。
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かなさな神社、調べてみると2社あるみたいですね。
参拝してお犬様をお借りした直後に富氏とのご縁をいただいたので、三峯神社にはお礼参りをしたいのですがコロナ次第といったところ。
参拝が叶いましたら、その時にかなさな神社も訪れたいと思っています。
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