戸田は出雲よりずっと西の、日本海沿岸の小さな村である。大道山が海岸まで迫り、平地は少ない。海岸は素朴な砂浜で、漁をするにも良い港とは言えなかった。
その戸田で漢部家は字を変え綾部家となり、田畑を借りて農業を始めることにした。
人麿が生まれたのはそんな時だった。
戸田の村人たちは、慣れない農業を営む人麿の家族を支え、作物の種まきの時期や肥料の施し方などを教えた。
綾娘子(あやのおとめ)は幼い人麿を背負って土を耕した。手には豆もできていたが、男手のない綾部家では年老いた父母に代わって彼女がよく働いた。
「鍬を貸してごらん。僕が耕しておくから、君は苗を持って来ておくれ」
その中で最も熱心に綾部家の面倒をみた若者がいた。
「なあ僕に、その子の父親にならせてくれないか。僕が君の暮らしを支えるよ。君のことが好きなんだ」
畑に苗を植え付けて一休みしていた時、若者は綾娘子にそう告げた。
雲ひとつない青空の下で汗をぬぐい、照れ臭そうに笑う若者を、彼女は真っ直ぐに見つめた。
「嬉しい」
二人は村でささやかな祝言を挙げ、若者は人麿の養父となった。
やがて若者と綾娘子の間には女の子が生まれたが、妹ができた後でも、母と養父が人麿に注ぐ愛情は変わることはなかった。
ある時、綾娘子に稗田(ひえだ)の語り部の仕事を引き継がないか、との話が持ち上がった。綾娘子は聡明で、文字も読めたので適任だとのことであった。
各地の歴史や珍しい話を伝承していて、頼まれると語る家がある。その人々は語り部と呼ばれた。
小野家には、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の子孫を称する稗田氏の流れを汲む語り部がいた。その人から仕事を引き継いで、綾娘子が語り部の仕事を行うことが決まった。
綾娘子はそれからというもの、語りを覚えるために宵の頃、薄明かりの元で書き付けを見ながら毎日読み唱えていた。
それを脇で聞いていた7才の綾部人麿は2,3回聞くと覚えてしまい、母と同じように巧みに語るようになった。
親も驚いたが、村でも評判になり、天才少年が現れたと騒がれることになった。
綾部人麿は知識欲が旺盛で、15才になると近所の寺に住み込み、僧侶から経典の読みと意味を学びはじめた。さらに漢学の書物を好み、郡の役所に行っては役人から借りて読んだが、読む書物が少ないのを嘆いていたという。
「石見に神童が現れたそうだよ」
「経典・漢書、なんでもすらすら読みとくんだと」
やがて天才少年・人麿の噂は都にも届いた。
人麿が海部氏の血を引く大海人皇子の子であるらしい、との話を聞きつけ、都の豪族である海部氏は大層よろこんだ。それでぜひ人麿に都勤めをするよう勧め、彼を呼び寄せるため、海部氏がわざわざ石見国まで迎えに訪れたほどであった。
人麿17才のことである。
「私はまだここにいたい。母上と離れたくはありません」
「人麿、よくお聞きなさい。あなたはもう大きくなりました。母と離れて一人の男として暮らしていく時が来たのです。
あなたは素晴らしい才覚を持っている、それを都の人々のために役立てなさい。これは大海人皇子の子として生まれた、あなたの役目なのです。
良いですか、立派な官人となるまで母の元に戻って来てはなりません。でもね人麿、母がいつもあなたを思って見守っていることを忘れないで」
最後に綾娘子は息子を両手で抱きしめた。
当時は豪族出身でないと、役人になるのは困難である。そこで都入りするにあたって人麿は柿本家の養子になり、柿本人麿と呼ばれるようになった。
人麿は下級官吏である舎人(とねり)として、大海人皇子の住む三諸の離宮に仕えることが決まった。
『葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ 五百万 千万神の 神代より 言ひ継ぎ来る 神なびの みもろの山は 春されば 春霞立つ 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき 石枕 苔生すまでに 新夜の 幸く通はむ 事計り 夢に見せこそ 剣太刀 斎ひ祭れる 神にしませば』(3227)
「この瑞穂の国に天降られた無数の神々よ、その神代の時から語り継がれた三諸の山(三輪山)は、春になると霞が立ち、秋になると紅に染まる。
その神々しいみもろの神がたなびく明日香川は流れが早く石に苔がつきにくい。その苔がむすまで、毎夜毎夜を迎え通いましょう。
どうか私の願いの成就を夢にお示し下さい。この山に祀られる神よ」
こうして柿本人麿の宮廷歌人としての人生が幕を開けたのだった。
山口県のすぐ隣、島根県益田市に戸田と呼ばれる場所があります。
沿岸部でありながら、大道山がすぐそばにまで迫り、平地は少ないです。
その一角に「戸田柿本神社」(とだかきもとじんじゃ)は鎮座しています。
丘の上に向かって上る参道には赤い色が印象的な鳥居が建っています。
数十段の石段を登り切ると、こじんまりとした境内が広がっていました。
狛犬代わりの、なぜかシャチホコ。
当社は宝永7年(1710年)に津和野藩の藩主である亀井茲親が創建しましたが、文化13年(1816年)に火災で社殿が焼失していますので、その時のものかも知れません。
いや、違うかな?
ひっそりと、しかし荘厳に、戸田柿本神社の社殿が建っています。
見事な彫刻のなされた拝殿。
そこにある、すばらしい龍の浮き彫りなどは津和野藩御用彫刻師・大島松渓の作として知られます。
また御神体像とともに伝わる「人麿七体像」も松渓の作です。
この7体の像は、ともに高さ60cm前後の彩色された木像で、「人麿が突然戸田の柿木の下に出現し、語部綾部家で養育された」という伝承に基づき、合掌した童子と驚いた様子の養翁嫗の姿が表現豊かに刻まれているといいます。
柿本人麿の出生は謎とされ、語家の家の前にある古い柿の木の元に突然 7、8歳の頃の彼が現われたとも伝えられます。
驚いた語家の人間が「どこから来たのだ?」と尋ねると、「私には家もなく、父、母も居ません。知っているのは和歌の道だけです」と答えたのだそうです。
拝殿の前にある1本の木、これが戸田柿本神社の御神木です。
よく見ると、
小さな柿の実がなっています。
この小ぶりな実が、まるで筆先のように尖っているので、「筆柿」(ふでがき)と名付けられています。
戸田柿本神社から大道山の方へ1kmほど進んだあたりに、「二つの柿本人麿伝承岩」という看板が、ひっそり立っています。
小川に沿って山道を歩くと
「足型岩」があります。
看板落ちて割れちゃってますけど。
どの辺が足型なのだろうか、よく分かりません。
400m先にも伝承岩があると書かれていますから、進んでみます。
山の気配が深くなった頃、
一つの岩が気になりました。
案内板はありませんが、どうやらこれがもう一つの伝承岩のようです。
この岩に、少年人麿は座って歌を詠んだと伝えられており、人麿が鎌で引っ掻いて歌を刻んだという痕が残されているらしい。
足場が悪く、よく確認はできませんでしたが、歌を刻んだ痕というのは良くわかりません。
この岩は鏡岩などと言われる磐座のようにも見えますので、ひょっとするとヒエログリフのようなものが刻まれているのかも知れません。
戸田に鎮座の「小野神社」にも足を伸ばしました。
長~い階段を登ると、
素朴な社殿がありました。
天神社を思わせる牛の像や、
事代主系粟島社も鎮座。
戸田の小野氏は綾娘子に、語り部の仕事を引き継ぐよう勧めました。
小野臣家の子孫では、歌人・小野小町が知られており、晩年には歌と物語や史話の話芸で収入を得る仕事をして、村々を回った、と云います。
伝承によると、出雲系の小野臣や和邇臣から猿女君氏の語り部が出たが、その中では天鈿女命の子孫と称する稗田氏が本流とされているとのこと。
小野氏・和邇氏と宇佐・豊姫の子孫が婚姻・習合したことを、この伝承は語っているのか。
ひょっとすると鈴鹿の椿大神社で物部に暗殺されたという豊姫は、生き延びていた可能性があるのかもしれません。
豊姫はかの偉大なる親魏和王の妃巫女・豊玉姫の娘、物部が放った刺客とて手にかけるのは畏れ多いと感じたことでしょう。
それはさておき、この石見国小野郷には稗田氏系の語り部がおり、その生業を受けついだのが人麿の母、綾娘子だったということです。
戸田柿本神社のすぐそばに、「柿本人麿生誕地」という石碑があります。
そこにある家には、柿本神社を守り続ける「綾部」の家が今もあります。
ここが人麿の生家であり、人麿の妹から数えて50代目の当主が今も住んでおられるそうです。
その綾部家の庭先に、しっとりと苔におおわれた静謐な場所があります。
これは柿本人麿の「遺髪塚」。
彼の亡くなった後に、実家に送られてきた人麿の遺髪を埋葬した場所であると伝えられます。
彼の生涯は、「万葉歌の天才歌人」とだけ伝わり、詳細は不明とされます。
しかし柿本人麿こそ、『古事記』の執筆者であり、それゆえに生きた証を消されてしまったのだと、富家の伝承と各地の伝承を合わせ調べ、斎木雲州氏は紐解きます。
そしてその歴史的事実を、読みやすい本にして書いて欲しい、と氏は僕に託されました。
しばらくの間、僕は柿本人麿の遺髪塚の前に佇み、頭を垂れていました。
「あなたの物語を語るに足る資質が、果たして僕にあるのでしょうか」
稗田の語り部、稗田阿礼こと柿本人麿が綴る古事記は、勝者の歴史を書くよう強要されながらも、敗者にも深い慈愛をもって物語っており、和歌が多く用いられ、実に情緒に富んでいます。
彼が苦境にありながらも人々に愛される古事記を書き上げた裏には、稗田の語り部として、人麿に母・綾娘子がたくさんの愛情を注いだ結果であろうと偲ばれるのです。
この度、日の目をみることになりました『人麿古事記と安万侶書紀』は、濃密な富家伝承の書籍群への入口として、読みやすさを求めた良本となった自負がございます。
しかしいくつか加えたかったエピソードもあり、人麿が古事記にあれほどの情緒をもって書き記すことができたその根底には、母・綾娘子の愛があったのだとお伝えしたくて、裏話として『偲フ花』に記載させていただきました。
その綾部家が今も戸田に残り、柿本神社と遺髪塚を守っておられることに、感謝の意が絶えません。
人麿の遺髪塚でお祈りの後、綾部家の敷地の一角に手入れされ、綺麗に保たれた墓石が置かれていることに気がつきました。
それは「語家 先祖代々之墓」、これまで戸田の柿本神社を守り、伝承を語り継いでこられた尊い方々のお墓でした。
その綾部家のご家紋を見た時、顔を上げると空は青く爽やかで、「やるだけやってみろよ」と背中を押されたような、そんな気がしたのでした。
五条 桐彦(CHIRICO)さま
はじめまして。
清水 公隆(しみず きみたか)と申します。
宗像の女神さまのことを検索していて、こちらのサイトに辿り着きました。
そして今回の記事も大変興味深く読ませて頂きました。
わたしの父親が益田市の出身で、両親が人麻呂神社(高津人麻呂神社)で結婚式を挙げたので、
柿本人麻呂は昔から気になるお方でした。
子供の頃から『人麻呂さん、人麻呂さん』と呼んでいて、夏休みに益田市へ家族で帰省すると、
よく人麻呂神社(高津人麻呂神社)へ行きました。神社で兄弟四人、遊んだりふざけたり喧嘩したりしたことが
懐かしく思い出されます。
わたしは現在は川崎市に住んでおりますが、高校生までは福岡の遠賀町に住んでいました。
ですので福岡市在住?の五条さまに対して心親しく思う気持ちがあります。
ブログを拝見していても、『よくこのような場所へ行けたなぁ。鬼気迫る場所なのに恐ろしくなかったのかなぁ』
と思うことがたびたびあります。
美容師のお仕事をなさっているようで、文章にも気品を感じますね!
とまれブログの更新を楽しみにしております。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
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清水さん、コメントありがとうございます😌
高津人麻呂神社も参拝致しましたが、とても立派で、また違った趣のある神社ですね。あそこでご結婚式を挙げられたご両親は、とても美しかったことでしょうね。
つい最近、神奈川へは書籍発売記念の講演会というものに出席させていただきました。鎌倉も良いですが、寒川神社や有鹿神社もとても雰囲気の良いところですね。
遠賀方面で印象深いのは岡湊神社でしょうか。ちょうどヒトツバタゴが満開で、春の雪景色を見ているようでした。
清水さんに心親しく感じていただけるとは光栄です。どうぞこれからもよろしくお願いします。
今は美容師をしておりますが、もともとサラリーマンで、ちょっと変わった経歴を経ております。超絶庶民派ですので、お気軽にお声かけください。
旅もエスカレートしていきますので、だんだんと普通の場所では物足りなくなっていくんですよね。それはもう恐ろしいところにも行ってしまうのですが、それは好奇心の方が勝ってしまうからでしょうね。でもこれ以上は足を踏み入れてはならない、と感じる場所には立ち入らないことにしています。たぶん。
最近は仕事も行き詰まっておりましたが、清水様からのあたたかいコメントで救われたような気がしました。ありがとうございます😊
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