海水にその身の全てを沈ませ、女は思った。
ここはいつも、懐かしい故郷のようだ。
雑音は消え、静かな息遣いのみが聴こえる。
振りほどかれた長い髪は波の流れになびいていた。
…
橿日の浦では潮が引き、海を割るように一筋の砂州が沖へと向かって伸びていた。
群臣たちが見守る中、皇后はその先まで歩いて行き、おもむろに一束の髪をほどく。
美しく長い髪が、皇后の肩から背中に流れるように落ちている。
「私は今、神々の教えを受けて、青き海原を渡り、みずから新羅の国を討とうとしています。
もしこれが成されるというのなら、海水に浸けた私の髪は自然と別れて二つになりますよう。」
腰まで海に浸かった皇后は、大きく唱え、そのまま頭まで海にくぐらせた。
冷たい海の水が全身を包む。
神功皇后が身を海から起き出してみれば、髪は自然と二つに分かれた。
皇后はその髪をそれぞれ束ねて、男の髪型であるミヅラに結う。
「私は女であり、また戦で人の上に立つには未熟者だ。
しかし、しばらく男の姿を借りて雄々しく戦おう。
上は天神地祇の霊威を、下は群臣たちの助けを借りて、
兵を興し、高く険しい波を越えて船々を整え、
神の示した財宝の国を手に入れよう。」
「軍を起こし民を動かすは国の大事。
戦は易き時も危き時もあって敗戦する時もある。
今、神の示した征伐すべき土地があり、これを得れば皆に授けよう。
もし敗戦し、皆に罪が及ぶというのであれば、これは傷が深い。」
「故にここに宣言する。
戦いに勝利せば、軍功はここに集う皆と共にある。
勝利できない時は、ただ私一人に罪がある。
これが私の決意だ。
さあ、群臣どもよ、どう考えるか話し合うがよい」
そこに立ち並ぶ者たちの返答は早かった。
「姫様、天下のため、国家安泰のため、我々は全力を尽くします。
負けて姫様に罪が及ぶようなことは決してありません。
謹んで詔(みことのり)を承ります。」
群臣たちの気持ちは、すでにひとつとなっていた。
【警固神社】
福岡市天神地区の超一等地にある「警固神社」(けごじんじゃ)です。
警固神社の御祭神はイザナギが黄泉の国から帰り、禊をした時に生まれた神のうちの三神です。
八十枉津日神(やそまがつひのかみ)・神直日神(かんなおひのかみ)・大直日神(おおなおひのかみ)を祀り、
これを警固三神と言います。
神功皇后の三韓征伐の際に警固三神が現れ、軍集を守護し勝利に導いたと言われ、
その報恩に神功皇后が、福崎山(現、鴻臚館跡)に警固三神を祀りました。
黒田藩福岡城築城の時に現在地に移されています。
【大神神社】
9月10日、皇后は諸国に勅命を出し、軍勢を集めて訓練を行うことにしました。
が、なかなか兵が集まらなかったといいます。
そこでこれは神の御心のせいだろうということになり、大神(おおみわ)の社を建て、太刀と矛を奉納しました。
すると自然に軍勢が集まったということです。
その場所は奈良と同じ名前で「大神神社」(おおみわじんじゃ)と呼ばれています。
ここで勧請された神は奈良の大神山の大物主(おおものぬし)であり、出雲大社の大国主、大己貴(おおなむち)と同一の神と云います。
似たような話で羽白熊鷲討伐の際、兵士が逃げ出したとして神功皇后は「大己貴」を朝倉で祀っています。
皇后重臣に奈良県の三輪山を支配する「大三輪大友主君」がいたことから大物主を祀ったのでしょう。
出雲王家子孫の富家伝承では三輪山に眠る神は「事代主」となっています。
境内には宮前古墳のひとつがありました。
この付近は古来より、確かに重要な聖地であったのでしょう。
大物主系の神社に多い、山や大いなる自然を神として遥拝する形式がここにもありました。
奥には古墳群がある森が広がっています。
【波折神社】
「波折神社」(なみおりじんじゃ)は津屋崎の古い町並みにある神社です。
境内には様々な貝や石が奉納されています。
主祭神は「瀬織津大神」(せおりつおおかみ)となっています。
波折神社は神功皇后が三韓征伐凱旋後に神が現れたので宮之本というところに祀ったそうですが、のちにここへ移されたそうです。
瀬織津大神は祓戸の神です。
様々な汚れなどを海まで流して祓ってくれます。
決して広いとはいえない境内には、所狭しと、海から拾われたであろう石などが祀ってありますが、僕が気になるのは
この「波乗りうさぎ」の像です。
とてもユニークで良くできているんですが、もう少しちゃんと修復すればいいのにと思ってしまいます。
でもなんか、慣れてくると、これも可愛く見えるから不思議です。
【楯崎神社】
津屋崎の渡半島の崎に、すごい霊跡がありました。
「楯崎神社」(たてざきじんじゃ)です。
地図をたどって着いたところは、何の変哲も無い、古びた社です。
ここの主祭神は「大己貴命」です。
神功皇后もここへやってきて、大己貴命に戦勝祈願をしました。
しかし先ほどの社はのちに移されたものです。
本来の霊跡はそのから1kmほど進んだ先の「元宮」にありました。
細い山道を歩きます。
この下は断崖絶壁の崖であることが、打ち寄せる波の音でわかります。
そして見えてきました。
これが本来の楯崎宮です。
後ろに控える巨大な岩。
そう、まるで巨人の盾のようです。
太古の昔、異国の民がここを攻めてきました。
これを大己貴命と、その妃の宗像姫大神が手を取り合って防ぎ守ったそうです。
その時、大己貴命が使った楯が大岩となったと伝わります。
大己貴命とは出雲王の役職名である「大名持」(おおなもち)を表しています。
歴代大名持のうち神門臣家出身8代目の「八千矛王」(やちほこ)が宗像三女神の次女「多岐津姫」を娶っています。
当時は妻問婚(つまどいこん)という、夫が妻の家に通う結婚形式でしたので、ここは八千矛と多岐津姫のロマンスの場所だったのかもしれません。
【御島神社】
さて、激しい戦と祭祀の旅から神功皇后の皇軍は再び橿日に戻ってきます。
そこで皇后は香椎宮から海岸に向かい、とある聖地へと足を運びます。
そこは現在、「御島神社」(みしまじんじゃ)と呼ばれています。
海の中に小さな祠が見えます。
鳥居のさらに先にある小さな祠の位置で神功皇后は海中に入り、身をすすいだと言います。
そこで別れた髪をみずらに結って男装をし、三韓征伐に向けて戦意を新たにしました。
皇后は半分男になったので、その浜を「片男佐浜」と呼ぶようになります。
皇后はここまで小舟に乗って行ったのかもしれませんが、大潮の日の干潮時には、
このようにかなり潮が引きます。
そして片男佐浜から御島神社には海底より盛り上がった、一筋の道が海中にあったようです。
このことから、神功皇后は海を割るように聖地まで歩いて行くという演出を行ったのではないでしょうか。
ここには、この後重要になってくる志賀島の安曇一族の神「綿津見大神」を祀っています。
実はこのストーリーは日本書紀ではもう少し前に語られています。
でも僕はあえてこのタイミングにずらしてみました。
なぜなら、この方がしっくりきますし、何と言ってもこの海中の聖地を誰が知っていたでしょうか。
これを皇后に教えたのは、きっと綿津見大神を祀る「安曇磯良」その人しかいないだろうと思ったからです。
神功皇后はここで髪をみずらに結った後、戦いの利は群臣のものであり、負けた場合の罪は全て自分にあると決めたと告げます。
この若く美しい姫が示した健気な心意気に感銘を受けない者はいなかったでしょう。
群臣一同の心は大きく、一つの塊へと結びついたのでした。