むかしむかし、旅の僧が見付の里に立ち寄った時のこと、とある家の方からさめざめと泣く声が聞こえてきました。
その家の屋根には、白羽の矢が刺さっていました。
「どうしてお前たちはそんなに泣いているのだ」
僧が尋ねると、
「毎年8月の初めになると、どこからともなく白羽の矢が飛んできて、ある家の屋根に突き刺さります。矢を立てられた家は年番といい、見付天神さまの祭りの日に、その家の娘を生きたままひつぎに入れて神さまにささげなければならないのです」
と、家の長が言いました。
「それはなんと悲しいしきたりじゃ。しかし天神さまが娘を生贄に望むはずもない、おかしなことじゃ」
不審に思った僧は、娘がひつぎに入れられ神社に運び込まれると、境内の大木の影からこっそり様子を窺いました。
しばらくして、どすん、どすん、とおおきな地響きとともに現れたのは、神ではなく、なんとも大きく恐ろしげなヒヒ(大猿)でした。
ヒヒは娘の入ったひつぎに手をかけると、あっという間に持ち去ってしまいました。しかし僧は、ヒヒが立ち去る時に口にした言葉をしっかりと聞き取っていました。
「信濃の国の悉平太郎に知らせるな。今宵今晩このことは、悉平太郎に知らせるな」
「はて信濃の悉平太郎(しっぺいたろう)とは誰じゃろう」
ヒヒはこの悉平太郎を怖がっているようだと感じた僧は、そのまま信濃国へ彼を探す旅に出ました。
「どうやら悉平太郎とは信濃の光前寺で飼われておる犬のことのようだ」
僧は光前寺に行き、住職に訳を話ました。
「そうですか、この犬は早太郎と申しますが、たくましく素早いことから疾風太郎とも呼ばれております。それが訛って悉平太郎と呼ばれておるのでしょうな。どうぞ早太郎をお連れいただき、娘らを救って差し上げてくださいませ」
快く悉平太郎を借り受けた僧は、住職に深々と頭を下げ、光前寺を後にしました。
さて僧が見付の里に戻ってみれば、ちょうどあれから次の年の8月、祭りの日になっていました。
僧は村人にこれまでの話をし、娘の身代わりに悉平太郎をひつぎに入れて、見付天神に供えさせました。
夜になるとまた、どすん、どすん、とおおきな地響きがしてヒヒが姿を現しました。
ヒヒがガシっとひつぎの戸に手をかけた瞬間、大きな咆哮をあげ悉平太郎が飛び出し、ヒヒに向かって襲いかかりました。
ウォン、ウォン、
ギャー、ギャー、
悉平太郎とヒヒの壮絶な争いの声が、見付の里まで聞こえてきました。その声は長く長く、一晩中里に響いていました。
次の日、里人が恐る恐る神社へ来てみると、大きな大きなヒヒが、血まみれとなって倒れていました。
あたりの木は薙ぎ倒され、社殿も壊れていました。
「悉平太郎、悉平太郎やー」
僧が悉平太郎の姿を探しますが、どこにも見当たりません。
ただ点々と、小さな血の雫の跡が信濃国の方角に続いていたのでした。
静岡県磐田市見付に鎮座の「矢奈比売神社」(やなひめじんじゃ)を訪ねました。
入口から少し歩くと
お犬さまの像がありました。
彼は霊犬「悉平太郎」(しっぺいたろう)と呼ばれます。
悉平太郎は、この見付の里に現れるという妖怪を退治したと伝えられるお犬さまです。
ところで、当社の正式名称は矢奈比売神社であるはずですが、むしろ「見付天神」(みつけてんじん)の通称で知られています。
見付天神の裸祭も有名です。
当社の創建年代は不詳。
しかしながら『続日本後紀』に承和7年(840年)6月に従五位下の神階を授けると記載されている古社になります。
正暦4年(993年)に福岡の太宰府天満宮より菅原大神を勧請したと伝えられ、以後は「見付の天神様」「見付天神」と呼ばれ崇敬されてきました。
慶長8年(1603年)には、徳川家康公より神領50石も寄進されています。
当地は東海道五十三次の宿場町の一つ「見附宿」であり、江戸の頃は大変賑わっていたようです。
当社の祭神は「矢奈比売大神」の他、「菅原大神」「火之迦具土神」「表筒男神」「中筒男神」「底筒男神」が配祀されています。
拝殿前には、天満宮系に多い牛の像がご鎮座。
このお二人は願掛けの夫婦牛さんです。
さて、見付天神の名で忘れてしまいがちですが、社名にもある矢奈比売とは一体どなたなのか?
『延喜式神名帳』に記載された神社を考証した出口(度会)延経著の書物、『神名帳考証』(じんみょうちょうこうしょう)によると、この矢奈比売は「八野若日女命」(やのわかひめ)とされています。
はて?これまた聞き慣れない八野若日女ちゃんとは誰ぞや。
調べてみると、なんと出雲ゆかりのお姫様でした。
なるほど、「八」だけにね。
八野若日女ちゃんは古事記・日本書紀に記載がなく、出雲風土記にだけ名を残す姫ちゃんでした。
出雲風土記によると、スサノオの娘で大国主の妃の一人として記されています。
「須佐能袁命(すさのおのみこと)の御子、八野若日女が鎮座していらっしゃった。そのとき所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、大穴持命(おおあなもちのみこと)が娶りなさろうとして、屋を造らせなさった。だから八野という」
と八野の地名由来となったそうです。
これら八野若日女に関する情報は『出雲大社の歩き方』から引用させていただきました。
当サイトは出雲愛に溢れた良いサイトでしたが、おそらく今後は更新されないのだろうと思われ、とても残念でなりません。
八野若日女は大国主に結婚を申し込まれるとお家までプレゼントされており、貢がせ上手、男を上手に転がすスキルをお持ちだったと締め括られています。
出雲風土記は日本書紀ができた後、天平5年(733年)に、出雲臣広嶋によって改訂がなされています。
広嶋は出雲臣を冠していますが、出雲王国の人間ではなく渡来人のホヒ家の人間です。
つまりそれは「改訂出雲風土記には、嘘を書いたけれども、大国主をほめて書いたから見逃して欲しい、という考えがあった」(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版) ということです。
今伝わる出雲風土記はホヒ家の手によるものなので、まるっと信用するわけにはいきませんが、八野若日女が出雲王国のとある姫君であったことは間違いないでしょう。
嫁ぎ先は大穴持命とありますので、出雲王家の主王の誰かであり、それは郷戸家の大国主・八千矛ではなく富家の誰かであったのかもしれません。
なぜなら、矢奈比売=八野若日女であるとして、”創建不詳なれど古来よりこの処にて祀”られているという当社の氷室神社の祭神は事代主です。
出雲の八野家は富家に嫁ぎ、その中に磐田の見付郷に移住した一族がいたということでしょうか。
全国の多くの天満宮は元来「手間天神」(事代主)を祀っていた社が、道真公は出雲王家の血を引いているということで公を祀るようになったという話もありますので、矢奈比売神社が出雲系だったので太宰府から勧請して見付天神となったというのもありうる話です。
ところで、ちょいちょい画像を挟んでおりますのでお気づきのように、見付天神は『ゆるキャン△』の聖地でございます。
というか、ゆるキャン△の「しまりん」聖地です。
彼女はわんこが好きなようで、悉平太郎の話に魅入られて見付天神に足を運びます。
ここに悉平太郎の3代目がいるという話を知って、どこにいらっしゃるのか、かわいい巫女さんに尋ねます。
すると3代目は既に亡くなってしまったのだとか。
命の儚さを知る志摩リン。
彼女は見付天神の裏手にある「霊犬神社」に足を向けます。
悉平太郎の話のエンディングには、いくつかのパターンが伝えられています。
磐田市に伝わる話では、悉平太郎が見事ヒヒを退治したのち、傷を負っていたものの里人に介抱され、当地で余生を送ったというものです。
悉平太郎の立派な働きぶりに心から感謝した見付の里人は、大般若経六百巻を書き写して悉平太郎出身地の光前寺へ奉納し、それは今も保管されているのだそうです。
光前寺は長野県駒ヶ根市に鎮座しており、この話が縁となって 昭和42年(1967年)1月12日から磐田市と駒ヶ根市は友好都市関係となりました。
悉平太郎とヒヒの話が、出雲族や八野若日女と関連するのかは分かりませんが、霊犬の妖怪退治は日本各地で類型的に語られる話で、これもその一つになろうかと思われます。
悉平太郎の墓とされるものが霊犬神社の横にありましたが、そこには丸い石がふたつ置かれていたのでした。
しっぺいみくじ…選ぶなら私は迷わず裸祭(らさい)🐥
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ああ、あのふんどしはそういうことだったのね、今気づいた!
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裸祭(らさい)に付いているのは藁の前掛けですよ🐥生しっぺい君に付いてるのは赤い涎かけかと思われます🐣ふんどしに見えるけど…
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あーそゆことー!
でもよだれ掛けにしては下すぎるよねぇ。。
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いや、赤いふんどしなのかも🐥
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赤フンに一票!
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