今回は急遽予定を変更して、緊急特番
『我々は背振の山中に、驚くべき磐座を発見した!』をお送りします。
それはふた月ほど前のこと、僕のFBに友達申請をしてくれた、とある女性とのご縁からはじまります。
その女性は磐座大好き!磐座系女子☆でした。
ある時この『偲フ花』が女子さんの検索にひっかかり、以来気にかけていただいていたのだそうです。
5年ほど前に佐賀にお越しになったという磐座女子さん、
その頃不思議な体験をされたそうで、ご神託というか、ここの磐座に呼ばれるようなメッセージを受け取ったのだそうです。
ただ場所がはっきりせず、その後今日に至ることに。
ある時ある方から「背振を探しなさい」と助言を受けたそうで、そこで『偲フ花』の過去記事を目にして「ここだっ!」となったそうです。
それがこの場所。
ついに目的地まで一緒にやってきました。
ここは物部族の勢力域にあって「出雲やん!」と僕が評した場所です。
磐座女子さんは、わざわざ隣の県の僕の美容室までカットに来てくれました。
それで色々と話が盛り上がり、その時この場所の詳細もお伝えしましたが、女子一人で行くには車道も登山道もなかなか厳しい場所にあります。
んで、もし僕の休みに合わせてもらえるなら、ということで祝日月曜日のこの日、ジェントルメンな僕が彼女をエスコートすることになったのです☆。
いやこの空気、やはり出雲的だと感じます。
しかし正確には、出雲系でありながらもっと複雑な、古代の祭祀形態を残した遺跡であったと、後ほど訂正する出来事が起きるのでした。
さて、目的地にたどり着きました。
霊峰背振の山深く、ここは確かに磐座女子さんが神託で示された場所に違いないようですが、今一つ腑に落ちない何かを僕は、そしておそらく女子さんも感じておられたようでした。
ざわ…ざわ…、ざわざわ…
公式にはここで行き止まりなのですが、この先が妙に気になります。
何かあるのか。
行って、みますか?
この先は道無き道。
藪こぎとまでは言いませんが、それなりの悪路。
油断すると足元は滑ります。
いざという時はジェントルメンな僕が女子を支え、エスコートしなければ!
と薄っぺらな正義感で下心を熱く燃やしていると、
あれ?
磐座女子は悪路もなんのその、ぐいぐい登って行き、逆に僕は激しく息切れしています。
そう磐座系女子は、冒険大好き!冒険系女子☆だったのです。
僕の下心心配が杞憂に終わった頃、何か見えてきました。
こ、これは何ということでしょう。。
これは完全に、完璧に古代の祭祀遺跡ではありませんか!
この岩陰祭祀の痕跡、あの沖ノ島で見た、初期の出雲系宗像族に多い祭祀の形態に似ているように思えます。
また熊野の磐座信仰との類似性も気になるところ。
そして女子は「火を使った痕跡は見当たりませんね」と言います。
さすが、目の付け所が違いますね。
側面などを見ても、焦げ跡などは見当たらず、火の祭祀ではない、純粋な古代神道的磐座祭祀があったものと推察されます。
沖ノ島の祭祀形態は4世紀後半から9世紀末までの約500年間に、「岩上祭祀」―「岩陰祭祀」―「半岩陰・ 半露天祭祀」―「露天祭祀」の四段階の変遷をみると説明されています。
その中で岩陰祭祀は5世紀後半から7世紀にかけて行われていたとあり、時期的には古墳時代に相当し、沖ノ島の岩陰祭祀奉献品も古墳埋葬品に重なるものが多いということです。
この祭祀遺跡もその頃のものでしょうか。
それにしてもこの石組みは、自然に為されたものか、人為的なものか。
人為的なのだとしたら、それこそ超古代的な話になっちゃうね、と女子と笑い交わしていました。
ところでこの岩、髭面の獅子に見えるな。
失敬して磐座の上に登らせていただきます。
その前後には、全くもって素晴らしく神々しい景色が広がっていたのでした。
さて降りようか、と思っていたら、磐座系冒険大好きっ子女子はぐいぐいさらに上へと登っていきます。
まるで何かに引き寄せられるように。
ま、まってぇ~と慌てて僕もよろめき這いつくばって後を追うと、
どうしたことでしょうか、
再び巨大な、森の中で息づく畏れ多きものがいるではありませんか!
こ、これは、
頭に豆蔦と樹木の冠を乗せて、
威風堂々、我ぞ森の王だと言わんばかりの御姿で、それは在りました。
サークル状に岩々を従える霊山の主、正しくこれが御神体です。
先ほどの祭祀遺跡はこれの拝殿に当たるのでしょうか。
完璧な磐座祭祀の形が、人知れず霊山の山中に残されていました。
この感動、この衝撃!素晴らしい!
しかしこの感じ、熊野の丹倉神社を彷彿としないわけにはなりません。
そういえば筑紫には、紀国の痕跡も何故だかあるのです。
この磐座が古墳時代の出雲系熊野族に関わりあるものだとしたら、この下には王族の遺骨が眠っているのかもしれません。
僕と女子は興奮冷めやらず、しばらくこの石神を前に時を過ごしましたが、ひとつとても残念なことが。
ここからさらに上へ登っていくと実は車道があり、そこから心ない不法投棄がなされ、タイヤを含む粗大ゴミが多数、ここに散乱しているのです。
ここが重要な聖域であると知らぬ犯行でしょうが、霊山において決して許される行為ではありません。
すると磐座女子は「掃除をして欲しくて、呼ばれるということがあるそうですよ」と言うではありませんか。
そしてすぐにどうやってこの粗大ゴミを撤去するか、その算段を考えているようでした。
朝、開店前の掃除をしていて、タバコの吸殻やマスクのポイ捨てを見ては「チッ」と舌打ちするくらいに心の荒んだ僕は、このように前向きに掃除ができる人を心から尊敬します。
素晴らしい。
これまで放置されたゴミに心を痛めることはあっても、それを撤去しようとまでは、僕は思いもしなかったのです。
これからはビニール袋を持ち歩き、小さなゴミくらいは聖地参拝で見かけたら拾って帰ろう、そうこっそり小さく心に誓ったのでした。
それにしてもこの磐座はネットを探してみても、どこにも情報はありません。
ひょっとして世紀の大発見なのでは!
と息巻いてみますが、近くの木を最近斬った痕もありますし、真新しいチョーク印もありましたので、全くの手付かずではなさそうです。
ただ情報がないということはあまり公にもしてはいけない気がしたので、あえて詳細の場所は控えました。
ヒントは十分にあると思いますので、その気がある人は探してみてください。
そしてくれぐれも荒らさないように。
ちょっとだけゴミ拾いもしてもらえると幸いです。
脊振山は「背振千坊・嶽万坊」と呼ばれ、かつては壮大な山岳宗教の霊地でしたが、寺院としてその面影を残すのが背振中腹にある「修學院」になります。
欽明天皇13年(552年)、紫雲が棚引く山の頂上に辨財天が降立ち、そのときに給仕の龍が背を振り、その振動で山が動き地震があったという伝説が、背振山の名の由来であると伝えられます。
背振の山岳宗教は和銅2年(709年)、元明天皇より勅命を受けた湛誉上人により開山され、上宮の『東門寺』、中宮の『霊仙寺』、下宮の『積翠寺』(現在の修学院)の三ヶ所を司寺とし、数多くの寺坊が散在する大伽藍が構成され、『背振三千坊』と呼ばれていました。
その後も伝教・弘法・慈覚・智証の諸大師や性空・皇慶・栄西といった数々の名僧智識が入山修行しますが、戦乱の中で盛衰を繰り返しながら寺領を徐々に失い、寺坊の維持が困難となり衰微していきました。
さらに天正年中、太閤豊臣秀吉の検地により寺領は没収され衰亡し、衆僧も四散し、背振一山は荒廃したのだといいます。
一時期、鍋島直茂公の庇護のもと背振一山は再興を果たしますが、藩政時代の終焉と明治の神仏分離令もあり、住僧も山を下りて衰微、今に至るようです。
それでも開山以来、今も1300年余の法灯は、この修學院で護持継承されているのでした。
背振神社下宮へとやってきました。
それは磐座女子さんがこの「はくじゃさん」を参拝したいとのリクエストに応えてのことでした。
この背振神社は日本六所弁財天の一社「背振弁財天」といわれ、祭神は市杵島姫命となります。
市杵島姫は言わずと知れた宗像三女神の一柱。
弁財天には残り二柱の姉妹神も合祀されているようです。
その弁財天の使い「白蛇様」が棲んでいると言う穴がこれになります。
この穴は古い氷室跡のようで、それがそのまま聖域となっていました。
氷室跡の洞穴の奥には、白蛇社の祭壇が。
この白蛇信仰は果たして背振の龍神信仰と関連があるのかどうか。
伝承を繋ぐと、弁財天を背振山に運んだ龍が、白蛇に身を変えてここに納まったとも考えられます。
出雲では神有月の頃に稲佐の浜に打ち上がるセグロウミヘビのミイラを、龍神の御神体としていたことが思い起こされます。
最後に背振山頂の上宮へやってきました。
そこにひっそりと、龍神の棲まう「龍ヶ池」があります。
しかしそれは池と呼ぶにはあまりにささやかな、単なる水たまりと見紛う程度のものでした。
しかし龍が霊体であるのなら、池のサイズには意味がないのかもしれません。
これまで一人旅が基本の僕でしたが、不思議な縁でこの日は素敵な女性と背振の聖域を巡る一日となりました。
エスコートが中心で目新しいものは特にないだろうと高を括っていましたが、思わぬ発見に大波乱です。
彼女との縁がなければ、僕はその磐座の存在を、この先も永遠に知ることはなかったでしょう。
名残惜しく振り返った先の水たまりには、微笑む弁財天の気配が残されているような気がしたのでした。
蛤山までは行きましたが、岩の形がやっぱり違いますね
蛤山の石は本当に貝の様に見え、もっと丸っこいです
なぜ突然あんな巨大な河原石のような岩が現れるのか本当に不思議な気持ちになりました
形的にはおそらく背振が中間くらいで、そこから先はまた普通の岩の形になってしまう様な気がします。あの二つの地域だけ異質な気がしています
背振の修験道は衰退したのですね。なるほど。
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なぜ脊振の修験は衰退したのか、それは不明です。
まだ未発見の磐座もたくさん眠っていそうですね。
大規模な調査がされたという話も聞かないですし、悪徳産廃業者がゴミを捨てたりして散々な山でもあります。
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なるほど、超精密誘導は思えば初めてではなかったのですねww
これはもう開き直るしかありませんな
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最近の僕はモテ期到来♪(主に人妻)
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今回は川口博の探検モノかと(笑)
袖振り合うも他生の縁。良いですな、磐座女子との旅。自分だけの時と違い、他の人がいることで気付けることというのはよくあること。
私も旅先では見ず知らずの人に積極的に話しかけて自分の知らない世界を広げるのが大好きなんで、今回、このコロナで密を避けなきゃならんということが寂しくて旅をしばらく自粛しております。一人の時も楽しめるんですが、やはり人との関わり合いが好きなもんで。
CHIRICOさんは探究者としての道を行かれてますね。これからも良い御縁がありますよう。
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最近は人の縁が広がってきています。
このブログでも8万さんをはじめ、多くの方からたくさんの情報をいただき、新たな発見や道筋が見えてくるということがありました。
有難いことですね。
2021年は僕的にちょっと大きなイベントもあり、ますます人生の探検も深まってきそうです♪
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旧道の坂本峠方面、また通れなくなっていたのですね。
情報ありがとうございます。
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磐座のことは全然わかりませんが、おっしゃることに同感です。
私が知っている範囲でいうと、岐阜の金山巨石群や熊本の拝ヶ石と同じテイストを感じました。要するに同じくらい古そうだなと。
全く見当違いかもしれませんが。
場所の見当は大体つきましたのでちょっと行ってみようと思います。
それと富氏からの宿題のお話、すごいですね。
恃むに足ると見込まれたchiricoさんも、一読者(もはやそう言っていいのかわかりませんが)に向き合われる富氏も素晴らしいです。
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今は路面決壊で、旧道は全面通行止めとなっています。
復旧の見通しは立っていないようで、しばらくこの状態が続くようで。
なので旧道入口に無理やり駐車して、そこから登山する必要があります。
目的の場所にたどり着いたら、思い切って石垣の上を乗り越えてさらに山頂方面を目指します。
道はないので、木の根木の枝、岩などに注意して進んでください。
あまり暖かくなると、細長いやつと遭遇する危険もありそうです。
足元もかなり滑りやすいので、滑落に注意です。
お一人では少々危険ですし、なにせ怖いのでお二人以上で行かれることをお勧めします。
とはいえ、素人にも辿り着ける程度の難易度ではあります。
宿題の話は、熱烈なファンへの富さんなりの労いだろうと思いますが、大変光栄であり、嬉しくて舞い上がっています。
本当に素晴らしい方です。
この時代に生まれてこれて良かったと、心の底から思います。
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背振山の磐座探査、素敵すぎます。
大発見ではないですか。すごい。
背振山地自体が花崗岩の塊なので、山に入る人は巨石を見慣れていて気にとめないのかもしれませんね。
私は、サークル状になっているのは人為的だと感じました。
あるいは配列は自然のものだとしても、そこに意味を見いだした人がいたのではないかと思いました。
東小河内の巨石祭祀遺構では中世の和鏡が出土していて、このあたりに磐座祭祀の伝統があったように感じています。
大野地区では縄文早期の玦状耳飾りが出ていて、高度な文化があったようですので、もしかすると縄文時代まで遡れるかも?なんて妄想してしまいました。
あ、出雲もアリですね。
背振山に出雲族がいたと、那珂川市のとある家に伝わっていますので。
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そうなんです、驚きました!
nakagawaさんも行ってみます?ご案内しますよ!
ちょっと冷静になって考えているところですが、純粋な出雲ではないと思っています。
かと言って物部でもないと思います。
物部族の祭祀跡には磐座崇拝もストーンサークルもありましたが、彼らは星神信仰、夜に登山可能な500m前後の低山にそれらはあります。
そして金立山や猪群山のストーンサークルは蓬莱信仰に基づいており、明らかな物部系祭祀跡ですが、中央の神体岩が細長く尖っているのが特徴です。
対馬某社の磐座神殿は、この発展形・完成形ではないでしょうか。
それに対し、背振のこの磐座は標高的にも形状的にも、違うと感じています。
この磐座と非常に似た匂いを感じるのは紀国の熊野磐座群です。
確かに熊野の磐座祭祀は出雲族も関わりがありますが、もっと根源的な祭祀民族の存在が気にかかっています。
それは出雲族よりも物部族よりも、昔から日本に定住していた南方系民族です。
強いて名付けるなら「名草族」とでも言いましょうか。
名草族といえば紀国の名草戸畔が有名ですが、この名草族は大分方面から渡ってきた可能性が濃厚です。
そして名草族はおそらく邪馬台国である宇佐・豊族の大元たる民族だと思われます。
そして栃木・名草の巨石群とこの磐座の無造作に置かれたサークル状の巨石群が僕の中でリンクします。
そう、十分縄文時代まで遡れる祭祀遺跡ではないでしょうか。
ところで話は変わりますが、10月にあの富氏と親しくさせていただくという、夢のような出来事がありました。
昨夜も2時間ほどお電話でお話をさせていただいたところです。
ご高齢でありますが、とても理路整然とお話しされ、日本の古代を知る上でかけがえのない方だと改めて認識しました。
その富氏は、安曇族は物部ではなく海部の親戚であるとおっしゃっておられます。
海部と物部は同祖であるので、これまた区別が難しいのですが、阿曇磯良は磯武良とも呼ばれていたそうで、これが五十猛に通じるとしたらそれは海部であるということになります。
ひょっとすると背振・那珂川あたりは、物部と海部の境界域だったのかもしれないと思い始めているところです。
この磐座発見がきっかけで土蜘蛛族のことも気になり始めましたし、いくつかのシリーズも追っているところです。
富氏から多くの情報を得たことで、そもそもこのグログの過去記事を一新しなければならないと感じていますし、富氏から大きな宿題もいただいています。
まったくコロナだろうがなんだろうが、この日本という国は僕を退屈させてくれませんね😄
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https://omouhana.com/2018/01/28/%e4%b9%85%e4%b9%85%e8%83%bd%e6%99%ba%e3%81%ae%e8%81%96%e6%9c%a8%ef%bc%88%e5%ae%ae%e5%b3%b6%e3%81%a7%e4%b8%80%e7%95%aa%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e6%9c%a8%ef%bc%89/
今拝見しました。知らないことだらけです。ありがとうございます。
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コラボ良いですね。龍神池の神聖なザリガニ様に酷いことを、ヤッチマッタ。
宮島の奇岩の上に乗って日の出を眺めたりもしましたし。我ながら不届き者です。
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子供の頃の遊び場は神社だったりして、今思えば色々と酷いことやってました😅
でも日本の神はおおらかだから、大抵は許してもらえますよね😊
宮島の日の出はまた格別でしょうね、岩の上、それやってみたい笑
ところで、宮島で一番美しい木、というものをご存知ですか?
大彦の子孫の名前を龍神に見立てて名付けてあります。
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すごく楽しそうで、笑っちゃいました。大発見であるといいですね。
今更ながら子供の頃にザリガニを釣った龍神池のネーミングや、
宮島の山頂の岩や、山頂までの奇岩をなぜありがたがるのだろうという疑問が
最近少しずつわかってきたような気がします。
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Yopioidさん、ありがとうございます!
あぁ〜そのザリガニ、龍神だったんじゃないですか?
やっちゃいましたねぇ、子供の頃のあるあるですよ笑
いつも一人で悶々と旅してますので、プチ冒険とはいえレディと一緒でことのほか楽しかったです。
いつかYopioidさんともコラボしませんか?
TAMA☆HYUN☆スポット巡りとか楽しそうですね♪
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