大屋都姫神社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇01

投稿日:

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「母上、今日は珍しい花を見つけましたので、持って参りました。ここはとても緑美しく、母上の好きな花も年中咲いております。」

形の良い石を祀った小さな社に、毎朝半刻ほど、こうして参るのが高倉下の日課であった。
そこは豊かな川が流れる、ひっそりとした山あいだった。
高倉下は彼の愛した母親を祀るため、場所を厳選し、この地を選んだのだった。
彼は出雲式の石の拝み墓を社に見立て、昔父からもらったという母が大切にしていた草木の種をそこに蒔いた。

彼と母親の大屋姫は、父である五十猛王の王国「丹波」を離れ、葛城の多岐津彦の元へ身を寄せた。
大屋姫の弟である西出雲王家出身の多岐津彦は、東出雲王家出身のクシヒカタを慕って出雲から葛城へ移り住んだので、葛城は第二の出雲王国のようになっていた。
高倉下と大屋姫は、五十猛王と共に出雲から丹波に移り、最初は幸せに暮らしていた。
しかし王が九州の異母妹、物部穂屋姫を后に迎えると、出雲王家出身の大屋姫は海家の中で孤立し、居場所を失った。

日に日に打ちひしがれていく母の手を引き、高倉下は叔父を頼ってはるばる南の葛城までやってきた。
そうした彼らを、多岐津彦は快く迎え入れ、クシヒカタも惜しまず援助してくれた。
高倉下の血の半分は海家のものだったが、彼は母の出雲王家の血が自分に流れていることに誇りを持った。
ここ葛城で、叔父とクシヒカタがこれから造る王国のために、自分も力になろう、そう決心した時だった。
あろうことか忌まわしい五十猛王と穂屋姫の息子、海村雲が、武装した軍人を引き連れて葛城へ押し寄せ、自らこの地の王になると宣言してきたのだ。
戦争になるだろう、と気構えた高倉下だったが、クシヒカタは争って多くの民人を失うより、村雲を王に立て、自分が祭事に携わることで太平の世を築くことを選んだ。
それは正に英断であり、正しい判断だった。
結果日本に大和王国が誕生し、登美家としてクシヒカタの一族は、大王家に深く関わっていくことになる。

しかし高倉下には面白くない。
母は悲しげな笑みを湛えたまま、葛城の地で永眠した。
海家と物部家、つまり徐福の末裔どもが、ねっとりと自分にまとわりついてくるのが許せなかった。

「母も失い、ここは海家の王国となった。もはや葛城に留まる理由もない。」

高倉下は腹心の者達と南下し、山と海に挟まれた紀伊半島のわずかな平地へと移り住んだ。

「母上、私は出雲出身の者達と、ここに私の王国を築こうと思う。海の波は荒く、山も深く、都を拓くのは苦労するだろう。
しかしだからこそ、あの強欲な海家や物部家の奴らなど近づけさせぬ、守りの堅い国となる。
母上、私はこの国を木の国と名付けよう。深い深い神の木が我らを守りたまうように。」

高倉下の造った国は神の坐す「紀ノ国」と名乗った。
神はやがて「隈」の字に置き換えられ、幽玄なる木の国をいつしか人は「熊野」と呼んだ。

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和歌山市宇田森に、ひっそりと建つ「大屋都姫神社」(おおやつひめじんじゃ)を訪ねます。
ここは紀伊国国造の祖「高倉下」(タカクラジ)が、母「大屋姫」(オオヤヒメ)を祀った場所だと、富王家伝承は伝えていました。

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そこは紀ノ川の傍、閑静な住宅街にありました。

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とてもこじんまりとした神社です。

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高倉下は、徐福の息子「五十猛」を父に、大国主の孫「大屋姫」を母に持つハイブリット・エリートです。
普通なら難なく一国の王となれる立場でした。
しかし父・五十猛は出雲から天橋立籠神社のある丹波(現・丹後)に移り、海王国を建国すると、九州の物部穂屋姫を新たに妻として迎えました。
穂屋姫の父親は徐福であり、五十猛とは異母兄妹にあたります。
母親も、五十猛は宗像次女「多岐津姫」の娘「高照姫」であり、穂屋姫は宗像三女「市杵島姫」ですので、二人の血は非常に近いものとなります。

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五十猛と穂屋姫の間に皇子「村雲」が生まれると、大屋姫と高倉下は肩身の狭い思いをしたのでしょう。
やがて二人は葛城に移り住む決心をします。
その時には、大屋姫の姉弟「多岐津彦」を頼ったことと思われます。

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葛城で平穏を得た母子。
しかし彼らにとって忌まわしいことに、今度は海家の村雲が軍勢を率いて葛城にやってきました。
そして自らを大王と称し、大和王国を建国したのです。
日本古代史にとっては歴史的な記念すべき日ですが、母子にとっては悪夢以外の何物でもなかったでしょう。
高倉下は、行く先々でねっとりと纏わりつく徐福の血統に憎悪を抱いたに違いありません。

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高倉下は、老いた母が亡くなると、大和に未練はないとばかりに、紀伊半島方面へ一族を率いて南下しました。

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葛城から少し南下すると紀ノ川に出ます。
そこから川を下ると、当社・大屋津姫神社の鎮座地に到達します。
ここで高倉下は紀国の建国を志したと思われますが、見ての通り紀伊半島は深い山が海岸線ギリギリまで迫り、海岸線も太平洋の荒波が削った断崖絶壁が取り囲んでいました。
海岸線も、当時は今より陸側に、より侵食していたと想定されますので、本当に平地は限られた場所しかありません。
故に高倉下一族の末裔達は山人と化していきました。
紀伊半島東端の「花の窟神社」を始め、熊野山中には、出雲を思わせる祭祀跡が多数存在することから、高倉下の一行には、葛城出雲族の人たちも付き従ったものと思われます。

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当社の祭神は「大屋都姫命」(おおやつひめのみこと)、これは当然、高倉下の母「大屋姫」のことです。

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ところが配祀神として、左脇宮に「五十猛命」(いたけるのみこと)、右脇宮に「都麻都姫命」(つまつひめのみこと)を祀っています。

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『日本書紀』では大屋都姫は兄に五十猛、妹に都麻都姫があり、3人は父「スサノオ」の命で紀伊国に木種をもたらしたと記されています。

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記紀には、徐福=スサノオを出雲の祖神に据え、出雲王国の存在をあやふやにしたい意図が見えます。

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なのでこのような、あり得ない系図・系統の書き換えが頻繁になされていて、現在の多くの神社もその内容に沿って祭神を変更している事実が多く見受けられます。

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今はこじんまりと祀られる大屋都姫神社ですが、社伝によれば、寛治2年(1088年)4月には堀河天皇の熊野行幸に際して奉幣があったと云い、長治元年(1104年)には18町歩(約22ha)の神田と5町四面(約30ha)の社地の寄進も受けて繁栄したと伝えられています。

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高倉下が母親を盛大に祀ったか、それともひっそりと隠すように祀ったかは分かりませんが、彼の深淵なる木の国建国はここから始まったのは間違いのない事でしょう。

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ところで紀ノ川を上流に遡れば、美味しい和歌山の桃で有名な桃山町「あらかわの桃」があります。
その町は桃源郷の名にふさわしく、春になれば桃の花でピンクに染まるのだそうです。
桃山町に桃の種を蒔いたのも、元は高倉下だったのかもしれません。

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7件のコメント 追加

  1. たかし より:

    かなり濃い内容で興味深いです。
    おっしゃるとおり、出雲伝承は古代の辻褄があっているので、僕は好きです。
    徐福の子孫の2つの派閥。出雲勢力。天日槍。宇佐。
    この5勢力を中心に見ると面白いですね。

    五十猛の日本史における貢献具合も
    史跡を訪れると感じます。

    我々日本人は、古代の5勢力の日本を作った
    業績を知らないけど、
    参拝をして義理は欠いていない。
    直感的に5勢力のことを大切にすることは
    脈々と受け継がれていくのでしょう。

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    1. CHIRICO より:

      たかしさん、ようこそお越しくださいました。
      日本人の多くの人は、宗派にとらわれず、鳥居の前、社殿の前に立つと、自然と手を合わせて拝します。
      それはもうDNAに刻まれた習慣と言って良いほどで、事実を知らずとも大切な何かを感じ取っているのでしょう。
      その姿を見ているだけで、まだ日本は大丈夫だと、思えてきます。

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  2. asamoyosi より:

    ごめんなさい。冒頭「お返事をいただき」とするところ、間違っていました。いつもこんな調子です。お許しください。

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  3. asamoyosi より:

    CHIRICO様

     お忙しいのに私のお粗末なコメントに早速御辺をいただき、本当にありがとうございます。

    CHIRICO様のご見識の深さには唯々驚くばかりです。「すごい!」の一言に尽きます。私が雑多な本を読んで得た知識から疑問に思うようになったことなどが、綺麗に解決されていくように感じております。 

    「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し」昔から好きだった歌です。この地に住むようになり、義母が大和出身だった関係もあって大和にも再々出かける機会が出来ました。あるとき東の方から御所・風の森方面の景色を眺める機会があり、たたなづく 青垣山ごもれるという表現がぴったりあっていると感動したものです。でもこの歌は御所の方を見て歌われたのではないようですね。でも御所には秋津という地名もあり、秋津洲の原型はこのあたりにあるのではないかと思っているのです。室の大墓と呼ばれる宮山古墳もありますし・・・。今は京奈和道路が出来て便利になった反面、こういった自然の景色がなくなっていく淋しさも感じています。

     私の好きな景色、もうひとつは地元で言う山麓線からの眺めです。高鴨神社、一言主神社、高天原などに沿った道です。最近は京奈和道路が出来た関係で車の通行量も少なくなり、うまくいけば車を止めて景色を眺めることもできます。

     先のコメントでご紹介した景色は長時間にわたってみられるというのではなくほんの少ししか見られません。それでも私にとっては掛け替えのない景色になっています。

     また長々と書いてしまいましたが、これからのCHIRICO様のブログ、楽しみにしております。
                                                       asamoyosi

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    1. CHIRICO より:

      私の見識など、富氏の受け売りばかりです。
      おっしゃるように、私も記紀や様々な神話関連本を読むに連れ、違和感や矛盾を感じていましたが、富氏の本を手にとって、それらが全てきれいに理解でき、とても驚きました。
      まるで、これまであれこれ自分なりに立てた仮説を、答え合わせさせられている気分です。

      しかし御所にお住まいとは、本当に羨ましいです。

      出雲王国の悲劇は、西出雲王国の8代主王「大国主」こと「ヤチホコ」が徐福らの上陸を受け入れたことに始まります。
      徐福らとともに渡来した「穂日」(ホヒ)と息子の 「武夷鳥」(タケヒナドリ)らは謀って、大国主と東出雲王国の8代副王「事代主」こと「ヤエナミツミ」を別々の孤島の洞窟に拉致監禁し、枯死させてしまうのです。
      この事件に嫌気をさした両王家の息子たちは出雲を離れる者も多くいました。

      事代主の息子「クシヒカタ」は大勢の出雲人を連れて、葛城を開拓します。
      彼が偉大な父の死を弔うため、建てた神社が「鴨都波神社」と「一言主神社」です。
      「鴨」は「神」の転じたもので、クシヒカタは「鴨家・加茂家」と呼ばれました。
      鴨都波とは彼の父の本名「八重波都身」の文字を転用しています。
      一言主とは、そのまま事代主のことです。

      後からやってきたタギツ彦はクシヒカタから上流の地区を譲り受け、「高鴨神社」と「葛木御歳神社」を建てます。
      高鴨神社の祭神は、大国主の息子でタギツ彦の父「アジスキタカヒコ」です。
      葛木御歳神社の祭神は大歳の神で、西出雲王家の領地にある出雲大社の裏にある山中に祀られています。

      葛木坐火雷神社は天村雲が本拠地としたところです。

      高天彦神社の祭神である「高皇産霊神」(たかみむすびのかみ)は徐福の母親「タクハタチヂヒメ」のことで、九州の物部族の勢力地では数多く祀られていますが、畿内では稀な祭神です。

      こうしたことから、御所一帯はとても重要な古代史跡なのです。
      訪ねてみると、ふと往古の風が吹いてくるようで、どこか懐かしい気持ちになるものです。

      ちなみに、出雲族には、形の良い山に昇る太陽を崇める風習がありました。
      奈良盆地で形の良い山といえば、そう三輪山です。
      クシヒカタはその山に、出雲の太陽の女神と、父・事代主を祀りました。
      つまり大物主とは大国主の荒魂ではなく、事代主のことです。

      いいね

  4. asamoyosi より:

    CHIRICO様

    和歌山のことを詳しく取り上げていただいており、興味深く拝見させていただいております。

     淡嶋神社については、伴侶が「仲良く夫婦でお参りするのはよくないのだって」と言うので、いつも義母と二人でお参りに行くのを見送って、私は魚釣りを眺めているのが常でした。お参りから帰ってきた二人の話を聞くだけでしたので、CHIRICO様のブログを拝見してはじめてどんな様子なのかよくわかりました。昔はよく加太に魚釣りに行ったのですが、最近は行くこともなくなりました。もしチャンスがあれば、CHIRICO様のブログをガイドにお参りできたらと思っております。

     それとここからは私の勝手な話になりますが読んでいただけますか?

     国道24号線を五條市から奈良方面へ抜けるとき、高鴨神社のそばの風の森峠を通るのですが、その峠から下るとき見える大和盆地の景色がとても素敵なのです。古代豪族がこの地で勢力を競い合ったことがうなずけるように思います。いつも運転をしながら惚れ惚れとした気分で眺めています。私だけの特別な眺望だと思ったりして・・・。

     話は変わるのですが、神武東征のとき、長髄彦によって阻まれますが、その後、紀伊半島を回って熊野から大和に入ったということが不自然でならないのです。もしかして、紀の川を遡って大和に入ったのではないかと思うのです。まずは紀氏を味方につけて・・・。和歌山の日前宮と伊勢神宮が八咫鏡を介してつながっているのもそういう理由からではないかと思ったりしています。

     大和に入るには五條市付近から入るのが一番近道だと思うのですが、そこには強大な葛城氏(鴨族?)がいるため入ることができません。それでさらに川を遡り、吉野の国栖衆を味方にし強い勢力との接触を避けながら宇陀方面から三輪山のふもと付近に落ち着いたのではないかと思うのです。その後の大王家と吉野・国栖などとの結びつきをみればそのことが分かるのではないかと・・・。

     こんなことをほんの少しよく知っている知人に話したのですが、頭から相手にしてくれません。もっともだとは思うのですが・・・。時代的に符合しているかどうかも分かっていない素人考えですものね。

     そうそう、ご存じだとは思うのですが御所市にも高天原があるのです。とすると、古事記は大王家が三輪山のふもとに勢力を持つようになってから、この地方で起きたことを語っているのではないかとも思えるのです。

     葛城、大和、大王とかいう文字につい反応してしまう私なのです。

     本当に愚にもつかない話に付き合わせてしまってごめんなさい。 

     あとになりましたが、いつも私のお粗末なブログを応援してくださりありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

                                                         asamoyosi

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、asamoyosi様。
      神武東征につきまして、私の知っていることを記させていただきます。
      これは例によって、出雲王家の富家に伝わる話が元となっています。

      まず、神武天皇とは3人の人物をまとめた、創作された人物です。
      一人は初代大和王朝大王、海部家の「天村雲」(アメノムラクモ)です。
      アマノとつく名は、基本的に「海の」、つまり渡来人を指すようです。

      二人目は九州の第一次物部東征でリーダー格の3兄弟「彦五瀬」(ヒコイツセ)「御毛入」(ミケイリ)「稲飯」(イナイ)のうちの一人となります。

      三人目は第二次物部東征のリーダー「イクメ」となります。彼は11代垂仁天皇としても記されます。

      記紀神話の神武東征のストーリーは、このうち二人目に相当する第一次物部東征が主軸となっています。
      3兄弟は大和入りをするために九州を船出し、瀬戸内海ではなく四国の外洋を進んでいったそうです。
      そしてたどり着いたのが紀ノ川河口。
      そこで彼らに刃を向けたのが高倉下の子孫、紀氏の「珍彦」(ウズヒコ)です。
      不意打ちを受けた3兄弟のうち、彦五瀬は毒矢を受け、亡くなってしまいます。
      彼を葬ったのが竈山だと云われています。
      急ぎ彦五瀬を弔った残りの二人は再び海に出て紀伊半島を周回し、上陸。
      この時彼らが上陸の目印にしたのは、海にキラリと光る那智の滝やゴトビキ岩ではなかったかと思われます。
      そしてしばらく内陸を進む一行ですが、山中に入った中洲のところで珍彦らの軍勢に囲まれ、身動きが取れなくなりました。
      しかしその中洲は防御に適していたようで、しばらくそこで敵をやり過ごす事ができたようです。
      その中洲が熊野本宮大社の元宮「大斎原」です。

      進退窮まった彼らに、救いの手を差し伸べたのが、大和における出雲王家の末裔、登美家の賀茂建角身です。
      彼は7代孝霊天皇フトニ大王の起こした大和大乱を収めるべく、そのパートナーとして物部族を選んだのです。
      賀茂建角身は使者を出して、物部族が大和統治に、登美家に協力することを条件に、大和入りの抜け道を案内することを提案しました。
      いわゆる八咫烏の道案内です。
      これによって兄弟ら一行は無事、大和入りを果たしました。
      この時、「御毛入」と「稲飯」のどちらがリーダーになったか分からないため、記紀は「宇摩志麻遅」(ウマシマジ)という架空の名を記しました。
      彼らは樫原の地に定住するのですが、彼ら物部族は賀茂建角身との約束を守らず、大和での出雲族の銅鐸祭祀を妨害し始めることになります。

      これに怒りを示したのが8代孝元天皇クニクル大王の皇子「大彦」です。
      彼は大の物部嫌いで、大の出雲好きでした。
      彼は葛城に拠点を持ち、「中曽大根彦」(ナカソオオネヒコ)と呼ばれていましたが、その呼び名が記紀で「長髄彦」と記されたようです。
      大彦は物部族に戦争を仕掛け、最初は優勢だったものの、機運悪く最後は敗北し、長野へ敗走することに。
      彼の一族はさらに北に追いやられ、やがてまつろわぬ民「蝦夷」と呼ばれるようになります。

      ちなみに饒速日、天火明、スサノオと呼ばれる人物は皆、支那秦国から不老長寿の妙薬を求めて2度日本に渡来した「徐福」その人を指します。
      彼の最初の渡来地が出雲で、彼の子孫が海部家、2度目の渡来地が佐賀で物部家となっていきます。
      古代の日本史を紐解くと、出雲族・海部族・物部族、それに邪馬台国の卑弥呼としれ知られる宇佐族豊玉姫の末裔たち、新羅から渡来した皇子・天日槍の子孫たち、この5部族が複雑に絡み合って大和が造られていったと言えます。

      葛城は事代主の息子「クシヒカタ」が開拓し、大国主の孫「タギツ彦」が協力し、海部家の「天村雲」が初代大王に就任した大和のあけぼのの地であり、とても興味深い場所です。
      出雲の祭神を祭る社が数多く存在していますが、高天原付近には物部系の神の片鱗も残されており、そこにいくつもの土蜘蛛塚が存在しているのは、大彦の戦争の時あたりに物部族に殺された、出雲系の民の塚なのではないかと推察しています。

      長くなりましたが、以上が神武東征あたりの富家伝承に記された話になります。
      とは言っても、結局真の古代史は闇の中であり、様々な主張があって良いと思っています。
      僕は足で歩いた結果、富氏の話を信じてはいますが。
      だいぶネタバレしましたが、これから和歌山紀伊国の話をしばらくアップしていく予定です。
      和歌山も奈良もとても良いところです。
      これからも度々お邪魔させていただきたいと思っています。
      以前風の森神社へ伺った時は、神社を探すのが手一杯で景色を楽しむ余裕がありませんでした。
      ぜひ次は、asamoyosiさんだけの特別な景色を、ちょっとだけ垣間見せていただきたいと存じます。

      いいね

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