大和で勢力を強める物部勢は、執拗に大彦軍を攻め続けた。
大彦は三島の地を離れ、琵琶湖東南岸に移住することを決意した。
そこは野洲と呼ばれていた。
彼は大型の銅鐸を作り、友好国に配って銅鐸祭祀を広めていった。
大彦は和国大乱の時代の数十年間、この野洲の地で王国を維持し、物部勢に対抗したという。
彼は磯城王家の神を敬ったので、その近辺には後に兵主神社が建てられた。
滋賀県野洲市五条にある「兵主大社」(ひょうずたいしゃ)を訪ねました。
整えられた松林の参道を進むと、左手に折れて本殿に向かいます。
紅い鳥居の先にあるのは見事な楼門。
当社の正式名称は「兵主神社」だそうですが、一般的には「兵主大社」の名前で親しまれています。
楼門も大社を冠するにふさわしいものです。
「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社ほどあるようですが、名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみとのこと。
いわばこの三社が三大兵主といったところでしょうか。
社伝『兵主大明神縁起』によると、「景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市穴太)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して養老2年(718年)、現在地に社殿を造営し鎮座した」と伝えています。
楼門を潜ってすぐ右手に「稲背入彦」を祀る「乙殿神社」が鎮座していました。
さてこの稲背入彦、景行天皇の皇子ということは、物部族の者ということになります。
景行帝にせよ、稲背入彦にせよ、彼らが穴師坐兵主神社に出雲の神を祀ったというのは俄かに信じ難く、さらに当地にまで遷座させたというのはあり得ないことです。
大彦は笛吹村の尾張家の人間でもありました。
富家の話では穴師坐兵主神社は尾張家が建てたのだと云い、当地の兵主大社を大彦を慕う者たちが建てたのだとすると納得がいきます。
つまりこの乙殿神社に本来祀られる人物は、景行帝の皇子などではなく、大彦の子孫であると思われます。
乙殿神社の横には、出雲富家の当主・野見宿禰の子孫である「菅原道真」が祀られていました。
再び参道に戻り、本殿を目指します。
中世には、「兵主」が「つわものぬし」と読むことができるため、武士の厚い信仰を得たと云われています。
あの立派な楼門は足利尊氏の造営であり、源頼朝も神宝を寄進した記録が残されていました。
神紋は特殊で、亀甲に鹿の角が施されています。
主祭神は「八千矛神」(大国主神)であり、配祀神は「手名椎神」と「足名椎神」。
八千矛神とは言わずと知れた出雲王国八代目大名持(主王)の名前です。
八代目少名彦(副王)が八重波津身(事代主)でした。
ここで一つ疑問が起きます。
八千矛は西出雲王国・郷戸家(ごうどけ)の当主でした。
大彦は東出雲王国・富家の当主、八重波津身の子孫であることに誇りを持っていました。
確かに八千矛は出雲全体で慕われた、偉大な王ではありましたが、大彦が当地で祀るとしたら、それは八重波津身・事代主であったろうと思うのです。
しかし実際には、当地に兵主大社を建てたのは大彦ではなく、彼の子孫であると考えられます。
とするのなら、この八千矛神に相当する本来の神は大彦だったのでなはいでしょうか。
兵主大社には平安時代後期の作といわれる見事な庭園がありました。
3万4千㎡ある境内のうち、約2万2千㎡の広さを、この庭園が占めています。
庭園には水が引き込まれており、見事な景観を作り出しています。
この兵主大社の庭は、平安時代のものであると言われ、とても貴重な庭園です。
庭園の裏手は深い杜になっており、樹勢も見事。
本殿の東側には舟入水路跡がありました。
これは寛永19年(1642年)の本殿改築の際に、資材搬入用に掘られた、人口の水路だそうです。
舟入水路跡から少し離れたところに、ひっそりと石のようなものが祀られています。
これは「鹿塚」と呼ばれ、明治31年に建立されました。
兵主大明神縁起によると、祭神の大己貴命は養老2年(718年)に不動明王の姿をかりて琵琶湖の対岸、穴太より八崎浦に上陸されたと記されています。
この時、祭神は白蛇に化身し、大亀が白蛇を背に乗せて湖上を進み、鹿が八崎浦より五条の鎮座地まで白蛇を護り運んだと伝えられ、この伝承を顕彰する為に鹿塚として建立されたのだそうです。
この鹿塚は平成7年に字小森立の田地の中にあったものを移築したそうで、「亀塚」は野田の西側、字西浦の地に木村定八家の人々により守り継承されているそうです。
この神使の亀と鹿は、当社の社紋にも反映されています。
この広大な庭園からは、古代の祭祀用の土器も出土しています。
琵琶湖東南岸に遷都した大彦は、当地でも出雲式の銅鐸の祭祀を広めました。
彼はそれまでの小型でつり下げて鳴らすことを前提とした「聞く銅鐸」に対して、大型の「見る銅鐸」を作りました。
物部式の銅鏡の祭祀が広がりを見せる中、より銅鐸を強調させる目的があったのかもしれません。
この大型の銅鐸は、「突線鈕式銅鐸」(とっせんちゅうしきどうたく)と呼ばれ、製作は土の鋳型が使われました。
突線鈕式銅鐸とは「吊手」(鈕)の部分が薄く作られ、細い突線でかぎ形の区画線が表されるのが特徴であり、視覚的な効果を意識したものでした。
突線鈕式銅鐸には「近畿式」と「三遠式」と呼ばれる型式があり、近畿式は近江地方で作られ、三遠式は東海地方で作られたものと考えられています。
富家では近畿式は大彦勢がつくり、三遠式はヌナカワワケ勢がつくったものと伝えられていました。
近畿式には、鉦の部分に双頭渦文の飾り耳がついていることが多く、渦の文様はサイノカミ信仰を表すものでした。
このとてもわかりやすい図柄は、「古代屋おもち」さんからお借りしました。
古代屋おもちさんでは、他にも古代祭祀具などのわかりやすい解説がなされていて、とてもおすすめです。
近畿式銅鐸は、旧領地の伊賀国からも見つかっています。
さらに大彦は、東海地方に進出したヌナカワワケ勢とも連絡を取り合っていたようで、お互いの銅鐸を交換した痕跡も見受けられます。
大彦は野洲の王国で、この見事な銅鐸を作り、友好国に配って和国大乱の時代の十数年間勢力を維持しました。
記紀に長髄彦の名を刻ませたように、彼は王家の意地を、物部勢に見せつけたのです。