千葉県市川市八幡の都会のど真中、住宅も賑わう一角に、「八幡の藪知らず」(やわたのやぶしらず)と呼ばれる竹藪の「禁足地」があります。
そこは、その名が「迷宮」の代名詞となっているように、「一度足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠し伝承の場所でした。
玉垣で覆われたその場所は、18m四方の100坪ほどの広さしかありませんが、
僕が訪れた時間帯のせいもあるのでしょう、異様な雰囲気を放っていました。
この時は2月中旬の早朝4時過ぎ。
いわゆる霊と遭遇しやすい時間です。
なんでまたこんな時間にやって来てしまったか。
八幡の藪知らず敷地内は、今も立ち入りはダブーであり、近隣の人たちもこの地に対して畏敬の念を抱いているということです。
ただ、その一部分だけ立ち入りを許された敷地があり、そこは「不知森神社」(しらずもりじんじゃ)として参拝が可能となっています。
しかしそれも「社殿の敷地に立ち入って参拝をしたのち大抵の場合は無事に出て来ることができる」とWikipediaには表記されており、
「大抵の場合は」出てこれるということなので、自己責任で参拝することになるようです。
決して広いとは言えない藪ですが、近年の土地開発で削り取られたのではなく、江戸時代中期には既にこの程度の大きさしかなかったと云います。
この土地が禁足地となった理由は諸説あります。
最も有名なものは「徳川光圀」が独り藪に入った時のこと、光圀はこの藪の中で数多くの妖怪変化と遭遇します。
そして若い女性(又は白髪の老翁)が現れて「今回だけは見逃してやろう」と言われ、命からがら脱出することが出来たそうです。
また、平将門由来の説も多く、
「将門の墓所」説、父の「平良将の墓所」説、将門を討った「平貞盛が将門の死門(凶相)の地として張った陣屋」説
などがありますが、将門の首を守りつづけた家臣6名が、時を経てそのまま泥人形として朽ち果てた場所であるという壮絶な説もあります。
他には「日本武尊」の陣所であったという説や、ここでは様々な霊が現れるという話もあります。
また、藪の中央が凹んでおり、近くにある「葛飾八幡宮」の放生池だったのではないか、とか、
その窪地が底なし沼になっているとか、
もともとここは八幡の隣町の「行徳」の飛び地なので八幡の者は立ち入れず、このような伝説ができたなど、
収拾がつかないほどの伝承が伝わっているようです。
ともあれ、昔からの人の畏怖の念がここを禁足地としてきたことが伺い知れます。
迷宮たらしめる、大昔に何かがあったからこそ、ここが今なお「八幡の藪知らず」として伝えられてきたのです。
ここに立つ僕を、不知森神社の御神徳のみがかろうじて、この異様な霊気から守ってくれているように感じられました。