熊野三所神社

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南紀のリゾート地「白浜」。
そこに広がる白良浜は、かつてガラスの原料とされていた白い砂で埋め尽くされています。
とは言っても、本来の白い砂はずいぶん痩せ減っていて、今はオーストラリアの砂漠から輸入した砂で補っているのだとか。

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その白良浜の一角に鎮座するのが「熊野三所神社」(くまのさんしょじんじゃ)です。

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こちらが表参道。
白良浜側は裏参道になります。

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鬱蒼と茂る杜。

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当社の創建は、伝承によれば、斉明天皇4年(658年)に「斉明天皇」が、弟の「有間皇子」の勧めで牟婁の湯(白浜温泉)に行幸した際、腰を掛けた石を祀ったことに始まるそうです。

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後に熊野三所権現を観請して社殿を整え、現在に至ります。

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参道の横に、「火雨塚古墳」(ひさめづかこふん)というものがありました。

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直径8m、高さ2m横穴式石室の円墳です。

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石棺蓋石に人名と思われる線刻が見られるそうで非常に貴重な古墳なのだそうです。

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広いところに出ました。

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一段上がったところに本殿があります。

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祭神は「伊弉冉尊」「速玉男命」「事解男命」ですが、本殿下には斉明天皇の腰掛石と呼ばれる長方形の磐座があるそうで、また本殿の背後には巨大な岩石があり、本来は熊野特有の自然崇拝、巨石信仰の聖地だったのだろうと思われます。

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この斉明天皇の「牟婁の温湯」(むろのゆ/白浜湯崎温泉)行幸の裏には、悲しい歴史がありました。
天皇に行幸を勧めたのは「有間皇子」です。
幼い孫を亡くして悲しみに暮れる天皇を慮ってのことでした。

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有間皇子は、斉明の前の天皇である孝徳天皇の子です。
斉明天皇には実の息子「中大兄皇子」がいます。
中大兄は「中臣鎌足」と組み、乙巳の変を始めとして自分の政敵を徹底的に排除していった男です。
その中大兄皇子が有間皇子を放って置くはずがありませんでした。

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牟婁の湯に斉明天皇、中大兄皇子らが行幸に出かけ都を留守にしている時、「蘇我赤兄」(そがのあかえ/物部シビ)が間皇子邸を訪ねてきました。
突然の来客も場が馴染んできた頃、赤兄が有間皇子に斉明天皇の失政をあげ、謀反をそそのかします。
後日、今度は皇子が赤兄の家に行き、謀議をめぐらしました。

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その夜半、皇子が屋敷で休んでいると、突如赤兄の兵が邸を取り囲みました。
皇子はそのまま謀反の嫌疑で捕らえられ、共謀者とともに牟婁の温湯に護送されることになりました。
有間王子は嵌められたのです。

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「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む 」
(磐代の浜にある松の枝を結んだ。運よく無事であったなら、また帰りにこの枝を見よう。)

「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 」
(家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。 )

万葉集に記されるこの二首は、護送される途中で有間王子が読んだものです。

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やがて牟婁の温湯に到着した有間皇子を待っていたのは中大兄皇子の厳しい尋問でした。

「天と赤兄と知らむ 吾全(われもは)ら知らず」
(天と赤兄なら事の次第を知っているだろう 私は何も知らない)

有間皇子はそう一言だけ答えたと云います。

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再び都へ送還された有間王子は、藤白の坂(和歌山県海南市藤白)で絞首となり、19の若い命を散らせたのです。

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境内には一艘の船が奉納された「御座船奉安庫」があります。
この船は昭和4年(1929年)に昭和天皇が南紀の神島(かしま)へ行幸の際に乗船した、菊の御紋のついた御座船です。

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神島は人の手が入っていない自然が残された小さな小島です。
亜熱帯性の植物、菌類、粘菌の宝庫ですが、一時全島伐採の危機に見舞われます。
これを保護するために尽力したのが「南方熊楠」という人物でした。
この熊楠に迎えられ、昭和天皇は神島に上陸します。

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天皇ご進講の翌年、神島は和歌山県の天然記念物に指定されました。
その記念碑には熊楠の歌が刻まれています。

「一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでましゝ森ぞ」

昭和16年(1941年)に熊楠は75歳で生涯を閉じましたが、昭和37年(1962年)に昭和天皇は再び南紀を行幸し、白浜の宿から神島を眺め、次の歌を詠まれたのだそうです。

「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

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2件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    白浜の砂は輸入で補っているのですか(@_@)初めて知りました(^_-)-☆

    いいね

    1. CHIRICO より:

      こんにちは。
      調べてみると、そういうことらしいですよ。
      僕も驚きました!
      現地の方は、美しい海岸を守るため、色々とご苦労なさっているようです。
      砂漠の砂を海岸に、というのも面白いなと思いました。

      いいね

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