景行の軍勢は、打猨を討つために、禰疑山を越えた。
このとき、敵の射る矢が横の山から降る雨のように飛んできた。
帝は城原に一旦引き返し、戦況を占って川のほとりに陣を置いた。
兵を整え、先ず八田を禰疑山にてうち破ることに成功する。
その時の景行軍の攻撃の凄まじさを目の当たりにした打猨は、かなわないと思って降伏を願いでた。
しかし許されず、皆、自ら谷に身を投げて死んだ。
大分県竹田市今に鎮座の「禰疑野神社」(ねぎのじんじゃ)を訪ねました。
近くの森の中に土蜘蛛塚と呼ばれる場所があるそうですが、よく分かりません。
『日本書紀』によると景行12年10月に、景行軍は直入県にいた3人の土雲、打猨・八田・国麻侶を討伐。
『豊後国風土記』にはこの時、景行帝が兵をねぎらったので禰疑野(ねぎの)という地名が付いたとしています。
鳥居の裏に頑丈な石垣で築かれた境内。
拝殿は開放的で、心地よい風が吹き抜けています。
祭神は「大足彦忍別天皇」(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、つまり景行天皇です。
祭神のもう一柱は「建岩立龍命」(たけいわたつのみこと)、これは阿蘇神社の祭神ですが伝承を追ってみると、大和からやってきた政略勢であるようです。
社殿に豪華な彫刻は見られないものの、洒落た装飾が至る所に見受けられます。
天井も素晴らしい。
本殿の横に目を向けると、
「鞍嶽神社」(くらだけじんじゃ)と
「乙姫神社」があります。
乙姫というと龍宮の姫・豊玉姫につながります。
阿蘇方面にある乙姫神社群では、阿蘇津姫を祀っていました。
ナマズをトーテムとする阿蘇津姫とその一族も、豊玉姫の系譜ですので、乙姫神社に祀られることになります。
つまり、禰疑野に勢力を有していた、打猨・八田・国麻侶らは阿蘇津姫にゆかりある土雲であった可能性があります。
また境内を散策していたら、例の積俵形の磐座を見つけたのでした。
禰疑野神社から南東に2kmほど離れた場所に、「七ツ森古墳群」があります。
国指定の古墳群ですが、かつては名の通り七基の古墳があったのに、現在残されているのは四基のみ。
古墳はAからDまで号が振ってあり、うちBとC号墳が前方後円墳で、九州最古級のものとなっています。
これらの古墳は、打猨・八田・国麻侶ら土雲族のものとも、土雲討伐で殉死した大和族のものとも言われています。
この土地は縄文時代から古墳時代にかけての集落跡が数多く発見されており、古代から文化が栄えていた形跡があります。
それは宇奈岐日女系、阿蘇津姫系の土雲族らの拠点があったことを裏づけます。
七ツ森古墳は、大和式の前方後円墳があること、副葬品も九州では希少なものがあることから大和との結びつきが窺えるとして、土雲を討った天皇軍のものであるという見方が強いようですが、それは土雲族の本質を知らないが故の早計な判断です。
確かに殉死した大和族、もしくは征略後に残って統治した大和族の首長の墳墓である可能性はありますが、景行は別として、正当なる血族の偉大な統治者を手にかけた、後の民人たちが後悔と懺悔の気持ちで土雲の王・姫巫女らを丁重に埋葬したのではないかと僕は思いました。
禰疑野という地名も、景行帝が兵士をねぎらったからと伝えられますが、本当は「禰宜」の意味で、古くから神に仕える偉大な巫女が統治していたことが真の由来ではないでしょうか。
七ツ森古墳は秋になると一面に彼岸花が咲き誇り、フォトジェニックな真っ赤な景色になると人気だそうです。
それはまるで、くるぶしが浸かるほどに流れたという、貴き血の吹き溜まりのようだと僕は思い描いていました。
I think this is the best I’ve seen till till now. You’re amazing!
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本の出版は10月後半、神奈川は11月ですか・・・んー寒くなる時期ですねえ。(笑)せっかく神奈川へお越しの際は、神奈川の出雲さんにも足を伸ばしてみても良いかも。綺麗で良いところですよ。
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実は昨日、完成本が届いていました。
立派に作っていただいて、本当に感謝しかありません。
藤沢では講演会とサイン会を行うことになりそうですが、その広告が11月1日の江ノ電新聞に広告が載る予定だそうです。
まあ、僕自身、そのくらいしか情報を得ていなく、不安しかありませんが😅
神奈川にも出雲があるのですね。時間はありそうなので、立ち寄ってみたいとおもいます。いつも貴重な情報ありがとう♪
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