樂樂福神社:八雲ニ散ル花 36

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神社の近くに「鬼林山」という名の山があった。
そこには、暴れ回って村人を困らせる「牛鬼」を首領とする鬼の集団がおった。
この地を訪れた孝霊天皇はその話を聞き、早速鬼を退治することを村人に約束した。

天皇は皇子神達や随従の神々を率いて勇猛果敢に鬼たちと戦った。

しかしそ牛鬼は降伏するどころか、手下を率いてさらに激しく抵抗して暴れ回ったのである。

鬼との争いが続く中、ある時、天皇は夢を見た。
天津神が枕元に立ち「笹の葉を刈って山のようにせよ。風が吹いて鬼は降参するであろう」と告げたのである。
天皇はお告げに従い、笹の葉を刈って山のように積み上げた。
すると3日目に南風が吹き荒れて、笹の葉はまたたく間に鬼林山に飛んでいった。
天皇が敵陣へ向かうと、そこに笹の葉が全身にまとわりついてうろたえる鬼達がいた。
そこに火をつけるとあっという間に燃え広がり、一兵も失うことなく勝ちを収めたのである。

現今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。
人々は喜び合い、天皇を勝利に導いた笹の葉で屋根を葺いた社殿を造り、天皇を祀った。

これが「樂樂福神社」の始まりである。

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鳥取県日野郡日南町、「島根」「広島」「岡山」との県境にも近い山奥にある、「樂樂福神社」(ささふくじんじゃ)を訪れました。
ここは、日本最古の鬼退治にまつわる伝承がある神社です。

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樂樂福神社は、元は「東樂樂福神社」と記され、やや西の方にも「西樂樂福神社」がありました。
が、現在、西樂樂福神社は取り壊され、平成16年11月3日に当社に合祀され、一社となっています。

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他にも日南町宝谷と鳥取県西伯郡伯耆町宮原にも同名の神社が鎮座しています。
冒頭のストーリーには、伯耆町の樂樂福神社の伝承を一部取り入れています。

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さて、孝霊天皇と称される「フトニ大王」の時代、大和と出雲は激動の時代となっていました。
北九州に勢力を広げた物部族は、日本の支配者となるために畿内の大和王国を攻めようと考えます。
しかし当時の大和王国は、出雲王国と連携を取っていて強大でした。
そこで物部の軍が和歌山の紀伊国から攻めるのに合わせて、但馬のヒボコ勢に大和と出雲を繋ぐ「播磨」を攻めるよう誘います。
ヒボコ勢も但馬王国を広げたいと考えていたので、ここで播磨を攻めました。
播磨は鉄の生産にも適した土地だったと云います。

出雲王国の領地だった播磨を攻められた出雲王家は、大和のフトニ大王に助けを求めますが、大王は当初これを無視しました。
そしてヒボコ勢が播磨を攻め終えようとしたその時、大王は心変わりし、二人の息子と共に、一気に播磨を攻め返します。
この時の大和軍の勢いは凄まじかったようで、ヒボコ勢は散り散りに退散していきました。

出雲王家は、フトニ大王が播磨を奪還してくれたことに安堵しましたが、大王は播磨をそのまま占拠してしまいます。
それどころか、更に出雲王国の領地であった備前・備中・備後・美作を含む吉備までも攻め、支配してしまいました。
それらの土地は、やはり鉄がよく産出される土地でもありました。

それからフトニ大王は二人の息子に命じて、更に出雲王国本土へ攻めさせたのです。
それはその壮絶さから、「第一次出雲戦争」と呼ばれました。

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交戦する出雲軍は西北の山地に追い詰められました。
大倉山から北に進んだキビ兵は印賀(日南町宝谷)で、砂鉄を見つけ、野ダタラを吹き、鉄を作ったと云います。
それを使って槍の刃を大量に造り、さらに軍力を高めます。
この地は後世には「印賀鉄」の産地として有名になり当社とは別の「樂樂福神社」を建てました。

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樂樂福神社の“ささふく”という名前の由来は、「砂」即ち砂鉄をたたら吹きで製鉄することを意味すると云われています。

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手水舎のそばに、「鬼の投げた石」というものが鎮座していました。

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出雲兵を攻めるフトニ大王の二人の息子は「大吉備津彦」と「若健吉備津彦」と呼ばれました。
彼ら率いる吉備軍は、出雲兵を鬼と呼び、後者がこもっていた山に「鬼林山」「鬼住山」の漢字を当てたそうです。

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吉備軍から出雲王家に、宣戦に先駆けて遣いが派遣されました。
用件は2つあったと云います。

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1つ目の要求は、出雲の仁多郡と飯石郡をフトニ大王にゆずれ、というものでした。
その地方は奥出雲とも言い、神門臣王家の領地でした。
また奥出雲は真砂砂鉄の産地であり、野ダタラによる低温精錬に適した、国内で最も良質な砂鉄がとれたと云います。

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2つ目の要求は、すべての銅剣をフトニ大王に渡せ、というものでした。
さらに多くの銅剣を造るために、フトニ大王は素材になる青銅を欲しがっていたそうです。
銅剣をすべて渡せということは、出雲王国の勢力を広げるな、という圧力でもありました。

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2つの要求には出雲は承服しかねました。
その時まで600年以上続いた出雲王国の誇りが、それを許さなかったのです。
出雲の両王家は、要求には応じないことを決めて通知しましたが、それを受けた吉備津彦兄弟の軍勢は、怒涛のように奥出雲を目指しました。

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奥出雲は神門臣王家の支配地だったことから、西出雲兵が防衛に当たりました。
西出雲兵は、大倉山や林山に隠れ、ゲリラ戦で吉備軍の弱い所を攻撃したそうです。
出雲兵が大勢隠れていた林山を、吉備軍は「鬼林山」と名付けました。
鬼とは、「出雲兵」のことでした。

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進軍してきた大吉備津彦と若健吉備津彦は、ここ、宮内の日野川の左岸と右岸に館を建て、一説には地元の美人を集めて優雅な生活を過ごしたそうです。
大吉備津彦と若健吉備津彦の住んだ陣屋跡には、後に樂樂福神社東宮と樂樂福神社西宮が建てられました。

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降り始めた雪のせいもあるでしょうが、とても厳かで、神秘的な神社です。

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神門には三輪山で有名な樟玉が下がっています。

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凛と冷えた空気の中に社殿がありました。

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狛犬も新しいながらに風格があります。

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金色の目が、雪景色に映えます。

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主祭神は「大日本根子彦太瓊尊」(おおやまとねこひこふとにのみこと)、第7代孝霊天皇と云われている人です。

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他、フトニ大王の皇后「細媛命」(くわしひめ)、「若建吉備津彦命」、「福媛命」(ふくひめのみこと/天皇の后、または皇女とする説もある)、「彦狭嶋命」(ひこさしまのみこと/別名 歯黒皇子)が祀られます。

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この樂樂福神社の場所に陣屋を構えた吉備津彦兄弟は、斐伊川に沿って出雲人の村々を焼きはらい、奥出雲を目指しました。
大吉備津彦らは、出雲王家の血も受け継いでいますが、血筋を遡れば、「スサノオ・徐福」の血を引いているので、古事記ではヤマタノオロチ神話でスサノオに例えられました。

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斐伊川の本流と出雲人はオロチの胴体に例えられ、各支流の出雲人は八つの首に例えられます。
斐伊川の流域には、吉備王国の兵士がその後住みついたそうで、その流域にヤマタノオロチ神話にゆかりある神社が多数点在しています。

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やがて西出雲王家の神門臣家は吉備王国に降伏します。

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これにより、出雲王国と吉備王国は、つかの間の平和を得たと伝えられていました。

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大吉備津彦命が陣屋を設けたのが樂樂福神社西宮だったと云います。

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そこは今は取り壊され、跡地が残るばかりになっています。

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参道途中に今も残る狛犬は、その姿が阿形・吽形とも玉に乗っていて、広島県に多い形「尾道型」というのだそうです。

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「出雲式」狛犬とは異なり、少し色も白っぽく、尾の先が開いているのも特徴的です。

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この狛犬は安政2年(1855年)のものだそうですが、吉備から攻めてきた吉備津彦らの聖地であることから、彼らの子孫が建てたのかもしれません。

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跡地には神門だけがかろうじて残っていました。

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しかし社殿はなくとも、そこは今も神々しい神気に満ちていました。

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当時の御祭神は「大日本根子彦太瓊尊」「細媛命」「大吉備津彦命」「彦狭嶋命」「絙某弟命」(はえいどろのみこと)「大山祇命」(おおやまづみのみこと)。
この後、フトニ王は出雲王家が分裂し、東出雲王家がまだ恭順していないことを知り、更に苛烈な攻撃を仕掛けるのでした。

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