豊国軍が安芸の国に留まっていた248年頃、女王宇佐豊玉姫は安芸国の埃ノ宮で没し、その遺体は「安芸の宮島」に仮埋葬された。
戦時中であるので、女王の墳墓は厳島には造られなかったが、遺骨は宇佐に移された。宇佐八幡宮から見える奥山に、墳墓があると言われるから、それが豊玉姫の墓であるらしい。
遺骨の一部は宇佐神官に移され、本殿のニノ御殿の下に、ウサ王家の先祖と共に祭られていると言う。
- 勝 友彦 著『魏志和国の都』
広島県安芸郡府中町にある「埃宮」(えのみや)を訪ねました。
境内に足を踏み入れると、
おや、「多家神社」(たけじんじゃ)と扁額にあります。
それにしても立派な階段。。
ひいこら石段を登ると
神域が広がっていました。
当社の変遷はやや複雑です。
社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(たけりのみや/古事記)あるいは埃宮(日本書紀)の跡に創祀されたものと伝えています。
しかし中世の頃、度重なる武士の抗争により社勢は衰え、ついには神社の所在がわからなくなりました。
江戸時代になると、境内社に「たけい社」のあった「松崎八幡宮」(南氏子)と、安芸国総社である「総社」(北氏子)がそれぞれ多家神社の後裔社を主張し、論争となりました。
そこで明治6年(1873年)に、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森」(たれそのもり)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸「稲荷社」の社殿を移築し、両社で祀られていた神を祀りました。
それが今の多家神社です。
当社祭神は「神武天皇」と、安芸国の開祖神とされる「安芸津彦命」。
相殿神に「神功皇后」「応神天皇」「大己貴命」を祀ります。
広島城三の丸稲荷社の社殿を移築した社殿は大正4年(1915年)に火災で焼失。その後、同11年に再建されて今に至ります。
境内にある宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重なものとなっています。
校倉造の校子(あぜこ)組手を四角形とする極めて異例のもので美しい建造物です。
当地の由来となっている「誰曽廼森」という名前は、神武天皇の滞在時に「曽は誰そ」と訊ねたことによるものと伝えられます。
しかし富家の伝承を紐解くと、また別の由来が見えてきました。
第二次物部東征軍での主流は、物部イクメ王率いる瀬戸内方面の戦いでした。
実際には物部・豊の連合軍でしたが、イクメ王の物部軍船が先に進み、遅れて女王豊玉姫や豊彦・豊姫が乗る豊国軍船が続いたと云います。
瀬戸内地方での征服戦は、8年以上も続いたと『魏志和国の都』の著者「勝友彦」氏は記します。
豊国の軍勢はまず安芸の国に上陸し、征服戦を始めました。しかし豊玉姫が病気になり、厳島に埃宮を建てて、養生に当たることにします。
その間、豊国軍は安芸の征服と東征に加える兵士集めを行い、豊玉姫は、物部イクメ王を東征軍の最高指令官に任命し、先に進軍させました。
そして248年頃、女王宇佐豊玉姫はそのまま安芸国の埃ノ宮で没し、その遺体は「安芸の宮島」に仮埋葬されることになったのです。
宇佐家の末裔を称する「宇佐公康」氏の著書「古伝が語る古代史―宇佐家伝承」には次のようにあります。
「宇佐家の伝承によると、天皇は宇佐の地に四年のあいだ留まった。ウサツヒメノミコトは、天皇が宇佐を出立して、さらに東遷するにあたって随伴し、筑紫国の岡田宮に一年、安芸国の多郡理宮(埃宮ともいう)に六年とどまって、巫女として神祗に奉仕し、この地で神武天皇とのあいだにミモロワケノミコト(御諸別命)が生まれた。それからまもなく、ウサツヒメノミコトは病気にかかって亡くなり、 一年後には天皇もまた病気で亡くなったので、ウサツヒメノミコトを葬ったと同じ伊都岐島の山上の岩屋に葬ったといわれている。伊都岐島とは神を斎く島という意味で、今の広島県佐伯郡官島町厳島である。」
宇佐公康氏の伝承は記紀に準じた部分が多いものの、それでもウサツヒメノミコト=豊玉姫が厳島の山上の岩屋に葬られたという点で、勝友彦氏の富家伝承に基づく考察に準じています。
しかしそれなら、埃宮は宮島にあったのではなかろうか。
「松崎八幡宮」を擁する南氏子と、「総社」を擁する北氏子との、多家神社の後裔社論争が「誰曽廼森」の「多家神社」として合祀され解決した後、両社に伝わる古記は、なんと後の争いを避けるために全て焼却されたということです。
もはや埃宮の真実は闇と消えてしまいました。
あと、当社にはこの人たちも関連してきます。
で、でたわね!
ヤタガラス、大頭神社(おおがしらじんじゃ)でも関わってきますよね、あなた。。
それに多家神社って多家(太家)絡みなんじゃないの?神八井耳出てきちゃう?それとも藤原?
謎多すぎ、古記残しといて~。。
実は中国山地の分水嶺、広島県安芸高田市にも「埃宮」(えのみや)がありました。
社名はそのまま「埃ノ宮神社」。
誰曽廼森(たれそのもり)に上陸した神武天皇は、太田川、根の谷川を北上し、高田郡可愛村(えのむら)に到着したと伝えられています。
神寂びた鳥居が素敵。
階段を登り切った丘の上にポツンと社殿が建っています。
当地の神楽には「八岐大蛇」や「神武」の演目があり、また八岐大蛇にまつわる伝承があるのだそうです。
ただこの神楽は石見神楽の影響を受けているみたいです。
しかしながら中国産地は鉄も産出されており、日本書紀は「一書に曰く」として、スサノオとヤマタノオロチが戦った場所を「安芸国の可愛(えの)川上に下り到ります」と記しています。
当社の周りを流れる川が可愛川であり、やがて日本海に注ぐ江の川になります。
周辺はかつて『根村』と呼ばれ、スサノオが住む「根の国」と伝えられてきたとのこと。
これは或いは、広島から別れた別働隊が、出雲方面を攻めた話ではないでしょうか。
この埃ノ宮神社から北上すれば、そこは石見国であり物部神社に至ります。
この近辺には弥生時代末期の四隅突出型墳丘墓も見つかっており、この出雲勢力圏で激しい戦いがあったことを彷彿とさせました。