世界遺産「平泉」。
奥州藤原氏の初代「清衡」が度重なる戦乱の中、争いのない仏国土、理想世界を目指して浄土思想をもとに作り上げたのが「中尊寺」と云います。
「中尊寺」に着くと、まずは高杉にかこまれた「月見坂」で森林浴を楽しみます。
江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年という老杉が立ち並び、参拝客を迎えます。
境内には、たくさんのお堂がありますが、
それらの中でひときわ存在感を示す「弁慶堂」。
「武蔵坊弁慶」は五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる怪力無双の荒法師。
藤原泰衡が、義経主従を衣川館で襲った時、義経を守るため弁慶は、堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされます。
いわゆる後世に語り継がれる「弁慶の立往生」です。
そしてここに来たならぜひ賞味いただきたいのが「弁慶餅」。
絶品の香ばしい味噌の味に、僕も立往生しました。
舌を潤したら、また散策を始めます。
弁慶堂の裏手に回ってみました。
静かな庭があります。
伸びる参道を行きます。
小さな堂を参拝しつつ、
中尊寺「本堂」へとたどり着きました。
ここが中尊寺の中心です。
現在の本堂は明治42年に再建されたもので、本尊の釈迦如来坐像は丈六仏という一丈六尺の大きな仏様です。
初代「清衡」公が中尊寺造営の折「丈六皆金色の釈迦如来」を安置したことにならい、平成25年、現在の仏様を建立・安置したそうです。
本尊の両脇には延暦寺から分燈された「不滅の法灯」がともっています。
本堂の先には目にご利益ある「薬師堂」があり、
また、その向かいには朱塗りが眩しい昭和52年建立の「不動堂」が鎮座します。
参道を奥へ奥へと歩いて行くと、
ついに平泉で最も神聖で有名な「金色堂」へとたどり着きます。
金色堂は奥州藤原氏初代「清衡」(きよひら)公によって建てられました。
この建物の中には、今尚色褪せぬ、内外に金箔の押された「皆金色」と称される「金色堂」が収まっています。
夜光貝を用いた螺鈿細工、象牙や宝石によって飾られた仏像群は、圧巻の一言に尽きます。
金色堂の下には、初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸が、金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥檀のなかに今も安置されているそうです。
戦で亡くなった全ての人々を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく願った、清衡公の思いが今も形を成して、ここにあります。
「五月雨の 降り残してや 光堂」
奥の細道の旅で、儚くも眩い金色堂に、松尾芭蕉も熱いまなざしを向けたことでしょう。
中尊寺の境内の隅に、能舞台を見つけました。
重要文化財の「白山神社能楽殿」です。
中尊寺を代表する施設の一つで、能舞台の奥には鏡の松と呼ばれる絵が描かれています。
この茅葺きの壮大な能舞台をは1853年に再建されたものですが、日本を代表する能舞台の遺構のひとつで、
今でも藤原まつりや中尊寺薪能で演能が行われているそうです。
中尊寺から車で5分ほど離れたところに、「浄土世界がひろがる庭園」と呼ばれる「毛越寺」(もうつうじ)があります。
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代「基衡」公から三代「秀衡」公の時代に多くの伽藍が造営されたそうです。
往時には中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
が、奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍で、すべての建物が焼失しました。
今は「大泉が池」を中心とする浄土庭園が広がるばかりの光景となっています。
歴史に興味があり、時間にゆとりがあるなら「毛越寺」他、平泉の世界遺産を見て回るのも良いです。
北上川に面した丘陵に高館という場所があります。
そこは、源義経の終焉地と伝わっています。
源義経は、兄の頼朝に追われ、鎌倉から東北へと逃亡を図ります。
義経は少年期を過ごした平泉に落ち延び、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に住まいを与えられます。
束の間、平穏な日々を過ごす義経。
しかし文治5年(1189)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子「泰衡」は、「義経を守れ」との父の遺言を反故し、高館の屋敷を急襲します。
弁慶の奮闘虚しく、義経はついに覚悟を決め、妻子とともに自害したと伝えられています。
丘の上の堂は「義経堂」(ぎけいどう)と呼ばれ、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てられました。
中には凛凛しい武者姿の義経公の木造が安置されています。
「宝篋印塔」(ほうきょういんとう/源義経公供養塔)が境内隅にあります。
昭和61年、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のために建立されました。
さまざまな人生、生き様、生涯がここに交差し、果てていったのです。
ところで平泉を訪れると、稲わらをこんもりと積み上げた姿を見かけます。
「稲ぼっち」とか呼ばれるようですが、まるで列をなす武士のようです。
俳聖・松尾芭蕉が弟子の曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄2年(1689)のこと。
そこで芭蕉は、かの名句を詠みあげます。
三代の栄耀一睡のうちにして、 大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。
さても 義臣 すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
「卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな」曾良
高館に立つ芭蕉の眼下には、夏草が風に揺れる光景が広がっていました。
中尊寺本堂
金色霊廟
中尊寺金色堂
弁慶堂
義経堂
毛越寺