大阪府豊能郡豊能町吉川鎮座の「吉川八幡神社」(よしかわはちまんじんじゃ)を訪ねました。
近年少しずつ名前が売れてきている、気になる神社です。
しかし困りました、車を止めるスペースが全くありません。
やむなく少し離れた精米機の駐車場に失礼して止めさせていただきました。
あまり賑やかになりすぎるのを好まない気質なのかもしれません。
神社の隣、社務所というか宮司家の家というか、そこにいきなり電車の頭部が二つ置かれています。
呆気に取られていると、いきなり顔を覗かせる物体が。
思わず悲鳴をあげるところでしたが、彼女はここの神馬「いづめ」ちゃんでした。
令和元年にやってきたいづめちゃんは、木曽馬系の日本在来種で日本古来の貴重な合戦馬なのだそう。
名前は弓道の競技の一つである「射詰」から取られたそうですが、いづめ、良い名をもらいましたな。
狭い道路脇に鳥居がありまして、
その先の社殿がビューティホー♪
SNSか何かの写真で一目惚れして、ようやく参拝が叶いました。
なんともなんとも、しっとりとした良いお宮です。
「平安時代の氣をそのまま残す」というフレーズがぴったり。
どこか懐かしい、ノスタルジックな気持ちが昂ります。
中もシュテキ♪
主祭神は応神天皇御霊(八幡大神)。
元禄8年(1695年、江戸時代中期)に記された『寺社吟味帳』によれば、平安時代後期の治暦年間(1065年-1069年中)に、源頼仲が吉川城に在住していた折に創建したということです。
しかし当地の地名が豊能郡豊能町であるところを見ると、古くからここには豊族が移り住んでいたのではないでしょうか。
竹葉瀬君を祀る社が元からあったのかもしれません。
広々とした社殿の中には、ミニレールや
グランドピアノまでありました。
なかなか遊び心にあふれた宮司さんのようです。
お祭りで披露される巫女舞も華やかな様子。
見てみたい。
最近は人の訃報をよく聞きます。
何が起きているのか、何をしたいのかよく分かりませんが、どうだっていい。
人の時代に大きな期待はしていない。
茶番はうんざりだから、うるさいTVはもう消してしまっても構わんだろう。
世界が美しければ、それでいい。
おはようございます。コメント欄の数々も興味深く読ませていただいております。😌。
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Soranitikaiiroさん、おはようございます。
たくさんのいいね、ありがとうございます。
マニアックなブログではありますが、いただいたコメントも内容深いものが多く、ありがたい限りです。
ところで「空に一番近い色」とはどのような色でしょうね。青であったり赤であったり、黄色であったり。色というのは目に入った光を脳が解析して見せるわけですが、僕が見た青を他の人も同じ色で感じているのだろうかと、考えることもあります。地球の大気と太陽の光、そしてそれをうつしとる人の目、この世界とその関係ははまこと不思議で神秘的だなと、空を見上げるたびに思うのです。
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コメント返信ありがとうございます😊。読んでいただいて嬉しく思います。今、この瞬間の空の色は灰色です。どんよりとしています。それでも、思い出になると灰色でも美しく思います。寂しい時も、空はいつも綺麗だと感じていたく、こんな名前にしました。。。CHIRICO様のブログも、空色へのコメントも心に響きます。ありがとうございます。
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シュテキすぎる🐥実に興味深い神社ですね。宮司さんとこには、阪急電車の美しい頭の部分が2つも😆お金持ち〜‼︎ それにしても、社の四角に飾った紙細工が気になります。何か人が足を括られて吊り下げられてる感じの紙細工…一体この神社は何の目的でこの場所に置かれたのでしょうか🦑魔封じか何かですか?いづめちゃんは眠たそう…
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シュテキですよ〜♪
あの紙は紙垂の一種でしょうかね。なんの目的で置かれたか?社伝によれば、源頼仲が建てたとのことなので「南無八幡大菩薩〜」って感じで建てたんじゃないですかね。源氏って八幡好きですよね。
でも本当はその昔から、豊族によって建てられたんじゃないかって考えています。まあこれといった確証はないのですが。
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豊族って何なんでしょうね🐥豊と八幡の謎🦑
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宇佐の豊王国、いわゆる邪馬台国のことです。
女王豊玉姫と物部イクメは結託して奈良の大和を攻めます。途中病のため豊玉姫死去、仮の葬儀が厳島で取りなされました。その後物部イクメと豊玉姫の息子豊彦と豊姫は、大和東征を成功させ豊・物部大和王朝を築きますが、イクメに騙された豊彦は群馬に追いやられ、豊姫は暗殺されます。豊彦の子孫・竹葉背君は、子を早世させた神功皇后と密かに養子縁組されます。結果、豊彦の子孫が天皇となるのです。これを記念して宇佐神宮では神功皇后と応神天皇が祭神として祀られ、八幡神と呼ばれるようになりました。
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調べてみた所、応神天皇の名義はじつは仲哀天皇である可能性が高いらしいです。仲哀天皇は名実共に武の天皇であり、八幡神を祀るのは当然の成り行きでしょう。ところで、当の応神天皇ですが、神巧皇后の養子の豊彦さんの子孫ですか。一体、八幡神と何の関連があったのでしょうか不思議です🦑
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邪馬台国のことを記す魏書に「正始六年(二四五年)、詔を発して、倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた 」と書かれています。難升米とは田道間守のことであり、豊玉姫は二度、魏に田道間守を遣わして4本づつ、計8本の黄色い幡を貰い受けました。
大和へ攻め入る時、豊・物部連合軍の兵士が宇佐神宮に集められ、この時黄色幡8本が並べ立てられ戦いの象徴として鼓舞されました。これにより宇佐神宮は八幡宮と呼ばれるようになります。
後に竹葉瀬の君・応神天皇が宇佐八幡宮に祀られるようになると、彼のことを八幡さまと呼ぶようになったようです。
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はあ。古来から、八の神数は素戔嗚尊と関係が深い様です。武の神として信仰された素戔嗚尊が源氏や武家の守護神として祀られたのは自然な事です。素戔嗚尊と宇佐との関係とは何なのでしょうか?ちなみに応神天皇が武の天皇だった事は無かった様です🐥私は豊玉姫シャーマン(卑弥呼)の言い草を信用してないかも〜🦑
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八を整数としたのは出雲族の方です。スサノオは秦の渡来人である徐福であることが多く、道教を奉斎する彼らの整数は七です。
佐賀に上陸した徐福が妻として迎えたのが出雲族の宗像の姫・市杵島姫で、その子孫に物部族と宇佐族があります。物部族は吉野ヶ里で勢力を拡大させますが、その本質は秦的であるため、秦の血をより濃くしていったのでしょう。
対して宇佐族は「豊」の字を掲げる頃にはかなり出雲的になった印象があります。これは同じ徐福の子孫でありながら出雲族と深い関わりのある海部族、そして僕が出雲族の分家であると考える越智族の血が濃く関わっているからではないかと推察します。
応神天皇・竹葉瀬の君は争いを好む性質ではなかったように感じます。が、古事記・日本書紀では応神天皇は、神功皇后の胎内にて三韓征伐を成し遂げた設定になっていますので、軍神という位置付けになっていったのでしょう。
まあ、古代史の解釈は自由です。僕は全国を歩いて回って考察した結果、富家伝承と大元出版の内容がとても理にかなっていて、真実に一番近いと信じています。
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マニアの懐は深い🦑流石です。しかし、日本の古代史の伝承は、あちこちに火花や化石や玉や鏡やデカい墓石などが散乱する事実上の乱混戦状態です。我々は一体何をもって真実だとすれば良いのか皆目見当がつかない🐥
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Nekoさんのおっしゃる通りで、古代史は混沌としていて超古代文明論にいたるまで、どうとでも解釈可能です。決定的な答えを得るのはもはや不可能であり、記紀や古史古伝などの何かしらの軸をもとに皆人生をかけて推論するしかないのです。その軸が僕の場合は富家伝承となります。
皆人生の一定の時間をかけているわけですから、他者の同意には超好意的で、異論には異常なアレルギーを示すわけです。古代史研究で最も難しい作業は、折り合いをつけていくという作業ではないでしょうか。
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異論も同意も結局同じ事です。我々が古代史研究をするという真の意味は、”手探りで真実を掴み取ろうとする努力の過程”に過ぎない。研究には異論も同論も必要不可欠です🦑
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いづめちゃんの穏やかな表情、ありきたりな表現しか浮かびませんが、癒されますね。
浄化してもらえるというか、、、素敵なお名前。
電車、、、これにも驚かされました!!
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いづめちゃんはとても人懐っこいようでした。
社殿にいづめちゃん用のニンジン販売コーナーがありましたが、残念ながら売り切れでした。
なぜだか分かりませんが、懐かしい初詣のイメージを感じた神社です。
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シュテキ!趣のある神社ですね
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シュテキです♪
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