
7月に訪れた「彌彦神社」(いやひこじんじゃ)でしたが、帰宅後とても気になる場所を訪ね忘れていたことを知りました。

9月、再び僕は、弥彦村に立っていました。

早朝の彌彦神社。
雨上がりの、とても清々しい空氣に包まれています。

参道を歩いて行くと御神木が見えてきました。

ここから前回はスルーした宝物殿の方へ足を向けると、石の玉垣で囲われた御神木を近くで拝することができました。

そして更にその先に「旧本殿跡」があります。

元は当地にあったという旧本殿は、明治45年3月の大火で焼失したそうです。
その後災害が及びにくい現地へ本殿を再建し、旧地には礎石を据えて記念としていると記されています。
雨上がりということもあってか、跡地とはいえ神々しい雰囲気がそこには残っていました。

本殿へ向かいます。

杜の氣がぶわっと覆いかぶさります。

神社参拝は早朝が良いです。
余計な邪念のない早朝の聖域はとても清々しい。

さて謎の祭神「彌彦大神」ですが、その正体は由緒に記される「天香山命」ではありえない、というのが富家伝承から見た僕の見解です。

当社は元々、「伊夜日子神社」と表記されていました。
それが「彌彦神社」となり、今では「弥彦神社」と多くの資料で表記されます。
読みも「いやひこ」が正しいのですが、「やひこ」と呼ばれることも多くなっています。

伊夜日子大神は越国の開拓神としての性質を持ち、また片目であったと伝えられます。
片目の神は蹈鞴(たたら)などによる製鉄に深く関連する神とされており、製鉄民族であった出雲人との関わりが示唆されます。

福井の東側、氣比神宮のあたりから当社彌彦神社あたりまでの広大な範囲は、往古は「越国」(こしのくに)と称し、出雲王家とも血縁を結ぶ関わり深い国として当時大変に栄えていたと富家の伝承は語ります。

垂仁天皇の御代、この「高志(越)の国王」を名乗る人物がいました。
「阿彦」(アビコ/アヒコ)です。
阿彦は、布勢の神「倉稲魂命」(うげのみたまのみこと)の子孫で「布勢比古」の子供と伝えられます。

『日本書紀』では、崇神天皇の命により、四道将軍の「大彦」が越国に派遣され、当地を平定したことになっています。
大和王朝による平定後の越国では、多くの豪族が重く用いられますが、阿彦は軽んじられ、これに激怒した彼は大和に抵抗し始めます。
急速に拡張増大していく阿彦の勢力は大和に対して攻撃を仕掛け、「阿彦の乱」が起こります。
この戦いは3年近く長引くこととなりますが、古い高志出身の女神「姉倉姫」の神託を得た「大若子命」によって、最後は討たれてしまいます。

阿彦は、『高波八幡宮社記』などに悪行の限りを尽くしたならず者と記されていますが、地元では一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、厳正な政治を行った名君と伝えられ、故に多くの豪族が喜んで彼に従って強大な勢力になったと云います。
ちなみに阿彦を討ったという大若子命は、僕の地元、福岡の櫛田神社で、「大幡主大神」として物部の祖神スサノオとともに祀られています。
彼は天御中主尊18世の孫「彦久良伊命」の御子であり、天照大神の側を離れず、その補佐をした神だと伝えられていました。



さて、彌彦神社再訪を決心した目的の場所へ、足を運びます。

境内の西側駐車場側に、車祓所があります。

その端にひっそりと、それでいてただならぬ気配を醸し出す細い道があります。

この細い参道の先にある小さな祠は「某神社」(ぼうじんじゃ)と呼ばれています。
ここに祀られる神は、彌彦神社の神職も詳しくは分からないのだそうで、当地の地主神であるとか、荒ぶる神を封じた塚であるなど、様々に憶測が持たれているようです。
それにしてもこの雰囲気、

当社末社の「祓戸神社」のものによく似ていると感じました。

某神社の社は、長方形に囲われた基壇の上に、更に丸型に土盛された墳丘の上に鎮座しているように見えます。

鳥居から先へは足が動かず、その場で拝させていただきました。
すると鳥居の脇に古く崩れかけた狛犬が鎮座しており、一瞬驚いてしまいます。

某神社は実は位置的にメインの参道・隋神門近い場所にありながら、そこだけ空間が切り離されたような、人目をはばかるように隠されて鎮座しています。
垣根内の木を切ったり、石を取ったり、土を削ると不慮の事故に遭遇するなどという話も伝えられ、神聖不可侵の当地において、彌彦大神が祀られる本質的な理由がここにあるように感じました。

彌彦神社の宮司も、詳細はわからないが霊威絶大な当社を崇め、春と秋の祭典奉仕を今も行っているということです。
この塚は「阿彦」の墓であろうという説があるそうですが、「伊夜比古大神」とは「阿彦」のことであるとするならば、弥彦山の山頂にも奥宮「御神廟」があり、この両者は「埋め墓」と「拝み墓」の出雲特有の二墓制ではなかろうかと思い至るのでした。



さて、某神社の興奮冷めやらぬまま、弥彦山を越えて日本海側の海岸へとやってきました。

そこには山から降り注ぐ、立派な滝がありました。

日本書紀に記された四道将軍の話は、全くのデタラメであると、富家の伝承は語ります。
大彦は神武天皇の東征に最後まで抗った「長髄彦」(ナガスネヒコ)として描かれ、饒速日にて討たれたと記されているにもかかわらず、その後崇神天皇の命で越国平定を行なっていると云うのです。

真実の大彦は、磯城・大和王朝の正当な王位継承者であり、出雲王家の血を引いていることに誇りを持っていました。
彼は崇神天皇(物部イニエ王)より先に大和入りを企てた物部一族を毛嫌いし、大和にて熾烈な争いを繰り広げていました。
当初は優勢だった大彦勢も、やがて物部勢に押し切られ、彼らは越国へ退避することを余儀なくされます。

大彦は長野市篠ノ井布施で亡くなり、そこで葬られました。
しかし彼の一族の子孫らは越国から東北にかけて勢力を高め、大和にまつろわぬ一大勢力を築き上げます。
彼らはやがて、大和王朝から蛮族「蝦夷」と呼ばれるようになっていきました。

阿彦は、布勢の神の子孫で「布勢比古」の子供と伝えられていました。
布施は大彦が埋葬された地です。
阿彦とは大彦に縁あるものだったのではないでしょうか。

この切立った岩場の岬、この上にとある石碑が建てられています。

なぜ、こんな場所に建てたのか?と思ってしまうそれには、「彌彦神社御上陸地」と文字が刻まれています。

伊夜日子大神は片目の神、それは古代の蹈鞴の神、謂わば製鉄技術を持ち込んだ出雲王国人だったと考えられます。
出雲王国と越国は深い絆で結ばれており、越国も出雲王国の一部であったと言っても過言ではない状況でした。
出雲人は形の良い大きな山を、聖なる山と位置づけ、そこに昇る朝日を崇める風習がありました。
つまり出雲の大山のように、弥彦山にも出雲のクナトの神を祀り、崇めていた可能性は高いように思われます。

そして後年そこに、大彦の縁者がやってきて良政を行い、大和と戦って亡くなった。
彼を出雲の二墓制に習い祀ってきたが、蝦夷討伐に余念が無い大和王朝に対して大ぴらに明言もできず、祭神を偽ってきたところ、今のような謎深い神社になっていったということなのではないか。
僕の問いかけに出雲へと繋がる日本海の海は、ただただ静かに水面を揺らめかせているだけでした。



(追記)
某神社のコメで
なぜか継体天皇(笑)
ひよっとするとですよ、
継体天皇が百済に任那4県割譲で、
大和にいる反新羅派に懐柔したのは、
前妻、振姫の御子である蘇我系の曲がり勾大兄皇子こと、安閑天皇を守るためだったのかも、とふと今思いました。
書紀では、父の任那4県割譲にその勅を取りやめるよう動き、百済には「大王でもないその子、小さい王の言うことなど怖くもない」的なことを言われ相手にもされなかったような逸話がありますが。。
恐らく、親新羅派であり蘇我氏の血が濃い安閑天皇が暗殺されてはいけないから、継体天皇は不本意ながらも百済に対して忖度するしかなかったのかもしれません。。
哀しいかな、結局は安閑、宣化天皇ともに亡き者にされた疑惑が大元出版の本には書いてありました。同じ時期に父と御子2人が亡くなったと、海の向こう側ではしるされていたようですし。。
欽明天皇の周りにいる者たちから
蘇我系の御子を守り、その血筋を絶やさないために彦太、オホド大君は、「磐井。許せ」だったのかもと思えてきました。そうでないと 「これでは磐井がかわいそうだ😭」
ちなみに始めは、物部アラカイが朝鮮半島に出向く予定が、近江上毛野が。これは物部アラカイの妻が、新羅と物部は古来は密接な関係性だった、体調が悪いということにしてしまっていかなければよい、との助言があったとかなんとか。。でしたっけ。
narisawa110
B様の考察を読んで、更に最近教えてもらった阿部氏の出雲赴任の件ですが、例えば出雲やその関連する緩衝地帯にどの様な影響があったのだろうと考えてみました。
阿部氏は諏訪系図になると、古代出雲系譜、富家側の系譜に自分の系図を子孫が足して諏訪神を奉じる士族になっています。
大彦→ヌナガワ別→大臣命
これが出早系になる。
物部の血も入り、大彦系勝部氏とも言われる勝部の人が里帰りしたら、どうなるか。
元々西出雲系には吉備臣がすでに広範囲に広がっていて、諏訪信仰には吉備津彦系もすでに協力関係になっていました。
もしかしたら、物部神社は一度、弥彦神社になりかけた経緯がある様な気がしてきました。
流石にやめてくれとなり、由緒で決着がついた。
それ以降にカゴヤマが入る事になった。
落とし所は記紀服属で、大彦系の妹の子のウマシマジ。
うむむ、どうなんでしょうね。
narisawa110
弥彦神社の神様系図は先代旧事本紀と一緒で、ホアカリ饒速日同一説になっており、2人の奥方のうち、ウマシマジのお母さんが長髄彦の妹になっています。
つまり、海部寄りなんですね。
ミナカタの里帰りが流行したことを考えると、宗旨替えもあった気がします。
確か、須我神社はミナカタが合祀ではなく対等になっていたと記憶しています。
narisawa110
少し前に、石見国の物部神社には対となる神社があるのではないかと申しました。今ではそれが弥彦神社ではないかと考え始めています。
まずは諏訪信仰の担い手から。
建部氏全国ランキング(3700人)
日本海側に強く、岩木山神社の出雲系の信仰は日本海由来か?殊に、新潟のあたりは注目。
ttps://myoji-yurai.net/sp/myojiPrefectureRanking.htm?myojiKanji=建部
勝部さん全国ランキング(8000人)
約半分出雲に居るが、関東のミナカタ祭祀の中心は勝部氏
ttps://myoji-yurai.net/sp/myojiPrefectureRanking.htm?myojiKanji=勝部
現在では勝部氏の半分くらいの建部氏ですが、明らかにこちらの方が地方の祭祀に関しては大きく影響を及ぼしていると思います。諏訪祭祀と武尊信仰は建部と重なると考えられ、更には神戸系のミナカタ信仰がある現れではないかと思います。
ここからが本題ですが、弥彦神社と島根の物部神社の共通性に関して興味が湧き、今の流れだと、タケル氏が弥彦神社に居なければ不自然と言う仮説を立てました。
新潟は、日本で一番神社のある県で、そのうちの40パーセント以上が諏訪神社。
明治のゴタゴタで合祀に反対した反骨が多く、単独で残った諏訪神社は900を越え、総数は4000を超えます。長野の倍以上あります。
そして、統計は纏められていませんが、石塔などの状態でかなりの数の古峯神社(ヤマトタケル)が神社敷地内に存在します。日本で一番諏訪祭祀の濃度が濃いのが新潟県になります。
本日調べた所、弥彦神社を取り囲むように諏訪神社が配置されていることが分かりました。
また、弥彦神社のむかしの由緒には、カゴヤマ命が石見国に戻り、そこで亡くなったとあったようで、つまり二つの神社の由緒は二つで一つであった可能性があり、担い手も高橋氏になる前の段階があり、神戸と物部であったのではないかというものです。
境内には摂社群があり、明らかに祭神と尾張家は分けられてる気がする。
弥彦神社には何処かにタケル氏が何処かにいるような気がする。
nariさんのコメントが迷子になっていましたので、救出してきました。
そういえば、弥彦神社も鎮魂祭をしてましたね。
救出ありがとうございました。こちら読んでなかったです。
単なる野生の勘(先祖からの遺伝?😆)で、10代の頃に「弥彦さんって物部さんと、よう似ちょる」と気になりはじめ
媛様たちなどはロープウェイで登った先の御神廟を「同じやね」と物部神社御神墓同様に「愛でて」いましたので
もし確たる物が出てきたら、40-50年越しの媛の恋も実るやも知れません🤭
後年周辺地域の諏訪社にも幾つか参りましたが、まさか長野県より多いとはたまげます。
明治以前の鎮魂祭の様式も比較できたら面白いです。石上神宮は明治で変わっている様子、さて弥彦神社は…
nariさんのコメントは不審者扱いで、たまにスパム判定されちゃうんですよね😄
石見の物部神社と新潟の彌彦神社が、日本海ルート(出雲+越國)を挟んで睨みをきかしてる監視の役割をしていたと、関裕二さんの本で読んだことがありました。
個人的には、納得できないというかしたくないというか。
なんだか嫌な気持ちになりました。
恐らく、自分の根底に出雲&越→大彦シンパがガッツリあるからかもしれませんけど😅
これでは物部氏と尾張氏が手を組んだということで、
前者神社が饒速日のウマシマジを、後者神社が天火明の天香語山命こと五十猛を祀る。物部と尾張は名前は違えど祖神は同じ。
石上神宮にある物部の剣で、大蛇(大蛇とは「越の八口」恐らく羽咋あたり)の尾を割って出てきた草薙剣。これが熱田神宮にある。(尾張は尾割りか?)
まるで、尾張氏が真っ二つに割れて、吉備系物部氏と手を組み、出雲と越(日本海ルートつまり出雲王朝)を滅ぼしたみたいなことを私は想像しました。
尾張氏も一枚岩ではなく、大伴氏がお伴した海部(笛吹連)+大彦勢力と、それと敵対した吉備系物部氏と協力体制をとった尾張勢もあったかもですが。。
「それでは大彦がかわいそうだ😭」
安日彦の乱は地元の伝承として、新潟にあったのでしたっけ。。
某神社とは、安日彦か大彦が元々の祭神である可能性はアリだと思ってしまいます。
彌彦神社と物部神社に挟まれた
出雲と越は衰退していく運命だったのでしょうか😭😭😭
それにしても、大彦の子孫や末裔は
まつろわぬ民として、大和朝廷に恭順しないことで、切ない末路、というパターン😭ばっかじゃないですか!
だいぶ後の時代の磐井の乱だってそうでしょう。磐井は大彦の末裔ですし。
磐井の乱の真実もヤミの中ですが、
当時の北九州は朝鮮半島を監視する巡視船や、防衛線の役割を大和から強いられていたのではないかという説があり、もしそれが本当ならばその一帯の兵士の負担は相当なものだったと想像します。元々、北九州や出雲、越国は2〜3世紀にずっと新羅と交易をしていて関係性があり、伽耶とも深い関係性を鉄の交易等で築いていたようです。出雲には神話にも新羅が多く登場しますよね。大伴金村や巨勢氏や尾張氏は、かつての蘇我氏のように親新羅派の上で、朝鮮半島全方位で交易していくという流れを踏襲するために、三國から出雲と蘇我氏のルーツをもつ継体天皇を擁立して、天武天皇以来の大和朝廷に戻そうとしていたはずなのに、その継体天皇が、親百済派に懐柔されて、まさかの百済に任那4県割譲。これでは磐井氏は裏切られたと思ってしまうのではないでしょうか。
「それでは磐井がかわいそうだ😭」
ちなみに、親百済派とは平群氏か?反蘇我氏の流れを組む勢力?後の藤原氏に繋がる勢力? 実はよくわかってませんが😅
そういえば、滋賀県野洲市に中畑、古里から伊勢遺跡そっくりの祭祀空間の遺跡が発掘されたようですね。
デカい銅鐸が埋まっていた山に近く、伊勢遺跡より少し古く、真正面にどーんと三上山。三上山を遥拝して銅鐸祭祀をしていた一族の存在。
これまた大彦王を感じさせる予感がします。
吉備系物部氏が大嫌いだった大彦。
銅鐸壊されてガチでキレた大彦。
きっと、子孫の磐井氏も一途で頑固な血筋をもらったのでしょう(笑)
日本書紀では、磐井をほんに悪者にしてからに🤬 腹立つわあ🤬
日本書紀編纂の不比等は中臣鎌足の息子やから、きっも蘇我氏嫌いだしい、親百済派だったから、不比等は
磐井が強欲で新羅から賄賂もらったとか書いちゃっただけで、ほんまは磐井氏はそんな極悪人物像に私には見えないです。あ、見たことないけど😅
富先生の書籍には、中臣鎌足こと藤原鎌足は、元々は出雲王家の血筋で
神八井耳からの血筋だと書いてあったように記憶します。が、私には出雲王家の血筋とは思えません。
異説で、百済の人質だった豊璋だったんじゃないか説。人物像はさもありなんと感じてます。容赦なく反対派を誅殺し、左遷させたり滅ぼしたりするやり方。系図も政権も全てを奪うやり方。ホントに出雲王家の血筋を、引く人物だったのでしょうか。
話はアチコチ、アチコチ飛びましたね😅
兎にも角にも
彌彦神社に行かねばです。
出雲と越に睨みをきかしてる役割だった神社とは思いたくないんですけどね。某神社、心して参拝致しまする。由来はわかりません。でも何か惹かれてしまう。魚沼にある鳴き龍も同じく惹かれてしまう。居多神社にもタケハセノキミ出港の地とのことで、惹かれてしまう。新潟は深いですね、なんとも沼りそうです。
北陸の味は、私の舌にあうようで滑川のホタルイカや、七尾のカキ、
福井の黒龍、生酒。よく合います。島根半島ルーツの私は北陸は懐かしいくらい親和性感じます。
それでは
虎の威を借る狐の出芽でした😊
あはは😂
そうそう。
この小さな祠気になっていました。
御祭神がわからない
きっと、本来の御祭神の。。。
大彦様なのでは。。と思い、来年こそはここを訪れ、この祠を忘れずに参拝したいと思います。
気になりますね。
大事な場所なのだと、思います。
某様の写真を、、、しかもネットに上げて、いわれをご存知無いか?
こんにちは。コメントありがとうございます。
なるほど、某神社に関して、何か謂れがあるというのですね。
無知なもので誠に恐縮ですが、ご教唆いただけると幸いです。
なかなかでした。
最近は
窓から見える大山にクナト大神と八千矛神が宿り、(大神山神社)、
その対面上に大神神社の御札を神棚に飾り、三輪山に宿る、幸姫と事代主。
両方に朝日が差すように狙って手を合わせてます。出芽を3回唱えながら。
こうしてうちの田畑が守られてるような気がしてます。
大彦も阿彦も似たようなことをされていたのだとこのブログみて思いました。
大山にはクナト大神の埋墓あるのではないでしょうか。あまり話題にはなりませんが。。
クナト王の時代から二墓制だったのかどうか、風葬で山中の磐座に遺体を埋めたのかは分かりませんが、御魂の鎮まる山であることは間違いないでしょうね。
揖夜神社が常世に通じる聖地であるというのも、大山に関係があるのかもしれません。イヤも熊野と変換できます。
熊野とは王墓を意味しているのかもしれません。