10月16日、阿蘇神社摂社の霜宮神社では、乙女揚げ神事が執り行われます。
「霜宮神社」の記事でも記しましたが、この小さな神社には、阿蘇開拓にまつわるちょっと変わった神事が今に伝え続けられ、守られています。
伝承の始まりはこうです。
阿蘇の開拓神「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)は毎日、往生岳に腰掛け、7キロ離れたこの的石まで矢を放ち、弓の稽古をしていました。
健磐龍命は、従者の「鬼八」(きはち)に矢を拾ってくる仕事を言いつけます。
鬼八は自慢の足で阿蘇谷をひとまたぎ、99本まで走ってその矢を拾い帰りました。
しかしくたびれ果てた鬼八は、100本目の矢が放たれた時、これを足の指に挟んで投げ返します。
すると運の悪いことに、矢は、命の太股に突き刺さってしまったのです。
これに腹を立てた健磐龍命は、鬼八を追いかけ、首を落とします。
しかし鬼八の首は元通りにくっついてしまい、腕を切っても足を切っても、再びくっついて蘇ります。
困った命は、鬼八の亡骸をばらばらに分けて埋めました。
鬼八は「阿蘇谷に霜を降らし、この怨みを晴らしてやる」と言い残し、それ以来蘇ることはなかったと云います。
呪いを残した鬼八の遺体は、寒さが迫ってくと傷が痛み、霜を降らすようになりました。
阿蘇谷の稲の穂が実る頃に霜がおそってくるようになり、作物は枯れ果てます。
そこで鬼八の御神体を暖めるために、霜の宮で火を炊き続け、鬼八の霊を慰めるようになりました。
これが霜宮神社に伝わる「火焚き神事」です。
鬼八伝説はお隣の高千穂にも伝わっており、「三毛入野命」(みけいりぬのみこと)が鬼八の体を切り分けて別々に埋めたと云います。
この二つの場所に伝わる鬼八は、同一人物、もしくは同一族を表しているものと思われます。
つまり一連の鬼八伝説は、高千穂から阿蘇にかける一帯を支配していた豪族と、開拓に来た天津族の話が元になっていると思われます。
「一所は肥後国にあり、半身が埋められた所(霜の宮)で霜の祭を行っている。
13以下の娘が竈を取り、8月から9月に及ぶまで毎夜塚に火を焚く。
この祭りに仕える女児に村民が霜が遅い時には稲数束、霜が早く降りる時には藁数束を与える。」
霜宮神社からわずかに離れた「火焚殿」へ向かっていると、ちょうど今年の「火焚き乙女」も到着したところでした。
火焚き神事は8月19日の「乙女入り神事」で始まります。
霜宮神社にある御神体を神輿に乗せ、火焚殿へ移します。
御神体はこの神棚の上に木箱に入れたまま収められます。
御神体が置かれた下の床はすのこ状になっています。
この下で火が焚かれ、鬼八の御神体を温め慰め、霜が降りるのを遅らせてもらうのだそうです。
この時から10月16日までの59日間、火がたき続けられるのですが、かつては火を決して絶やさないよう、火焚き乙女はこの敷地から出ることなく火の世話をし続けました。
さすがに今は、乙女が火の世話を行うのは祭りの時だけで、その他の日は地域の世話役が世話をしています。
また、昔は火焚きの期間は8町四方では喧嘩、大声は厳禁とされ、「和」の精神を大切にしたと伝わります。
この火焚きに使われる薪は阿蘇谷中から集められます。
9月15日には寒くなってきたと言うことで御神体を真綿でくるむ「温め入れ」(ぬくめいれ)がなされます。
今年も霜の害はなく、稲も無事たわわに実っています。
火焚殿の屋根からは角の煙が立ち昇っていました。
霜宮神社の御祭神は「天神七柱」、「天津神」とありますが、この神は一説には「北斗信仰の神」であると云われています。
神棚に祀られた幣帛も7本ありました。
北斗七星を信奉した一族があります。
それは道教の道士「徐福」を祖神とする一族です。
また、徐福の母親は「栲幡千千姫命」(たくはたちぢひめ)であり、彼女は「高皇産霊命」(たかみむすびのみこと)と呼ばれています。
神楽殿から御神体を乗せる神輿が出て来ました。
10月16日、59日間焚き続けた火を落とす神事が「乙女揚げ神事」です。
火焚き乙女がやって来て、神事が始まります。
そこそこ激しく降っていた雨が、不思議と上がり始めました。
阿蘇の開拓神で鬼八を死に追いやった健磐龍命の父親は「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)と云います。
健磐龍は多氏の始祖「敷桁彦」の子であり、諏訪大社下社の大祝となった金刺氏の祖「建稲背命 」と兄弟であると伝わります。
が、ひとつ、ずっと気になっていることがあります。
阿蘇神社系に用いられる鷹の羽の神紋です。
鷹の羽の神紋は、英彦山系に見られる高木神、高皇産霊の神紋です。
高木は鷹木のことであり、徐福の母「栲幡千千姫命」の「たくはた」が「鷹羽」になったものと思われます。
英彦山周辺の田川も元は「鷹羽」であり、日田も「飛鷹」であったという伝承が残ります。
これはひょっとすると、健磐龍は海部系神八井耳の末ではなく、物部族の人間なのかもしれません。
祝詞奏上から玉串奉納まで終わると、祭殿に階段が掛けられました。
そして神職により、木箱に入った御神体が神輿に移されます。
霜宮神社の祭りの中心は鬼八ですが、取り巻く主祭神は、道教の星神です。
これは荒ぶる鬼八を、物部の神七柱が見守っているように見えます。
鬼八の御神体を乗せた、重そうな神輿がゆっくりと動き始めました。
先頭を行く氏子さんの手にあるのは、猿田彦の面でしょう。
行列は火焚殿を出て、まっすぐ霜宮神社を目指すのではなく、反対側へ寄り道していきます。
鬼八とはどういった人物だったのか。
三毛入野命が荒ぶり悪行を重ねる鬼八を成敗し、助けた鵜目姫と結婚したと伝える高千穂の伝承にはリアルな裏の話が伝わります。
高千穂に伝わる鬼八の里「あららぎ」は「神呂木=神漏岐」(かむろぎ)に通じると云われています。
神漏岐の神とは「天津祝詞」にその名が出てくる、イザナギ・イザナミに先んじて存在した原初の男神のことです。
鬼八の末裔は姓を「興梠」(こおろぎ)と言い、これも神呂木が由来となっているのではないかと考えられています。
この「興梠」の一族に次のような話が伝わっていました。
鬼八は山野を自在に馳け回って狩りをする異族の首魁で、「走健」(はしりたける)と呼ばれていました。
鬼八は、妻と子供と共に海の向こうからやってきて、高千穂の地に住み着きます。
鬼八たちは野山の草花から薬を作ることが出来たので、村の者から頼られ、慕われるようになり、やがて、鬼八は村の長になりました。
鬼八の妻は「阿佐羅姫」、またの名を「鵜目姫」といい、目の大きな美人でした。
ある日、高千穂に大和の皇子を名乗る男たちがやってきます。
鬼八の妻に心を奪われた皇子は、鵜目姫を自分のものにしようと考えました。
そこで皇子は、親睦のためと鬼八を騙し、酒に酔わせて殺してしまいます。
鬼八の子らは何度も抵抗し争い続けますが、やがて恭順させられていきました。
妻「鵜目姫」は断崖の洞窟に身を潜めるも、捕まるのを恐れて自害した、と云うことです。
道教に端を発する一族の聖数は「7」でした。
出雲の聖なる数字は「8」です。
鬼八は出雲系タケミナカタの子孫「会知早雄」であり、草部吉見神社の「国龍命」であった可能性は濃厚であると考えます。
鬼八には出雲人特有の、争いを好まず人の良い一面が伺い知れます。
数々の伝承から見えてくるのは、当初、鬼八族は渡来系の一族に恭順し、共同生活を送っていたものの、何らかの原因で関係は破綻し、戦争になったというもの。
力でねじ伏せる大和族に、劣勢ながらも抵抗し続けた様子を、度々蘇る鬼八の伝承として伝えたのではないでしょうか。
行列は間も無く霜宮神社に至り、最後の祭祀がなされ乙女揚げ神事は終了となります。
このあと、10月17日は、中休みといって 一切の神事を休みます。
そして、18日の夜から19日の朝まで「夜渡祭」(よどまつり)が行われます。
神楽殿に積み上げられた薪に火が付けられ、朝まで燃やし続けます。
夜8時過ぎ、太鼓を先頭に、7本の幣帛を持った神官、火焚き乙女、氏子の順で行列を組み「天神」と呼ばれる乙女揚げ神事で寄り道した場所に行きます。
ここで祝詞が奏上され、再び神楽殿に帰ります。
神楽殿に着くとその周りを時計回りに7周回り、神楽殿に入ります。
神楽殿の正面に幣帛を戻し、「阿蘇古代神楽」という男性神職が舞う神楽が舞われます。
古い巫女舞を思わせるこの神楽は、繰り返し朝まで一人の神職が舞い続けるそうです。
すべての神楽が終わったとき、お宮の脇の湧き水で神職と乙女が水を被り身を清めます。
最後の禊ぎが済んだ後、神官と乙女は7本の幣帛の前にすわり、神官が「霜づかぬ 代々の神業 秋かけて 乙女の籠る 今日は来にけり」という神楽歌を唄います。
神官は神楽に使った幣帛で焚き火をならし、火を小さくして、「火渡り」(乙女と二人で火の回りを5回廻る)を行います。
この後7本の幣帛の前で神官と乙女は三献を行い、再び天神に行きお祭りは終了です。
焚き火の灰は、霜やけなどに良く効くものとして参拝者がみんな持ち帰ります。
この火焚き神事は「阿蘇の農耕祭事」として国から重要無形民俗文化財の指定を受け、二千五百有余年の間伝統を守り、今日に至っていると云うことです。
重い神輿を、皆でなんとか宮に戻していました。
宮の屋根には鷹羽の神紋。
収まった神輿と御神体の前で、祭祀がなされます。
すると、ポツリポツリと雨が再び降り出し、辺りは一気に冷え込んで来たように感じました。
この後、氏子の方々は直会(なおらい)が開かれているようです。
僕は誰もいなくなった神殿にお邪魔させていただきました。
今は簡略化されたとはいえ、つい最近まで、59日間も幼い乙女によってなされて来た火焚き神事。
太古にあった出来事を正確に知るすべはありませんが、祭りはこうして永く続いていきます。
異族間の侵略戦争というのは、世界中でいくらでもなされて来ました。
しかし不思議なことに、日本でなされたそれは他国のものと根幹が違っています。
日本では渡来した異民族も日本人として帰化し、戦争に勝っても日本という国を塗り替えることはしなかったのです。
そして勝った一族は、滅ぼした一族を、たとえ怨念を鎮めると言う理由であっても、こうして気の遠くなる長い年月祀り続けて来たのです。
これは日本独特の風習であり、渡来人にとっても、日本という国を失わせたくないと思わせる何かがあったということでしょう。
それにしてもこの面、見るからに出雲の「サルタ彦」を象徴しているとしか思えない造形です。
帰り際、祭事の途中で寄り道をしていた「天神」と呼ばれる場所に立ち寄ってみました。
そこは民家と民家の間に、無理やり残されたような聖地です。
奥の一角には一本の若い木と、石が置かれています。
火焚き神事の中で神輿がわざわざ立ち寄る、特別な聖地ですが、ここは昔隕石が落ちた場所で、御神体はこの隕石であるとも云われているそうです。
事情に詳しそうな方が偶然訪れて話してくださいましたが、ここには昔、7つの石が神籬として置かれていたそうです。
「キハチさんが祀られているんだから、他に7つも神さん、いらんだろうけどなぁ」
そう言い残し、その場を立ち去っていかれました。
僕も一緒にその場を離れましたが、チクリと胸を刺す思いに、今一度振り返っていました。
詳しくありがとうございます。天狗と猿田彦が繋がりました。ちょっとずつ勉強します。
1000km、ご無事で何よりです。
偶然ですが私も来月長野に行きます。別所温泉です。古い温泉みたいなのでなにか見つけられるかな。
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別所温泉といえば、タケミナカタが越国の糸魚川から諏訪に向かう途中、サイノカミを祀った生島足島神社が近い場所にありますね。
のんびりとした良いところですよ♪
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行かれたことがあるんですね!タケのつくのがえーと、徐福の系列でしたっけ?諏訪に降りてきたんですよね、ぜひ行ってきます。
p50 ホアカリ(徐福)の奥方になった高照姫(田心姫の娘)は大屋の屋形で息子五十猛を生んだ。(中略)五十猛の子孫(海部家)には、建筒草や建田背という名前がある。その建の発音はタケであり、「猛」と同じ意味だと考えられる。
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タケミナカタはタケがつきますが、神社によっては建御名方富彦の名前で祀られているように、東出雲王家富家の事代主の息子です。
越国糸魚川の翡翠、沼川姫との間に生まれた御子。
国譲り神話ではタケミカヅチに負けて諏訪に逃げ込んだように記されていますが、東に第二の出雲「諏訪王国」を築いた英雄です。
そう、諏訪・安曇野は第二の出雲、なのですが、かなり複雑で様々な経歴を経て今に至ります。
なにせ、蝦夷国の入り口ですから。
また原住の洩矢族のミシャグジ神信仰と習合してややこしいことになっています。
諏訪の隠れた祭事では、大祝(おおほうり)という男児に神を降ろし、祭りの後殺害することで豊穣を願ったと云う、暗い歴史も垣間見れます。
北には戸隠などがあり、信濃はハマると深く長い旅になりますよ。
僕もすでに数回旅していますが、まだ及ばないところもあり、あと1,2回は旅したいところ。
心して旅してください(笑)
ちなみに生島足島神社の御神木の根元に空洞がありますが、その中を忘れずにのぞいて見られることをお勧めします。
出雲のサイノカミ信仰の痕跡が残っています。
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https://omouhana.com/2018/12/12/%e8%ab%b8%e6%89%8b%e8%88%b9%e7%a5%9e%e4%ba%8b%ef%bc%9a%e5%85%ab%e9%9b%b2%e3%83%8b%e6%95%a3%e3%83%ab%e8%8a%b1%e3%80%80%e7%95%aa%e5%a4%96/
の記事は勉強になりました。
お父ちゃんを救えなくかったタケミナカタがお母ちゃんと越の国にいった、そのあと諏訪方面に行ったんですネ。御神木の根元、何があるんだろう。ワクワクします。
ミシャグジ、原住の洩矢族のミシャグジ神信仰、新しい言葉・・・勉強してみます。
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とても興味深い記事をありがとうございます。
出雲と大和のあけぼのに、猿田彦はゾウの形と書いてありました。てっきりインドのガネーシャみたいなのを想像していたのですが、天狗っぽいんですか?お面の鼻の長いのところはゾウみたいですが、赤いし天狗みたいに見えます。天狗とサルタヒコは関係があるのですか?天狗のこともあまり良く知りませんが修験道の山伏の雰囲気を時代劇でみたことがあります。
バラバラにして生き返らないようにする話で連想したのがヴァンパイアで、東欧の方に聞いたことがあります。悪いことが起きると死体を掘り起こして切り刻むのだそうです。ロシアとかあっちのスラブ系の文化のようです。キョンシーのことはよく知りませんがあれも死体が生き返る話ですね。平将門も首塚に胴塚があったりでバラバラにされています。昔はバラバラにするのは普通だったんでしょうかね(笑)今なら警察沙汰です。
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おはようございます、Yopioidさん。
おっしゃる通り、サルタ彦は象神のことであると富氏もしるしてあります。
つまりガネーシャが元ですね。
しかし日本では猿田の字が充てられてしまい、いつしかサル顔の神であるとなりました。
しかし鼻が長いと云う部分は微妙に伝承され、天狗の面を猿田彦として祀ることもあるようです。
https://omouhana.com/2017/08/30/猿田彦神社%E3%80%80初庚申祭/
猿田彦は神話で瓊瓊杵尊を道案内した神として記されています。
なので神輿を導く神として、猿田彦役が先導して練り歩く祭りは各地にあるようです。
出雲は輪廻転生の思想があり、魂こそ尊いものとしたので、死後の遺体は穢れとして王族は決して触れることはなかったと云います。
両親の遺体でさえ触れてしまえば、王位を剥奪されたとも。
遺体を風葬するために処理したのは、特殊な人だけだったのでしょう。
それに対し、支那国では不老不死や黄泉返りの思想がありました。
佐賀の吉野ヶ里遺跡は物部の王国ですが、そこには甕棺に丁寧に遺体を納めて葬られた墳墓が多数発見されています。
魂が再び肉体に宿ると信じられていたので、遺体を傷つけないように甕棺に入れられたのだと思います。
逆に敵は生き返られると困るので、ぐちゃぐちゃに切り刻んだようです。
古事記のヤマトタケルは架空の人物であるとのことですが、彼は物部王朝時代の人として記されています。
彼も討伐した賊はぐちゃぐちゃに切り刻むシーンがあります。
ただしこの頭と胴と足の3つに切り刻んで塚に埋める、という話は、インドネシアに伝わる伝承にあるようです。
このことは次の投稿で述べる予定です。
つまりインドネシアから九州に移住した南方系原住民族に伝わる話を元にした神話なのではないかということです。
鬼八と同じような話が私の知る限りでも、安曇野の魏石鬼八面大王と和歌山の名草戸畔に伝わっています。
スサノオとツクヨミにも、食物神が口や尻から出したものを食事に出したので、怒って切り刻んで殺したら、そこから新たな食物が育ったという話が伝えられています。
東方のヴァンパイアの話とも繋がりそうで興味が湧きますね。
古事記はこちらのサイトがおもしろいです。
http://mogeyama.client.jp
昨日まで3泊4日で、弾丸トラベルをGoToしてきました。
長野・群馬・埼玉・神奈川・山梨を周回し、総走行距離は1000kmを超えていました。
ひたすら階段を登り続ける旅で、三峯神社の奥宮も登拝してきました。
さて、今日からはりきって仕事ですね(笑)
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