高野山-奥之院:中の橋〜御廟の橋

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参道のちょうど中心地点に架かるのが「中の橋」です。

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橋のたもとには「市川團十郎」の墓所が鎮座します。

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中の橋手前でも、一の橋同様に一礼。

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橋を渡ったところにある御堂の中には、「汗かき地蔵」が置かれています。
この地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになり、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。

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またこの堂の横には「姿見の井戸」と呼ばれる井戸があります。

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その昔、病を患った扶閑(すけずみ)中納言の夢の中に弘法大師が現れ、「我が山の霊水を飲めば病は速やかに治りましょう」と告げられました。
そこで中納言がこの井戸の水を飲むと、たちまちに痛みが止まり、井戸には「薬井」という名前が付けられました。
江戸時代にはこの井戸をのぞき見て、自分の姿が水に映らなければ3年以内の命であるという説が広まり、現在のように「姿見の井戸」と呼ばれるようになっています。

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とても独特の雰囲気に満ちた奥之院エリアでは、このような高野七不思議なるものが存在しています。

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この「禅尼上智碑」もそのひとつ。
石碑の凹んだ部分に耳を当てると、地獄の釜の音や極楽浄土の音が聞こえてくると云われています。

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また、和歌山県指定の史跡にもなっています。

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「虚しく往きて実ちて帰る」
この言葉は、無名の学僧として入唐した空海の、その成果がいかに大きなものであったかを示す彼の言葉です。

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806年10月に、空海は無事、博多津に帰着。
呉服町東長寺の開基となり、また宗像大社神宮寺の鎮国寺を創建したとも云われています。

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空海が日本に戻って朝廷に提出した『請来目録』によると、彼が唐から持ち帰ったものは多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものであったと記されています。

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空海の唐での留学期間は、当初20年を予定されていたそうです。
それを空海は2年で完全に習得し、切り上げ帰国したため、朝廷は彼への対応に困ったようです。
809年まで空海の入京は許可が下りず、帰国後の数年間は九州の大宰府に滞在しています。

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この「密厳堂」(みつごんどう)には新義真言宗を唱え根来寺を興した「覚鑁上人」(かくばんしょうにん)を祀っていることから、このあたりの坂は「覚鑁坂」と呼ばれています。

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この坂は43段あり、42段=「死に」を越える、つまり死を乗り越えると言った意味合いがあるそうです。

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もし、覚鑁坂で転ぶようなことがあれば3年以内に落命すると云う「七不思議」の一つとしても伝えられており、どこかで聞いたような話だと思いました。

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809年、嵯峨天皇の即位後、空海の入京が許されました。
この背景には、最澄の尽力や支援があったと云います。
その後、2人は10年程交流を持ちましたが、次第に仏教に対する考え方や方針にズレが生じ、816年初頭頃に訣別するに至ります。

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810年、薬子の変の時、空海は嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行いました。
812年には高雄山寺にて金剛界結縁灌頂・胎蔵灌頂を続けて開壇、入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。

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813年、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れますが、経典ばかりから学ぼうとする最澄に、空海は密教の真髄は口伝による実践修行にある、とこれを拒否します。
両者の間には、この頃から亀裂が生じていきました。

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816年、高野山を修禅の道場とする勅許を賜ります。

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817年、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、818年11月に、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在。
819年に七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手します。

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この頃、空海は『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』など有名な著書を立て続けに書き上げています。

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五輪塔が立ち並ぶ中、一風変わった建物がありました。

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「パコダの塔」と呼ばれ、昭和31年、「上田天瑞」(てんずい)大僧正が下付を受けた分骨を始め、日本に持ち込まれたビルマ方面の戦没英霊の分骨を、永代奉安するために昭和55年に建てられたものだそうです。 

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化粧地蔵、

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芭蕉句碑などもあります。

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その後819年に空海は、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住しています。

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822年には東大寺に灌頂道場真言院を建立。
この年平城上皇に潅頂を授けました。

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823年正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。
このことは後に、天台宗の密教を「台密」、対して東寺の密教を「東密」と呼ぶようになります。

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824年2月、勅により神泉苑で祈雨法を行う。

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828年、『綜藝種智院式并序』を著し、教育施設「綜芸種智院」を開設。
当時の教育は、貴族や郡司の子弟など、一部の人々にしか受けられないものでしたが、空海はこの学校で庶民にも門戸を開きました。

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830年、『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻を著する。

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831年、病に倒れる。
832年8月22日、高野山において最初の万燈万華会が行われ、空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と記しました。
その後は高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。

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835年、1月8日より宮中で後七日御修法を行う。
2月30日には金剛峯寺は、官大寺・国分寺に次ぐ寺格である「定額寺」(じょうがくじ)を得ます。
そして3月21日、弟子達に遺告を与えた空海は、高野山で逝去しました。
享年62のことです。

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いよいよ奥之院参道も終盤に差し掛かります。

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ひときわ歴史を感じさせる石造物が見えます。
ここは越前藩松平家の墓域で、鳥居のある石廟は初代藩主「結城秀康」とその生母「長勝院」のものになります。

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徳川家康の次男「秀康」の廟は、子の松平忠直によって造立されたものです。

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隣のやや小振りな石廟が「長勝院廟」。
近づいて撮影することが出来ないので見えにくいですが、廟の表面に施された仏像のレリーフがとても見事です。

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そして存在感のある案内碑、

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見晴らしの良い高台に、

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広めの敷地にあってどっしり構えるのが、「豊臣秀吉」公の供養塔です。

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信長に続いて高野攻めを行おうとした秀吉ですが、高野山の「興山応其上人」(こうざんおうごしょうにん)の説得でそれを取り止めました。
以後は秀吉は高野山を庇護する立場に変わったと云います。

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秀吉の供養塔を取り囲むように建つ塔は、母の「なか」や長男の「鶴松」、それに「淀君」などのものと確認されています。

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更に先に進むと、

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秀吉よりはずいぶんひっそりと、

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「織田信長」公の供養塔がささやかに置かれていました。

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信長は実際に高野攻めを行ったので、このような場所にしか敷地を貰えなかった、という話を聞きました。
しかしそれは秀吉に比べれば、という程度のもので、十分に立派な供養塔です。
むしろ大師様の御廟により近い場所に祀られており、敵であってもそれを供養する、という高野山の懐の深さを実感します。

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信長の供養塔を過ぎると、ひらけた場所に出ます。

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そこには御朱印などをいただける納経所の「大伽藍」や

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護摩殿、

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大正4年(1915年)、高野山開創1100年の記念事業として建立されたお茶所「頌徳殿」(しょうとくでん)などがあります。

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そしてずらりと立ち並ぶ「水向地蔵」。

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この地蔵像はよく「水かけ地蔵・水かけ観音」と間違われ、みな像に向かって水をばしゃばしゃと掛けています。

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それは誤ったお参りの仕方のようで、供養したい故人の名前や法名を塔婆(経木)に書いて地蔵の足元に置き、塔婆に3回水を掛けながら真言を唱え祈るのが正解です。

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水向地蔵の背後にある川に架かる橋が、いよいよ最後の結界「御廟橋」です。

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この川は「玉川」と呼ばれ、ここにも七不思議が伝わっています。

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その昔、この川のほとりで男が魚を獲って串に刺して焼いて食べようとしていました。
通りがかった大師は、男を説き伏せて魚を玉川へ放ちます。
するとどうでしょう、魚は息を吹き返し泳いで川へと消えていったそうです。
以降、玉川の魚はすべて背中に串が刺さったような跡があると云うことです。

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さて、この御廟橋を渡ると、高野山最大の聖地、弘法大師・空海が入定されている御廟になります。
身なりを整え、橋の手前で一礼して足を進めます。

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ちなみにこの先は撮影禁止。
なので写真はここまでです。
この聖域の敷地内に七不思議の「弥勒石」(みろくいし)という石があり、善人が持つと軽く感じ、悪人が持つと重くのしかかり持ち上げることが困難になると云われています。
僕ももちろん持ってみましたが、結果がどうだったかは秘密です。

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この御廟の奥の地下に石室があり、弘法大師・空海は今も入定されていると信じ伝えられています。
御廟の裏手に回ると、そこにはかくも神秘的な拝所があり、最も大師に近づける場所なのだと云うことです。

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奥之院の敷地はとても広大です。

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一の橋から御廟までのメインの参道の他にも、幾つも脇道が存在しています。

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時間と体力が許すのであれば、そんな寄り道を楽しむのも良いでしょう。
面白い出会いがあるはずです。

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「親鸞聖人」の御廟というものがありました。

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親鸞は「浄土真宗」の宗祖と言われる人です。

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「蛇柳の供養塔」というものも見つけました。
これも高野山の七不思議にまつわるものです。
その昔、高野山には猛毒を持った大蛇が住んでいて、参詣客を山道で待ち受けて食べていたと云います。
そのことを知った空海は大蛇を、真言密教の修法で封じ込め、柳を植えここを蛇柳と称したそうです。

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また別に、空海はこの大蛇を竹箒に封じ込め、「再び竹箒を使うようになれば封印を解いてやる」と言ったという伝承もあります。
これ以降、現在まで高野山内では「クロモジ」という木の枝で箒を作り、竹箒は一切使用しなくなったとのことです。

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他の七不思議もご紹介しておきます。
秀吉公が高野山へ参詣した時、住職に粥(かゆ)を所望されました。
その出された粥は、米粒が1粒1粒、キレイに包丁で真っ二つに切られおり、精魂込めて丁寧に作られたことに秀吉は感服します。
「山には臼はないのか?」
秀吉はと尋ねました。
「はい、この山は女人禁制故、臼を突く杵(きね)はあっても臼は1つもありません」
そう答える住職の機転にに太閤殿下は上機嫌だったとか。

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高野山は開創以来、魚肉を禁じられていたので、肉食文化を持つ異国の人が高野山内へ入ると、空海は山を洗い清めるために大雨を降らせたと云われています。
また毎年、大師の命日の翌日は清めるための大雨が降ると云う話です。

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ある時、京へ出かけてた空海が杖にしていた竹を、高野山に無事に着いた感謝を込めて、地面に挿しました。
するとみるみる杖に根が生えて、葉を付けた竹藪になったそうです。
その場所は高野山高野町の「杖ヶ藪」(つえがやぶ)という地名で呼ばれています。

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AM10:30、大伽藍のあたりがざわつきます。
これは毎日、朝6時と10時半の2回行われる「生身供」(しょうじんぐ)と呼ばれる儀式になります。

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空海は、835年(承和2年)3月21日(現在の暦では4月22日)、かねて弟子達に告げていたように、入定(にゅうじょう)したと云われています。
入定とは宗教的な瞑想に入った事を言い、空海は今も高野山奥ノ院の御廟で禅定の修行を続けていると信じられています。
つまりこの生身供とは、修行をする空海のために1日2回、1200年もの間絶えることなく続けられてきた食事を運ぶ儀式なのです。

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食事は精進料理が中心ですが、大師が飽きないよう、パスタやシチューなどの洋食が貢されることもあるとか。
嘗試地蔵(あじみじぞう)の前で毒味がなされ、その後、「維那」(いな)と呼ばれる僧侶が先導して行われます。

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空海が入定した日には、毎年衣類も届けられています。

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この先頭を歩む僧が維那。

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空海が入定して禅定に入っていると最初に記されたのは、入寂後100年以上を経た968年に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』。
それによると、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされています。
また『今昔物語』には、東寺長者の観賢が霊廟を開いたと記載され、この時、空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたと云います。
観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印したそうです。

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しかしながら、金剛峰寺建立修行縁起が著される以前、『空海僧都伝』によると空海の死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付されたような記述があるといいます。
また、桓武天皇の孫「高岳親王」は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったと伝えています。

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今は霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた僧は一切他言しなかったそうです。
現在でも生前と同じ姿で座っているのか、代わりに木像があるのか、真実はこの維那以外誰一人知らないのです。

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921年10月27日、東寺長者観賢の奏上により、空海は醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られました。
最初は「本覚大師」の諡号が贈られる予定でしたが、「弘法利生」(こうぼうりしょう)の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになったと云います。
空海が火葬されたか、伝説のように入定されているのか、それを追求することは実はあまり意味がありません。

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「人は生きながらにして仏になれる」そう説いた空海は、彼を信じる人にとっては、確かにここで入定され、今も瞑想を続けておられます。
そしていつの日か、「弥勒菩薩」が世界を救いに来てくださるその日まで、私たちを見守ってくださっているのです。

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1件のコメント 追加

  1. Che meraviglia, grazie ancora! Spero passerai anche da me qualche volta Chirico… non vedo più tuoi commenti. Ciao !!

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