悠久の昔、高牟礼山に神在り。
ある時、海からやってきたという玉垂の神が高牟礼の神に願い申す。
「どうか一夜、山を貸していだだきたい」
そういうと玉垂の神は、山の麓にある大石を馬に激しく足蹴らせ、蹄の跡を打ち付け、これを清廉の証とした。
人の良い高牟礼の神が承諾すると、玉垂の神はこれ幸いに馬蹄の跡の残る石を中心に八葉石の列石で山を囲み、結界を為した。
以来、高牟礼の神は山に戻ること叶わず、麓の高樹神社にて鎮座すると云う。
高良大社ニノ鳥居です。
ここから歩いて登って、山頂付近の高良大社を目指します。
いつもは車で登拝していましたが、コロナで時間も持て余しているので、意を決することに。
ふと二ノ鳥居の側を見ると、六町と彫られた石柱があります。
これは大社前の本坂下、十五町までを一町(およそ108m)ごとにたてた標識になります。
つまりここから大社までは972mの道のりになるということ。
早速あゆみ進めると、足元に広がる大きな岩盤に驚きます。
この参道は、岩盤と石の階段を登っていくことになります。
登り始めてすぐに
神功皇后が三韓出兵の吉凶を占ったという「背比べ石」があります。
その先の大きな岩盤に、一部囲われた場所が。
これが「馬蹄石」(ばていせき)。
ある意味、高良大社で最も重要な霊跡かもしれません。
一般には高良の神が神馬の蹄あとを残したものであると伝えられています。
高良山の有名な史蹟に「神籠石」(こうごいし)と呼ばれるものがあります。
この神籠石は高良山を取り巻くように大きく一円を描くように配されています。
実際には北半部はその存在が確認されていませんが、これは未完成のまま今に至るという説と、天武天皇7年12月(679年1月)の筑紫大地震によって崩壊したとする説が唱えられています。
現在は大学稲荷神社がある車道あたりでその存在をお手軽に確認することができますが、見るからに古代山城の城壁っぽく見えます。
が、果たしてこの程度の壁で防御になり得るのかも疑問。
実は本来、神籠石と呼ばれたのは先の馬蹄石の方であり、この列石は「八葉の石畳・八葉石」と称されていたそうです。
馬蹄石は八葉石の起点・終点にあたる神籠石であり、磐座として祭祀されていた可能性が濃厚です。
となれば、八葉石はその先の聖域を区別するための結界であると考えた方が納得するものです。
再び登っていきます。
なにやら面白そうなものがあります。
道を外れたそこに聳えていたのは、立派なマキの木。
不老長寿の神木、
推定樹齢400年とありますが、
ここの目玉はこれではないようで、
その横にある、この小さな榊の木でした。
また登ります。
程よく侘びた神社がありました。
境外末社、式内社の「伊勢天照御祖神社」(いせあまてらすみおやじんじゃ)です。
延暦3年(784年)に伊勢の皇大神宮から分祀されたそうですが、一ノ鳥居である石造大鳥居の北にかつてあったのだそうです。
明和4年(1767年)の府中大火が契機となり、現在地に遷座したということです。
左右の小社は八幡宮と天満宮。
小さな境内ですが、伊勢社特有の清々しい空気が満ちていました。
さらに登ります。
それにしてもこの辺りは杜の気配がとても濃厚で、南国の島の密林を思わせるほど。
これも八葉石の結界の効果でしょうか。
すると雰囲気のある山門がありました。
これは旧宮司邸「蓮台院御井寺跡」(れんだいいんみいでらあと)と呼ばれるもの。
高良山も歴史的に神仏習合されていた時期がありました。
やがて明治2年、神仏分離により仏教は高良山から退去となります。
かつての高良山仏教の中心がこの場所であり、明治になって座主が廃止されてからは宮司邸として使われていました。
この奥にはもみじ谷と呼ばれる場所があり、紅葉の季節はことさら美しい景観を見せてくれるそうです。
蓮台院御井寺跡の前に
「大井河」(おおいご)と呼ばれる井戸を発見。
案内板によると「北井河」(きたいご)、「西井河」(にしんご)とともに、「お汐井とりの井戸」「御供水の井」と言われていたそうです。
家内安全、無病息災を願ったお潮井汲みが終戦まで持ち回りで行われていたそうで、毎朝早くここで水を汲み、高良大社に参拝した後、各家々の玄関に杉の枝で水を振って回っていたということです。
また、特に出征兵士の家にはたっぷりの水が撒かれていました。
大井河の先には蔦の絡んだ石鳥居。
扁額には「大学稲荷神社」とあります。
この辺りの階段坂を撮ったものであろう古写真もありました。
十二町までやってきました。
第2代久留米藩主「有馬忠頼」(ありまただより)が三代将軍「家光」の位牌を祀った「御霊社」(みたましゃ)の跡地がありました。
車道を越えて
さらに登っていきます。
「鏡山神社」がありました。
祭神は、高良玉垂命の分祖とされていますが、
元は麓の御手洗池の側に鎮座していて、その御本体所には「物部胆咋連」(もののべさくのむらじ)の像が置かれていたと云います。
ということは、「高良玉垂命」とは物部族の祖神である、ということになるのでしょうか。
高良大社宝物館に収められている2枚の鏡のうちの1枚「四雲文重圏規距鏡」(しうんもんじゅうけんきくきょう)もここに祀られていたそうです。
鏡山神社の周りには、神社を取り巻くように国指定天然記念物の「孟宗金明竹林」(もうそうきんめいちくりん)が黄金色に広がっています。
高良山で、孟宗金明竹が発生したのは、昭和9年(1934年)のことだそうです。
その後数も増え、今では約300本になっています。
地下茎から、小枝に至るまで一節ごとに左右交互に緑の縦縞があらわれているのも特徴の一つです。
もうひと階段、
登り終えると立派な鳥居が見えました。
あれ?
ここはもう、目指す高良大社の目前、本坂の手前まで来ていました。
思ったよりあっけなく登りきった印象です。
時間は20分ほど。
もっときつい行程かと思っていましたが、程よいトレッキングでした。
しかしまだ階段は続きます。
山麓から参道を登って来ると最後にあるこの坂は、社殿正面にある本坂に対し、「下向坂」(げこうざか)といいます。
昔は、下向坂が本参道だったそうで、この階段を登り切ればいよいよ高良大社本殿へとたどり着くのです。
もう目的地の高良大社は目の前ですが、ここからさらに山頂方面を目指してしばしトレッキングを続けます。
それは霊泉湧き出でる奥宮を訪ねるためです。
高良大社本社から奥宮までは、穏やかな勾配ある山道を行きます。
その距離は1kmほど、約20分の道のり。
さて、謎多き祭神、「高良玉垂命」(こうらたまたれのみこと)について少し考えてみます。
もともと高良山は高牟礼山と称され、高牟礼神が祀られていたという伝承があります。
この高牟礼神とは「高木神」、つまり徐福の母親「栲幡千千姫」(たくはたちぢひめ)のことです。
徐福と彼が連れてきた童男童女らは出雲で「海氏(海部氏)」となり、佐賀で「物部氏」となります。
彼らの信奉した宗教は「道教」であり、星神信仰でした。
彼らは星読みを行うため、標高の低い形の良い山を聖域としたと云います。
この高良山は物部族にとって、まさに聖地とするにふさわしい山でした。
そこに彼らの祖神を祀ったとしてもなんら不思議はありません。
ただひとつ、腑に落ちない点があります。
支那の秦国からやってきた彼らは、父系社会制でした。
母系社会制だった出雲族なら理解できますが、彼らが果たして母神を祀ったものでしょうか。
秦国からやって来た海部族と物部族は「秦族・秦氏」とも呼ばれました。
佐賀平野にたどり着き勢力を徐々に拡大していった物部族は吉野ヶ里に都を築き、更に筑紫平野に王国を築きました。
彼らはそこを「築秦」と呼び、それが「筑紫」になったと云うことです。
筑後から筑豊地区にかけて鷹羽の神紋を持つ神社や高木神社群が存在し、確かに高木神を頂きに掲げる一族が一体に存在した痕跡が今も残されています。
随分歩いて来ましたが、鬱蒼とした杜が途切れた場所がありました。
そこからは久留米の市街が一望できました。
鳥居が見えました。
この少し先に奥宮があります。
高良大社奥宮は「奥の院」とも呼ばれ、古くは「高良廟」「御神廟」あるいは「語霊廟」と称していました。
それは当地が、高良玉垂命に比定されていた「武内宿禰」の葬所とされていたからです。
武内宿禰は300年を生き、6代の天皇に仕えたという怪人として伝えられますが、それは「宿禰」という物部王朝での重鎮に与えられる役職名を受けた数代の武内家の人物を総称したものでした。
高良大社に縁ある武内宿禰といえば、神功皇后に随伴した武内襲津彦であろうと思われます。
しかし彼は神功皇后と共に大和に入り、そこで亡くなっていますので、ここが彼の墓であるはずはありません。
奥宮です。
社殿の横では、霊水が滔々と湧き溢れています。
秦族の聖地には水が湧き出ているところも多く、湧水は神聖なものとされていました。
「天真名井」(あめのまない)と名付けられた聖なる井戸(湧水)を各地で見かけることがあります。
秦族は支那の秦国からやって来たので、その名で呼ばれました。
しかし彼らは正確には、秦国人ではなく、秦国に滅ぼされた「斉」の国の人で達でした。
斉国人はイスラエルの失われた十支族の末裔であると云うことです。
旧約聖書にある「脱エジプト記」では、エジプトの奴隷となっていたイスラエル人たちをモーゼが率いてイスラエルに帰るシーンがあります。
アラビア半島を通るとき、彼らは飢えました。
そのとき見つかったのが、「マナ」であったと記されています。
それは植物が分泌した樹脂性の物質で、神の恵みだと彼らは感じたと云います。
つまり真名井とはマナの事で神の恵みの井戸を示すものなのです。
ところで佐賀で徐福伝承を追っていた時、秦族にも出雲のサイノカミ信仰のように、男根女陰に似せた岩を神体として祀る風習があることに気がつきました。
そして女神の岩は得てして霊水が沸き出る場所で祀られることがあったことを思い出します。
であれば、物部族がこの聖なる山を登拝し、山頂付近に霊水が湧き出るのを発見した時、何を思ったか。
ここは太祖母神が眠る山であると考えたのではないでしょうか。
高木神を祀っていたとされる英彦山山頂付近にも、そういえば霊水が湧く場所がありました。
高良山麓には、現久留米市を含む三井郡(御井郡)の名の由来となった「高良三泉」をはじめ、有数の霊泉が湧き出る地区です。
ここを中心に高木神を信仰する一族が勢力を広げていった可能性は、確かに高いと思われたのでした。
玉垂命=物部氏であるということは私も大いに支持する所であります。
命の最後の末裔とされる稲員家の家系図には、初代玉垂命とは物部保連であると記されています。
また、高良記(しかし中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡ぢゃ、と書かれているそうです。
しかし、私が一番気になっていることは、物部氏が誰に対して恐れを抱いていたか、ということです。
邪馬台国事件で豊国からとにかく怒られ、藤林先生の本でも、3世紀には、朝鮮半島出兵で吉野ヶ里の物部の里は衰亡に向かいます。
伝承を裏付けるかのように、発掘調査でも衰亡時期が結論づけられており、出雲伝承の確度の高さが窺える所です。
九州で勢力を失った物部氏には敵が多い状態が続きます。そのうち、各地の物部氏にはヒボコの子孫を名乗り、自衛に向かう方向が強くなっていきます。神宝も日鉾の鏡などを掲げる様になっていきます。
物部守屋の娘を奉じて落ち延びたとされる秋田物部氏は神功皇后を祀ります。
実態といえば、物部氏も征伐には参加はしており、功績が消されています。まるで神風の時の阿東水軍のように。
古事記ではちゃっかり、磐余彦が進軍し、いつの間にか大和に辿り着いたのはウマシマジとテヘペロで書いているのに、この物部氏の消し方は異例のことと思われます。
神功期から、応神期間はおそらく最も物部氏が圧迫された時期と考えられます。
次の時代も、物部氏が殺し損ねた武内宿禰の子孫が政権をとっています。
物部氏は、大和と地元の豊国に挟まれ、相当に苦労をしてきたのだと考えられます。
出雲伝承ですら残せなかった初期の物部氏の家系図。ウマシマデからナギサタケ、イニエの先祖など、ほぼ完全な欠史が存在しているように見えるわけです。
九州の伝承はほぼ永遠のテーマになってしまうのでしょうかね。
九州にも伝承の家が今でもひっそりと息づいていることを願ってやみません。
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物部は豊家を裏切り、九州で土雲にひどい仕打ちをしていますので、肩を持つ気はありませんが、物部には物部の事情があり、苦労があったことは認めています。
ひねくれてはいますが、優秀な一族であったことは間違い無いでしょう。
物部の伝承としては末裔を称する真鍋大覚氏の『儺の國の星』などがあるようです。入手可能な時期があったようですが、今は難しそうです。那珂川の図書館で借りてみてみましたが、なかなか難解でした。それを探究しておられるのが、nakagawaさんです。
宇佐家では宇佐公康氏の「古伝が語る古代史」でしょうか。旧家にはいろいろ眠っているお宝があるのでしょうが、それらが日の目をみることはなかなかなさそうですね。
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