「奥之院」(おくのいん)、そこは高野山の信仰の中心であり、弘法大師「空海」が入定されているという聖地。
遍路の旅を続けた先にたどり着いた、空海の究極の体現がここにありました。
はじめて高野山奥之院を訪ねた場合、多くの人は中の橋大駐車場前の、この入口から歩き始めることが多いと思います。
~僕のおすすめ:高野山の美しい景色と、とても細やかなお話を載せてくださているブログを紹介します~
『クワウグワ記』
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奥之院のハイライト「御廟」へもアクセス良く、観光バスもここに留まるからです。
しかしここは後にできた参道・入口であって、本来の入口ではありません。
この新参道付近には面白い慰霊碑、供養塔がたくさんあり、
高野山の別の一面を楽しむことができます。
空海の説く真言宗は、民族、宗教の区別なく、全てのものを受け入れる寛容さをもっているといいます。
そのため、あらゆる企業、一般人も当地に墓・供養塔などを建てており、このような混沌とした景色となっています。
では正式な参拝ルートを辿りましょう。
こちらが「奥之院口」、一の橋になります。
言い伝えでは、この参道の手前まで弘法大師「空海」が出迎えて、帰路の際にもここまで見送ってくれると云われています。
橋を渡る前に必ず「一礼」を忘れてはなりません。
ここから先は幽玄の世界。
古い名家の墓所が次々と姿を見せはじめます。
奥之院は一の橋から始まり、約2kmの道のりの先の、大師が入定されている御廟まで続きます。
その道のりには、おおよそ20万基を超える全国諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が、樹齢千年に及ぶ杉の森の中に立ち並んでいます。
苔むした巨石が積み上げられた供養塔は「五輪搭」と呼ばれます。
五輪塔は仏教の「地水火風空」の「五大」を表すとされています。
下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう/屋根型)、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表されています。
これらは密教系の塔であり、各輪四方に梵字を表したものが多く見受けられます。
空海が習得した「真言宗密教」とはどういったものだったのか。
平安時代以前、かつての日本の仏教は家柄や身分で仏になれる者とそうでない者がいる、と言う差別的な教えでした。
それでは人々は救えないと苦悩し、新たな仏教を求めたのが「空海」と「最澄」です。
二人に転機が訪れたのは804年。
その年に船は違いますが、二人とも遣唐使船に乗る機会に恵まれました。
この時、エリートの最澄は正式な遣唐使として選出されています。
最澄は豪族の父のもとに生まれ、12歳のときに出家、19歳のとき比叡山にこもり「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)に至らなければ山を下りないという決意のもと修行に励みました。
六根清浄とは、人間に具わった六根(五感に意識を加えた6つの感覚器官)を清らかにするという意味です。
その後797年には全国から抜擢された高僧の一人として、桓武天皇の「内供奉」(ないぐぶ)に選ばれ、法華教の講義などを行いました。
これに対し、その時の空海は全くの無名の若者でした。
彼が留学生として遣唐使に選ばれたのは幸運だったと言えます。
高野山奥之院を一の橋から参拝することを勧める理由の一つに、この一の橋から中の橋までの間に、有名な戦国武将の供養塔が集中して鎮座していることが挙げられます。
かの「武田信玄」(左)と息子の「勝頼」(右)、
少し奥まったところに建つ御廟には
「上杉謙信」の御霊が眠っています。
これらの名だたる暮石・御廟・供養塔には、遺骨が眠っていないところも多いと聞いています。
これは、例えば供養塔などは、本来の墓所の分身のようなもので、二者は霊的に繋がっているのだと解釈されるようです。
つまりこの供養塔を参ることで、実際に墓参りをしたことと同じことになるそうです。
常に生死と隣り合わせの武士にとって、仏道は切り離せないものでした。
昔から多くの侍が、この弘法大師のそばで安息を得たいと願っていたのでしょう。
参道の脇に「大師の腰かけ石」というものがありました。
空海がちょっと休憩に、と腰掛けた石だと伝えられます。
この後も人気のある戦国武将の供養塔が続きます。
「伊達政宗」
「石田三成」
そして「明智光秀」。
明智光秀の供養塔は、真ん中の丸い石にひびが入っています。
これは何度作り変えてもひびがはいってしまうそうで、未だ光秀の恨み晴れず、このような現象が起こるのではと言い伝えられています。
さて、唐から帰国した「最澄」と「空海」。
最澄は天台宗を興し、空海は真言宗を興しました。
最澄は38歳の時に唐に渡り、天台の教義とともに禅や密教の教えを受けます。
その期間は1年間という短いものでしたが、帰国後の806年に桓武天皇より天台宗が公認され、最澄は日本の天台宗の開祖となります。
最澄は「円・戒・禅・密」を総合することで、天台宗をより万能なものにし、人々を救う答えを見つけようとしました。
「円」とは円満な教えのことで、天台の教理を指します。
「戒」は戒律のことで、最澄独自の思想です。
「禅」は禅の行法。
「密」は密教の教えです。
最澄はこうした思想を広め、その功績から「伝教大師」(でんぎょうだいし)の諡が贈られました。
最澄は広く、宗教的思想を受け入れましたので、そこから弟子たちが様々な宗派を興すことになっていきます。
最澄の持ち込んだ「天台宗」が説くのは、「人は誰でも仏になれる」「人ばかりでなく、この世の全てのものが仏になれる」というものでした。
これに対し、空海の持ち込んだ「真言宗」は「人は生きながらにして仏になれる」と説きます。
「最澄」はエリート僧でしたが、これに対し無名の僧「空海」は仏教の天才でした。
空海が唐に渡ったときは31歳。
彼は2年という短期間で梵語を習得し、密教僧として名高い「恵果」に学び、恵果の後継者として指名されるほど完璧に密教をマスターしました。
密教の本質は呪術です。
術を通して人の本質を仏にまで昇華することが、その目標でした。
最澄は禅や密教も学びましたが、とくに密教については十分に学ぶ時間がとれなかったため、年下のライバルであった空海に教えを乞うほどでした。
最澄が比叡山にこもり、そこで人を救う道を見出そうとしたのに対し、空海は旅を通じて、直接術をもって人を助けようとしました。
空海は高野山で金剛峯寺を開いた後、東大寺や東寺にも道場を開き、精力的に真言密教「真言宗」を広げてゆきます。
空海は日本全国を行脚したと云われ、各地にその伝承を残しています。
これら最澄と空海没後のそれぞれの宗派の発展もまた対照的なものとなりました。
努力家で秀才肌だった最澄の天台宗からは、未完の教義を完成させようと多くの弟子がまい進し、天台宗を日本仏教の原点といわしめるほどの、多くの宗派が生まれました。
しかし真言宗においては、空海があまりに偉大かつ天才過ぎたため、後継者に恵まれることなく、その教義も空海以上に深められることはなかったのです。
I posti e le foto che metti Chirico sono sempre meravigliose. Grazie!
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こんにちは。
最近、古代からの出雲の信仰 や元王家の伝承等を知るにつけ、
いわゆる供養棟は、仏教に由来すると共にその要件は古代出雲族の「幸の神」信仰にも合致した姿形ではないかしらん?と思うようになりました。
また、遺体を埋葬しない供養墓は、ある意味、古代出雲族の墓制の埋葬墓(埋め墓、サンマ、捨て墓、ほか)と常の祭祀を行う「拝み墓」の二墓制にも似た考え方におもえます。
因みに、墓石は遡れば出雲族の王族らのある種の墓石である磐座 等に行きつくことも可能です。
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はい、ちょうど僕も、本墓と供養塔の関係について同じように思っていました。
そういえば仏教の本元はインドのアーリア人ですから、ドラヴィダ人も無関係ではないのかもしれません。
先日、氣多大社に行ってきましたが、とても興味深いところでした。
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