修験の聖地「山形」、その懐は深い。
「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」で有名な山寺には、裏の聖地があるというので訪ねてみました。
そこで僕は、驚くべき自然の造形を目の当たりにします。
あ、トライポフォビア(集合体恐怖症)の方は閲覧注意です。
山寺 立石寺にほど近い場所に最上三十三観音 第2番 山寺『天台宗 宝珠山 千手院』があります。
慈覚大師が開山したといわれ、立石寺と合わせて、大師の霊域のひとつとされます。
参道入口に立つ石の鳥居は「ついてる鳥居」と言い、健康食品「銀座まるかん」創業者「斎藤一人」氏によって奉納されたもの。
鳥居に抱きついて「恋愛」「金運」を願うと叶うとされます。
欲張って両方願ってはいけないそうなのですが、
果たして僕が願ったのはどちらでしょうか。
鳥居を潜って階段を昇ると、いきなり線路が現れます。
踏切はないので、注意して渡ります。
線路はまるで僕の人生のように続くよどこまでも。
当院の本尊は慈覚大師の作とされる「木造千手観世音菩薩立像」です。
現在は秘仏として安置されており、代わりに高さ約1mの金色の千手観音立像を拝顔することができます。
亀のような石を発見。
いやいや流石にこれは、人の手が加わっているでしょう。
ひょっとして古代の祭祀遺物とか?!
さて、僕が千手院を訪ねた目的はこの裏山にあります。
猛暑で汗が止まぬ中、やまでら天台のみちに向けて足を踏み出したのです。
鬱蒼とした森の中を登っていきます。
さほどきつい傾斜ではありませんが、噴き出る汗と排出される二酸化炭素に誘われて、モスキートたちが僕の周りで舞を披露してくれるので退屈しません。
エキサイティング!
木の根に溜まった水場があります。
偶然できたものではない雰囲気。
やがて大きな岩が\コンニチワ/とちらほらと姿を見せます。
こ、これは
磐座か、磐座じゃないのか、
などとぶつぶつ独り言が孤独を優しく包み込むころ、
それは僕の前に現れたのです。
この千手院観音の裏手の霊域は裏山寺と呼ばれていますが、正式には「峯の浦」と言います。
そこには七つの岩が並ぶように見える「城岩七岩」(しろいわなないわ)と呼ばれる巨岩群もあり、中世の山城の様相をなし、隠し砦を思い起こさせる景色であると語られます。
城岩七岩のいくつかは岩の上に立つこともでき、のどかな集落の景色を望むことができました。
こうして見てみると、峯の浦は本当に、古代には山城だったのではないかと思えてきます。
なぜならこの奥には、想像を絶する、守るべき聖域があるからなのです。
烏帽子岩という磐座もありました。
烏帽子というよりは、グロテスクなモンスターの顔のようです。
そして峯の浦で最もミステリアスな場所が
「垂水遺跡」と呼ばれるここ。
垂水遺跡は大きく3つのエリアに分けられます、たぶん。
左手のエリアには「古峰神社」(ふるみねじんじゃ/こぶはらじんじゃ)と掘られた石碑がありました。
古峰神社といえば、修験系の栃木の天狗の神社。
それにしてもこの有機的な岩肌の圧倒さよ。
まるで蜂の巣のような独特の穴の集まりは「雲形浸食」と呼ばれるものです。
岩に含まれる硫酸ナトリウムや塩化ナトリウム(食塩)などが、水に溶けだす事によってこのような蜂の巣状に形成されるのだそうです。
中央のエリアはあまりに神々しく、息を呑む美しさです。
雲形浸食によってできた洞穴に立つ鳥居。
上まで昇れるのですが、畏れ多さに踏み出す一歩を躊躇います。
しかし洞穴に入って感じる安堵感。
そう、この有機的な岩肌は人の胎内を連想させずにはいられません。
修験の修行の一つに「胎内くぐり」というものがありますが、ここに至った修験者は、まさに生まれ変わりを体感したのではないでしょうか。
そう、垂水遺跡は修験の霊地。
大いなる母神の磐座が、この先の最後のエリアに待っていました。
垂水遺跡の右手奥エリアは「垂水不動尊」と呼ばれます。
そこにある巨大な岩の割れ目からは水が滴っており、中間ほどの位置には、不動明王が祀られています。
左手の岩肌には千手観音が線刻されていたと伝えられていますが、今は風化してその姿は見えません。
垂水不動尊の横にある横穴は、修験者の居住跡だとか、慈覚大師・円仁が修行し、現在の山寺の構想を練った場所だと伝えられています。
横穴の上の岩肌に横一直線に溝が掘られているのは、雨水がそのまま下に流れ落ちないようにするための工夫なのだとか。
千手院の縁起によると、円仁が当地に籠ったのは天長7年(830年)のことだそうです。
円仁は延暦13年(794年)、下野国の美加保の関に豪族壬生氏の子として生まれ、大同3年(808年)に15歳で比叡山の最澄に弟子入りします。
弘仁5年(814年)、言試(国家試験)に合格、翌年21歳で得度(出家)しました。
承和5年(838年)に入唐、承和14年(847)に帰国。
仁寿4年(854年)に円仁は61歳で第3代天台座主に任ぜられ、貞観6年(864年)71歳で没しています。
円仁は天長7年に東北巡錫(とうほくじゅんしゃく)を行なっており、その際にこの聖域に至り、心惹かれて山寺開基の構想を練ったのだと云われています。
さらに嘉祥2年(849年)に円仁は当地を再訪し、一説にはマタギの首領・磐司磐三郎から土地を譲り受け、山寺を開基したのだと云うことです。
しかし史実的には円仁の再訪の可能性は低く、実際には朝廷の命令で東北地方に派遣された円仁の弟子「安慧」(あんね)によって開基された可能性が示唆されています。
ともあれ、円仁が当地に偶然辿り着いたというよりも、里人からこの古代の聖域のことを聞き、探し行き着いたとする方が自然です。
この垂水遺跡は、出雲のサイノカミ信仰の痕跡が濃く漂っています。
修験においても、開祖は飛鳥時代の呪術者「役小角」(えんのおづぬ)とされていますが、その根底に出雲散家との関連をみることができます。
ただ、山形の出羽三山信仰では、出雲的な痕跡を見つつも、三山最高峰の聖地を「日山」とはせず月読命を祀って「月山」としているあたり、豊族の影響を強く感じるものです。
他にも修験の地に豊国文字が残されていることもあり、今に伝わる修験道には豊族の影響があるのではないでしょうか。
そして当地が垂水遺跡と呼ばれる所以、それはこの巨大な岩の割れ目から水が垂れ落ちることから呼ばれるのでしょうが、豊彦の聖地「垂水神社」との名のつながりも気になります。
自然崇拝を特に重んじた出雲族と、同じ匂いを持つ豊族、両者の血のつながりは思っている以上に濃いのかもしれません。
ただ後年の修験には仏教の影響も強く、磐座自体に神代文字や仏像を掘り込むといった身勝手な行為がなされたことは甚だ残念に思います。
立石寺参道に累々と刻まれたそれらに、僕は実のところ強い違和感を感じていました。
神の依代である磐座は本来、絶対不可侵でなければならないもの。偉大な自然、その造形美に人はもっと謙虚でなければいけないと思うのです。
岩壁に刻まれた千手観音像が風化し、自然な姿に回帰した垂水のこの類稀なる自然美の中で、僕は自身の戒めを含めその思いを強く抱きました。
仏など刻まなくとも心謙虚であれば、見るべき人の前に女神は真の姿を見せるのです。
豊国文字って、よく考えたらあの豊国ですよね。
ウエフツミの出雲伝承と同じ部分が、ニニギの子孫がウガヤフキアエズ王朝を倒したという下りでしょうかね。
景行天皇が九州征伐を行ったところなどバッチリ出ていますし、サンカにも近い。
そして「宗像本系」「大友本系」の存在
大友は、二韓征伐後の朝鮮半島において最初に利権を構築した一族でその後失脚。武内宿祢系の子孫が利権を奪います。
神武を出雲伝承に従って、「村雲なのか、磐余彦なのか、イニエなのか」を意識さえしていれば面白いように理解が出来ますね。
ウエフツミは、イニエを神武として村雲の居た紀元前後近くに持ってきているので、ウガヤ九州王朝説が紀元前に来ています。
九州に残った物部氏も、イクメのやり方には納得してない人たちも多かったのでしょうかね。
何をもって偽書とするか。一般の人や研究者さんたちは、真実がどうかより、もはや何かのノリ的なもので偽書かどうかをイメージしているだけの様な気がしています。
大元出版の本の「神話と歴史はきちんと区別するべき」の言葉が重いですね。
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北部九州は、細かく回ってみると物部の痕跡は意外に少ないように感じます。イクメの時代にはかなり豊や海部、出雲に感化されていたのではないでしょうか。しかしイクメはイニエと薩摩のアタツ姫の子なので、ガチガチの物部だったのでしょう。
ところで豊彦と豊姫の父親はイニエだったのでしょうか。古事記などから読み解けばそうなりますが、彼らから物部の匂いは感じ取れません。イクメがそうであるように、豊彦豊姫も連れ子だったのではと思われてなりません。
様々な古史古伝にも熱心な信者がいて、その真偽を問うことは邪馬台国の所在を問うことと同じく、とてもセンシティブなことです。下手に突くと予想外に噛みつかれて😅
もはやこの手の話が決着することはないと思います。
編集長が「日本には偽書が多すぎると思わないかい」と電話口でおっしゃっておられたことが思い返されます。
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