大分県宇佐市安心院町に宇佐神宮行幸会八社の一つである「妻垣神社」(ともかきじんじゃ)があります。
長い階段を上ると、神寂びた雰囲気の聖域が広がります。
「龍の駒・足形石(馬蹄石)」なるものがあります。
『ここ共鑰山には「馬城(まき)の峯と同じく、八幡大菩薩が人皇(にんのう)(応神天皇)の昔、龍の駒に乗り、この山に飛び翔けた」という「龍の駒、蹄跡の伝承が、字権現」にも伝えられてきたが、場所が崩落の恐れがある為、今回、当所に「移転復元」したものである。』
と記されています。
これが蹄跡でしょうか、この石は「権現」という場所から移動したものと云うことです。
朱色の神門をくぐります。
最近よくある「水みくじ」をひいてみました。
が、水が凍っている。。
無理やり浸してみましたが、大吉でした。
御祭神は、一ノ殿に「比咩大神」、二ノ殿に「八幡大神」、三ノ殿に「神功皇后」を祀ります。
比咩大神に関しては、宇佐神宮が「宗像三女神」とするのに対して、当社は縁起に則して「玉依姫命」としています。
古事記に神武天皇の東遷の折、宇佐の地に立ち寄り、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹一行の歓待を受けたとあります。
翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地を気に入り、ひと際輝く共鑰山(ともかきやま)に母である玉依姫命の御霊を祀る社を建立し、「足一騰宮」と名付けたと云います。
社殿は奈良時代の天平神護元年(765年)10月8日、宇佐宮の八幡大神が勅使「石川朝臣豊成」に「我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように」との神託を受けて創建されたそうです。
本殿の裏手に樹勢の良い御神木がありました。
境内を出てすぐのところに、磐座の案内が出ていました。
340m、すぐ着きそうです。
当社では、先ほどの社殿を下宮とし、この先の磐座を上宮、当社発祥の「足一騰宮」(あしひとつあがりのみや)に比定しています。
磐座では比咩大神を祀っているそうです。
ひらけた道を歩いていましたが、突如薄暗い、竹やぶの道へと変わります。
鬱蒼とした道が続きます。
「魏書」によると、帯方郡では国境守備の属官・張政らを九州に遣わし、伊都国にいる外務大夫タジマモリに、黄色幡と女王に届ける詔書を渡しました。
さらに軍兵を集め攻撃開始を命ずる布告状を、タジマモリに渡し激励したと云います。
神武東征は日向の耳川河回の美々津から始まり、速吸之門(豊予海峡)を通った、と記紀は記しています。
物部・豊王国連合軍による第2次物部東征が、日向を出発し、北に向かったことを意味する、と思われます。
都万国から出航した軍船は、豊国の宇佐に一時停泊しました。
それは豊玉姫女王の実家のあった宇佐で、豊国の兵士を集めるためでした。
豊玉姫は川岸に、行官を建てました。
そこは川の縁であったので、「足一つ上がり之宮」と呼ばれたと云います。
340mと侮っていましたが、なかなかの急勾配の坂道です。
極度に息切れしながら登りました。
見えてきた聖地は、ただそこに静かにたたずんでいるように見えます。
これが上宮「足一騰宮」と呼ばれる磐座です。
それはびっしりと苔で覆われ、囲まれた玉垣が神聖さを強調しています。
タジマモリの船が伊都国から宇佐に帰港し、魏の黄色幡を4本持って帰りました。
豊玉姫は宇佐宮にそれを飾り、宇佐官の神前に、兵士を集めます。
魏から貰った幡と合わせて8本、戦勝を祈るために並べたので、宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになりました。
その八幡は軍旗であったので、後に八幡宮は武力の神と見なされることになった、と云います。
下宮参道を果てまで歩いて行くと、「足一の印岩(復元)」と書かれた看板があります。
その先は沢に向かう道があるようでしたが、かなり荒れていたので一旦神社を離れてみました。
山を降りて道路から磐座のあった方を見ると、見事な絶壁があります。
どうやらその下に、「足一の印岩」があるようです。
『昔、神武天皇様の一行が、宇佐都彦命(ウサツヒコノミコト)・宇佐都姫命(ウサツヒメノミコト)に招かれて、この処に来たとき、この土地があまりにも素晴らしかったので、御母玉依姫命様の御霊をお祭りしたところ、玉依姫様が川中の岩の上に御姿を現され、信心を忘れさせないように、この岩に足一の印を付けておくと告げられて、一気に共鑰山に騰がられた事が、足一騰宮のはじまりであります。』
先ほどの看板にはそう書かれていましたが、ひときわ大きな、この岩がそうでしょうか。
他にもいくつか目立った岩がありましたが、おそらくそうなのだろうと思われました。