『鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ』(223)
「鴨山の岩を枕に横たわる私のことを知らずに、彼女は待ちつづけているのだろうか」
房総半島の中頃に馬来田(まくた)という場所があります。
JR馬来田駅は無人・単式ホームの昭和の香りがするノスタルジックな駅。
ここに柿本人麿が流されてきた時、彼は西の空を眺めて歌を詠みました。
『馬来田の 嶺ろに隠り居 かくだにも 国の遠かば 汝が目欲りせむ』(3383)
「馬来田の峰を隔てた所まで来てしまった。こんなにも故郷を離れていたら、君に逢いたくてしょうがないよ」
人麿の流刑地は馬来田から東に8キロほど離れた石川の地でした。
石川の南方に鴨村があり、当時そこに鴨神社があったのだそうです。
その鎮守の森が鴨山で、人麿は鴨山を好みよく登ったと伝えられます。
さて、その鴨神社は今は合祀されて、高滝神社になっています。
高瀧神社(たかたきじんじゃ)は、千葉県市原市に鎮座しています。
創建は不詳ですが、伝承では白鳳2年(672年)に高滝神を祀ったとされています。
人麿が流刑されてきたのが700年代ですから、社伝の通りであるとするなら高滝神が鴨神だったのでしょうか。
「日本三代実録」にこの高滝神社のことが載っており、それによると、承安年間(1171~75年)に山城国の賀茂社を勧請して賀茂明神と改称。玉依姫命と別雷神は、創建から500年以上を経て祭神となったと記されていました。
これは困った。時代が食い違っています。
しかし当社祭神の筆頭が「瓊瓊杵尊」であることも妙な感じです。
高滝神がニニギであるというのなら、このような東国の地に、往古から物部の神を祀ったということに違和感があります。
神紋の双葉葵は京都の賀茂神社に由来します。
やはりここは本来、鴨社であったのではないでしょうか。
古来、出雲系加茂氏の鎮守であったが、時勢の流れでニニギを合祀し主祭神とすることで難を逃れようとしたのではなかろうか。
高滝神社には安産・育児の信仰が厚く、「底なし袋」を奉納する慣習があります。
それはどこかサイノカミ信仰を彷彿とさせます。
また富氏は、『三代実録』にて、高滝神社付近は昔は鴨村で、そに鴨神社があったことを調べ上げておられました。
赤く雅な高滝神社の背後は、切り立った崖になっています。
このこんもりとした山は「松尾山」と呼ばれていますが、これが人麿の愛した鴨山であろうと思われます。
人麿が石川の地に流されてきた時、彼はかなりの高齢でした。
松尾山は標高80m程度の丘陵であり、彼が登れるとしたらこのくらいまでと思われます。
とはいえ周囲は切り立っており、およそ山頂に登るのは容易ではありません。
苦労の末よじ登ると、なんと奥の院の案内板がありました。
奥の院、奥宮、そんなものがこの先にあるのだろうか。
しばらく尾根を歩くと、本当に社が見えてきました。
ひと気のない森にぽつんと佇む奥宮。
社殿は老朽化が激しく、屋根は朽ちかけています。
高滝神社はその由緒も詳しく伝わっておらず、奥宮については皆無です。
ここにどなたが祀られているかも不詳。
しかしその神寂びた社の前に立つと、柿本人麿の魂がここに眠っているような、そんな気配を感じました。
年老いた人麿は、自分が亡き後は遺体を鴨山に葬って欲しいと言っていたと伝わります。
奥宮の裏側に廻ると、背の高い木々に覆われて眺望はあまり良くありません。
しかしその隙間から遠くを垣間見れば、音無山の先に奈良の都が見えるような、そんな気がします。
『福の いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹が声を聞く』(1411)
「私はなんと幸せな人であろうか、こんなに白髪になるまで妻が寄り添い、声を出して悲しんでくれるとは」
山辺赤人と名を変えた太安万侶が、人麿を訪ねてみれば彼は老い果てていました。
安万侶は古事記に名を残せなかった彼のために、柿本人麿の名を冠した和歌集を作ることを約束します。
人麿は安万侶の話を信じ、これまで彼の書いた歌を総て渡しました。
その書き付けの最後にあったのが「福の いかなる人か…」だったのです。
この小さな山の頂に立っていると、彼のために食事の煙を昇らせる依羅姫のぬくもりが、鴨山の奥宮まで寄り添ってくるように感じられました。
724年3月18日、万葉歌の天才、語家・柿本人麿はこの世を去ります。
彼の生涯のありようは多くは伝えられず、謎の万葉詩人として人々に語り継がれました。
柿本人麿の人生は悲劇ではありましたが、恋をし、歌に生きて、そして私たちに真の歴史を語りついだものでした。
「福の いかなる人か」
人のまことの幸せとは、結局他人には推し量れないものなのです。