6月3日、高来県から玉杵名邑に至る時、土蜘蛛の津頰という朝敵あり。
当地を押領して王化に服せず、帝は之を誅せんとして東方遥かに天照大神を拝し、怨敵の降服を祈り給ふ。
しかして空中雷鳴の如く轟き、玉座の側に落つるものあり。
これ帝見給うに一の奇跡なりて神験ここにあらはれて、津頬も遂に討たれたり。
帝叡感ましまして此地に当社を建立し遥拝宮と称し給ふとあり。
菊池川の西、玉名平野北側に鎮座する「玉名大神宮」を訪ねます。
のどかな田園の丘にあり、素朴な雰囲気の神社です。
当地は「元玉名」と呼ばれ、玉名の地名の由来である「玉杵名」(たまきな)の地とされています。
玉名大神宮の「家系録」では、景行天皇の熊襲征伐の途中、玉杵名邑に来た時、土雲族の津頬(つつら)がまつろわず、抵抗したと伝えています。
この時景行帝は天照大神を祀って拝み祈ると、玉のような小石が落下して津頬を退治しました。
この小石を神の霊として尊び祀ったのが当社の始まりとします。
御祭は「天照大神」「景行天皇」「健磐龍神」などの阿蘇の四座、それに「玉依姫」「菊池則隆夫妻」となります。
本殿左に西末社、
右に東末社があり、菊池家の代々と玉依姫が祀られていました。
社伝によると、景行帝の土雲・津頬討伐の時、地元勢力の中尾玉守が皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられています。
この中尾玉守が菊池家の人間であったわけではないでしょう。
菊池家は阿蘇勢力の拡大とともに、後年になって当地を支配したものと思われます。
境内の奥に「玉依姫供養塔」なるものがありました。
そこの案内板には、玉依姫は菊池肥後守・則隆の娘であったと書かれています。
そこに鎮座するのは確かに宝塔などの類で、古代の磐座ではありません。
しかし玉依姫とは、豊玉姫と同じく龍宮の姫ではなかったか。
菊池則隆が当地の古い神の名を娘に付けたのでしょうか。
玉杵名の名前ですが、景行帝が祈願して天から玉のような小石が降ったから玉杵名なのではなく、景行帝が当地にやってくる前から玉杵名であったと日本書紀には記されています。
つまり、当地はかなり古い時代から、玉の名をもつ土地だったのです。
玉の名を冠するということは、この地の一族が月神を信奉していたことの証拠ともなりえます。
玉に依る姫とは月神を祭祀した巫女を言うのでしょう。
それは豊玉姫だったかもしれませんし、その娘・豊姫だったかもしれません。あるいは土雲族の戸畔だったか。
玉の字を名に持つ地元勢力の中尾玉守も、土雲族だった可能性は濃厚です。
玉名大神宮の南西3kmのとろこに「疋野神社」(ひきのじんじゃ)が鎮座します。
狭い車道にのっぽの鳥居。
参道を進むと、300年の歴史を持つ、八代城主長岡筑後守の寄進の石鳥居が鎮座します。
創建年は不詳ですが、社伝によれば景行天皇の九州巡幸の際に祀られたと云います。
ところが当社のHPを見てみると疋野神社は2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社であり、創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられていると説明します。
平安時代の六国史の一つ『続日本後紀』にその名が見え、承和7年(840年)官社に列せられています。
また『延喜式神名帳』に記される肥後国四座のうちの一座であり、熊本県内において最も古い神社の一社だということです。
御朱印をいただく際、神主さんとお話をしましたが、いかにも「肥後もっこす」といった気質の方で、疋野神社の威厳たるやいかにと、滔々と話されていました。
ちなみに肥後もっこすは、熊本県人の気質を表現した言葉で、「津軽じょっぱり」「土佐いごっそう」と共に、日本三大頑固のひとつに数えられるそうです(笑)
純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子でも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質を指す。
自己顕示は強く、議論好き。
異なる意見には何が何でも反論し、たとえ間違っていても自分の意見を押しとおす。
短気で感情的で強情っぱりで「九州男児」そのものだが、意外と気の小さいところもあるのが特徴。
プライドや競争心が強く、とくに恥やメンツにこだわる傾向もある。
昔から土地が豊かだったため、保守的だが、新しいもの好きな一面もある。
曲がったことを好まず駆け引きは苦手で、他者を説得する粘り強さに欠け、プライドや反骨精神が強いため、組織で活躍することは向いていない。
周りの人と連帯、協調するのは得意ではない。
「俺が、俺が」の意識が強く、主流からはずれると、強烈な批判者に転身することが多い。
ただし、激しい性格でも陰険ではなく、南国らしく大らかで明るい。
半面、不器用なところがあるのは否めない。
きまじめで純真な熊本県人は、裏技や小細工といったものとは無縁である。
また、熊本県人はストレート過ぎるもの言いで損をすることが少なくない。
etc.etc.
ウィキ先生にも結構な言われようですが、まあらしい部分はあり、微笑ましくもあるのが肥後もっこす。
面白いので興味があれば一読ください。
当社祭神は「波比岐神」(はいきのかみ)で製鉄の神とされます。また配祀神は主祭神の父とされる「大年神」(おおとしのかみ)。
祭神を見て驚きましたが、大年神は出雲族の神です。
景行帝が出雲の神を祀るはずがありません。
疋野神社は古代に出雲族が進出し統治した神跡なのでしょうか。
また聴き慣れない波比岐神とはいったい。
波比岐神、僕はその名をとある神社で聞いた覚えがありました。
福井のヲホド大君の聖地、足羽神社(あすわじんじゃ)です。
足羽神社の六柱の祭神の中で、「阿須波神」とともに波比岐神が祀られています。
足羽(阿須波)氏は大彦の子孫です。そしてそこで僕は波比岐神とはアラハバキ神であると思い至りました。
大の物部嫌いの出雲大好き大彦の神を、物部大足彦忍代別天皇(もののべおおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、つまりは景行帝が祀るはずがないのです。
しかしなぜここにアラハバキが祀られているのか。
僕は、この神を祀ったのは、豊彦の子孫ではないかと思うのです。
豊玉姫の皇子である豊彦は、いったん大和を攻めたものの、物部イクメの裏切りにあい、上毛野国に追いやられてしまいます。
そこには大和を追われた、大彦の子孫らがいました。
大彦勢は物部と共闘した豊家を最初は快く思わなかったでしょうが、似た境遇の彼らを不憫に思い、やがて習合していったのではないでしょうか。
後に里帰りした豊族は当地に至り、アラハバキを祀ったのです。
さて、アラハバキの真相は仮説の域をでませんが、疋野神社には「長者伝説」が伝えられていました。
千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。
小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。
しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。
傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。
が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。
お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は
「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。
「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。
こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。
白さぎが元気になったという出湯が玉名温泉なのだそうです。
疋野神社の社殿裏には、この長者の御神陵と伝えられるものが鎮座し、多くの人々が参拝しています。
さらに、近くの小岱山の麓には多くのタタラ製鉄の跡地があり、疋野長者の伝承はこの製鉄(金塊)によって栄えたことを表しているのでしょう。
タタラとアラハバキ、これはもう九州の出雲と言って良い聖地ではないでしょうか。
などと妄想に耽っていると、コツンと頭の上に木の実が落ちてきたのでした。