吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていた。
戦を行ったがなかなか勝負がつかない。
その時天より声がし、命がそれに従うと、温羅はついに矢尽き、刀折れて、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。
すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。
それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。
大吉備津彦の鯉喰伝承が残る「鯉喰神社」(こいくいじんじゃ)は、倉敷市矢部の弥生時代の小さな墳丘墓の上にありました。
この鬼である温羅が鯉になって逃げたという話が僕にはどうにも引っかかります。
ワニ(サメ)になった豊玉姫。
ナマズを眷属とする豊玉姫。
福岡県嘉麻市にある鮭神社。
龍宮の乙姫とされた親魏和王の女王・豊玉姫は魚に関連づけられる傾向があると思うのです。
であれば鯉になった温羅族はひょっとして・・・
いやまあ、なんの根拠もないのですが。
鯉喰神社には大正6年(1917年)に4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀したとあります。
この楯築神社とは楯築墳丘墓の上にあったという楯築神社でしょうか。
鯉喰神社の祭神は「夜目山主命」(やめやまぬしのみこと)「夜目麻呂命」(やめまろのみこと)「狭田安是彦」(さたあぜひこ)「千田宇根彦」(せんだうねひこ)となっています。
ついでに「楯築遺跡」(たてつきいせき)にやってきました。
楯築遺跡は「楯築墳丘墓」(たてつきふんきゅうぼ)とも呼ばれる弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓です。
直径約43m、高さ4.5mの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持つ独特の形状です。
突出部両端の全長は72mに及び、同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級となるそうです。
が、墳丘内に給水塔が建っていたり、団地造成によって突出部分などが破壊されています。
主墳の頂上、そこには木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられていました。
当地には吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっているそうですが、これがその石楯なのでしょうか。
中央の石に何かあります。
これが鯉喰神社に合祀されたという楯築神社の跡でしょうか。
ここにはある不思議な石が御神体として祀られていたのだそうです。
それがこれ、旋帯文石(せんたいもんせき/弧帯文石)です。
神石(亀石)と呼ばれており、全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれています。
この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれています。
亀石ですか。
また豊のキーワード、亀をいただきました。
ここで鯉喰神社の話に戻ります。
祭神の「夜目山主命」「夜目麻呂命」「狭田安是彦」「千田宇根彦」、これらの面々は大吉備津彦命に寝返った温羅の元家来たちだったと云います。
または夜目山主命と夜目麻呂命は元からの吉備津彦の家来だったとも。
そういえば、吉備津彦神社の本殿周りに祀られていた四神が「楽々森彦命」(ささもりひこ)、「楽々与理彦命」(ささよりひこ)、「夜目山主命」「夜目麿命」でした。
夜目山主・夜目麻呂、夜目、やめ、、、八女!!!
夜目って八女津姫の八女か!
てことは狭田安是彦の狭田は佐太か?!
鯉喰神社によるところでは御神体は包丁と俎板といわれており、地元では温羅を捕えた後に夜目山主命が鯉を料理して命をもてなしたという伝承もあるそうです。
温羅の裏には(うらのうらってだじゃれじゃないよ)出雲があるとして、豊もいたんじゃないでしょうか。あるいは海部?
全てが憶測に過ぎませんが、なんだか悶々とした気持ちになりました。
富士林雅樹先生の『出雲王国とヤマト政権』を読み返していたら、楯築古墳についての記述がありましたので、付け加えておきます。
古墳は、一般には3世紀中頃に大和で初めてつくられたとされていますが、しかし実際は2世紀後半に吉備国につくられた、この楯築古墳が最初の古墳であったと言えます。
楯築古墳の形状やつくられた時期を考えると、吉備津彦兄弟が、父君・フトニ大君のためにつくった古墳である可能性が大きいようです。
フトニ大君の小さい墳墓は先に伯者地方につくられていたので、あとで遺体がここにに移されたものと考えられます。
遺体は木棺に納められ、当時の貴重品であった大量の朱が棺の底に敷かれていました。
また副葬品として豊富な量の玉類と、当時としては大型の鉄剣が見つかったことから、埋葬された人物が絶大な政治的権力を有していたことがわかります。
古代人は、生きた血の色と同じ赤色を、命の色であると感じており、また赤は女の聖なる出産力の色だと考えました。水銀朱を使うのは、死者の魂が赤子の体に乗り移って生まれ変
わるように、祈るためであったと云います。
壺のような二方向に突出のある形状は道教の蓬莱思想の影響を受けているものと考えられます。
古墳の「円」の部分は子宮を、「方」の部分は産道を表しており、被葬者がまた生まれ変わることを願ってつくられたものということになります。
楯築古墳の円墳の頂上中央部にあった5個の大岩は、道教では「中央の嵩山と、その東西南北の山を合わせた所に神仙が住む」という考えがあり、その聖山を岩で示したものである可能性が高いそうです。
あるいは東西南北の岩には、それぞれ古代シナの四神である青龍・白虎・朱雀・玄武が祀られたものかもしれません。
その中心に「亀石」が祀られていたのです。
この古墳の被葬者の棺桶の上からは、御神体石と同じ模様の約8分の1の石が、バラバラに壊された状態で見つかっています。
兵庫県たつの市の養久山古墳群には、楯築古墳と同じく二方向に方突部がある5号墳や、一方向の方突部を持つ1号墳があり、また阿波地方では、積石塚と呼ばれる形式の萩原1、2号墳
がつくられました。
萩原古墳から近い黒谷川郡頭遺跡や矢野遺跡では、弧帯文の描かれた土器が出土しており、阿波地方が吉備国とつながりがあったことがわかります。
吉備王国の楯築古墳は日本の古墳の元であり、磯城大王家の最初の古墳でもありました。そのため古墳の発祥地は吉備国であると言うことができるのですが、大変残念なことにその古代史上重要な楯築古墳の一方の突出部は、団地造成のために壊されてしまいました。
鯉に豊玉姫を感じるのは面白いですね。
確かに水属性ですし、鯉は龍になりますから。
「夜目→八女」「狭田→佐太」もあるかもです。
上代特殊仮名遣だと〝目〟は甲音で〝女〟は乙音ですけれど。
うきは市で双方中円墳が発見されたのも記憶に新しいですね。
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與止日女神社では祭神の使いの魚を食べることは禁忌とされています。この魚はナマズということになっていますが、あるいは鯉であってもおかしくないのではと思います。また嘉穂の鮭神社も気になっているところです。鮭神社は出雲にもあるそうですが。
古墳は疎いので、うきはに双方中円墳があったのは知りませんでした。情報ありがとうございます!
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Beautiful Koi eat shrine. Well shared ruin . Nice shot 🙂
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温羅さんは川で捕縛された挙句、俎板と包丁でぶった切られて命の宴会に供されたんですかね🐥元部下に調理されて🦑何かの野蛮なシャーマニズムの現場の詳細を物語っているかの様な生臭さを感じます。亀石の形の不気味さはどう考えても魔封じの何かの呪いの痕跡に見えて仕方ない。盾に使われた大きな石には魔物の気配を感じます。何ですかねこの遺跡は🐣
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