寂光院

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大原三千院から「花の道」と名付けられた大原女の小径を歩いて行きます。

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道端に咲く季節の花に誘われて、そう、この道は建礼門院が暮らした寂光院へと続くのどかな田舎道。

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観光客の喧騒にあふれ、いにしえの情緒が失われつつある京の都ではありますが、

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しかしゆったりとしたこの大原の里山には、まだ日本のふるさとの情景が残っています。
大好きだ~大原。
僕が旅を始めた頃から変わらず今も残る、京都で最も好きな唯一の場所が、寂光院とそこへ続く花の道かもしれません。

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大原女の道を歩いていると、しそ畑を度々見かけます。

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大原産の赤しそは最も原品種に近く、色・香り・味とも最高級であるといわれます。
それは「800 回以上繰り返し繰り返し、栽培されてきたこと」「大原が盆地のため、他所からの花粉の飛来がないこと」「赤しその栽培に最も必要な水分が、夏の晴れた日には山裾に霞(小野がすみ) がたなびき、冷気を含んだ水分がしその栽培に好影響をもたらすこと」が関係していると考えられています。

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「蘇る紫の葉」、さまざまな薬効にすぐれる赤しそは、大原の名産「しば漬け」に欠かせないものとなっています。

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「ころころと小石流るる谷川の かじかなくなる落合の滝」

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落合の滝(おちあいのたき)は、焼杉谷川と西田谷川が合流する地点にある小さな滝で、建礼門院・平徳子の歌が残されています。

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そのそばの「大原の里」さんが今宵の宿。

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部屋に通されると、川のせせらぎと虫の声が届いていました。
あえてTVは付けず、自然のままの古来から変わらぬ音色を楽しみます。

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夕食は京野菜と京味噌のお鍋。
これでもか!ってくらいに満腹になりました。

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自慢のお風呂は温泉でしたが、循環式だったのは少々残念。それでもお釜型の露天風呂に届く大原の風と音色は素晴らしく、とても心地よいものでした。

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「寂光院」(じゃっこういん)は、大原の奥地にある天台宗の寺院。

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尼寺で山号は清香山、寺号は玉泉寺となります。

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創建は推古2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられます。

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当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊でしたが、火災に遭っています。

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寂光院の名を広めたのは、平家一族の生き残り、平徳子のエピソードとなります。

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「平徳子」(たいら の とくし/のりこ/とくこ)は久寿2年(1155年)、平清盛と正室・時子との間に生まれました。
清盛は保元の乱・平治の乱に勝利して武士として初めて公卿となり、後白河上皇を支援、憲仁親王(高倉天皇)を立太子させ院政を始めました。
しかし互いに利害の異なる諸勢力を包摂していた後白河院と清盛との折り合いは悪く、不安定な政局が続くこととなります。

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そのような中、承安元年(1171年)に高倉天皇が元服すると徳子が入内します。
清盛と後白河院の思惑の中、徳子入内の背景には両者の対立を回避し、高倉天皇の治世安定を願う母・建春門院の意向が大きく反映したといわれています。
承安2年(1172年)2月10日、徳子は立后して中宮となりました。

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治承2年(1178年)11月12日、徳子は皇子を出産します。この皇子がかの安徳天皇です。
治承3年(1179年)11月14日、清盛はクーデターを断行して後白河法皇を鳥羽殿に幽閉しました。
治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は3歳の言仁親王に譲位して院政を開始、高倉院庁の別当は平氏一門と親平氏貴族で固められました。

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高倉院政の時代は、反平氏の勢力との軋轢の乱世でした。
高倉上皇は治承5年(1181年)正月14日、病により21歳で崩御します。
これにより後白河院政が復活することとなるのです。

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寂光院の敷地の裏手に「神明神社」がありました。
参道入口には竹棒が掛けられており、参拝を躊躇われましたが、まあ入っていけそうなので進んでみます。

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水路を滔々と流れる清らかな水。

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境内は鬱蒼としています。

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登り切ったところに鎮座する二つの社殿。
祀られるのは「天照皇大神」と「豊受大神」のようです。

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素朴で美しい神明造の社殿。

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後白河院政が復活して間もなく、平清盛は病に倒れ、閏2月4日、鴨川東岸にある盛国の屋敷で死亡します。享年64歳。
その死に際して清盛は高熱にみまわれ「身熱火の如し」であったとし、東大寺と興福寺を焼いた報いであったと伝えられます。

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清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継ぎました。
しかし「平家にあらずんば人にあらず」と増長してきた平家に対して、全国各地で反乱が相次ぎます。
後白河法皇も院政停止・幽閉を受けた憎しみを平家に抱いていました。
夫を失い父も失った徳子にこの対立を抑える力はなく、政権の崩壊は目前となっていきました。

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寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いと相次いで平氏軍が木曾義仲に撃破されます。
これにより平家は一気に傾くことに。
延暦寺が義仲軍に付いたことで京都の防衛を断念した平宗盛は、徳子に都落ちの計画を伝えます。
宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・徳子を含む平家一族を引き連れて西国に落ち延びることになりました。

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官軍から賊軍に転落した平家は元暦2年(1185年)3月24日、ついに壇ノ浦に追い詰められます。

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平氏軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍など840艘を味方につけて馳せ参じます。
これに対し平氏水軍は松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘の500艘でした。

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壇ノ浦のある関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを利用して早い潮の流れに乗って矢を射かけ、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を圧します。
しかし潮の流れが反転し、今度は義経軍が猛攻撃を仕掛けました。
平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決することとなります。

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平知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移り、戦況を報告します。
これを聞いた平清盛の正室・時子は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えます。
安徳天皇が「どこへ連れてゆくの」と仰ぎ見れば、時子は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、ともに海に身を投じたのだということです。

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神明神社の手水の先、

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そこに苔むした階段がありました。

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奥には洞穴が作られ、何か祀られています。

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そこを流れる小さな滝には

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まるで蛇のような倒木が横たわっていました。

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寂光院本堂から神明神社参道を間に挟む形で伸びる砂利道があります。

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砂利を歩き進めると、苔むした平地に石碑だけがひっそりと立つ場所があります。
「建礼門院徳子 御庵室跡」、ここは安徳天皇の母・徳子が隠棲した庵の跡地と伝わります。

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時子が幼き安徳天皇を抱いて入水した後、次々と平家一門の武士たち、女たちも海に身を投げました。
徳子は着物の左右の袖に石や硯を入れ、息子の後を追って自ら海に飛び込みます。そのまま静かに海底に沈んでいくものと思われた徳子でしたが、急に体が浮かび上がりはじめます。源氏方の渡辺昵がかき寄せる熊手に、徳子の長い髪が引っかかってしまったのです。

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渡辺昵は誰とも知らずに徳子を引き上げますが、同じく入水から助けられた平重衡の妻・輔子はその姿を見て叫びました。
「あなあさまし、それは女院にて渡らせ給ふぞ。過ち仕るな」(何ということ、その御方は女院であらせられるぞ。無礼を働くな!)
こうして生き残ってしまった徳子は、平宗盛・平時忠らと共に京都に送られます。
宗盛は斬首、時忠は配流となりますが、徳子は罪に問われることなく、文治元年(1185年)5月1日に出家し、洛東の吉田にある朽ちた僧坊で暮らすことになりました。

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その年の7月9日、京都で大地震が起き、僧坊も荒れ果てます。
そのような折、ある女房の勧めで徳子は洛北の山里、大原の寂光院に入ることにしました。
「山里は物さびしい場所ですが、憂き世よりは住みやすいかもしれません」
徳子は寂光院の傍らに1丈(約3m)四方の庵を作り、一間を仏間と定め、一間を寝室に設え、ひそやかな月日を送ったのです。

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『平家物語』最終巻「灌頂巻」では、徳子の隠棲する寂光院に後白河法皇がお忍びで訪れる様子が語られます。
平重衡の妻・輔子は夫の処刑寸前に対面し、後に出家します。輔子は夫の亡骸を供養した後、大原寂光院の徳子・建礼門院に仕えました。
この輔子と徳子が薪と蕨を拾っているところで後白河法皇と出会い、徳子が自らの人生を振り返り語るシーンで、物語の幕引きとなります。

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寂光院の本堂では、この平家物語・徳子のストーリーを寺院の方から聞くことができます。

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本尊の地蔵菩薩立像はとても彩色豊かで、時の流れを感じさせません。
それもそのはずで、この寂光院は本堂・本尊もろとも、平成12年(2000年)5月9日に放火で焼失しました。
犯人は未逮捕のまま平成19年(2007年)に時効となっています。

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幸い、本尊の胎内に3万体の小さな地蔵像が収められており、それは無事でした。
現在は収蔵庫に安置され、厳密に管理保存されています。

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寂光院の隣に建礼門院・徳子を祀る大原西陵があります。

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徳子の墓は京都市東山区の長楽寺にもあるといいます。

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後白河法皇・大原御幸後の徳子の動静についてははっきりしていません。
しかし彼女が亡くなる時、輔子が阿波内侍とともに看取ったと云い伝えられています。

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波乱万丈な人生を送った徳子でしたが、今は全国の水天宮に、子の安徳天皇とともに祀られています。

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寂光院境内の外、西側には阿波内侍らの墓もありました。

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阿波内侍(あわのないし)は藤原信西の息女で、崇徳天皇の寵愛をうけた女官でした。
出家のあと永万元年(1165年)に寂光院に入寺しています。

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出家以前は宮中にあった建礼門院・徳子に仕え、大原の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとなっています。

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大原の名物に、あのしそを使った「しば漬け」があります。
大原の里人達は、かつて皇后だった建礼門院に少しでも御所での高貴な日々を思い出してもらおうと色々考えました。
そこでこの地に古くから育つ、紫のしその葉の漬け物を献上しました。紫色は最も位の高い人が身につけることの出来る色でした。
徳子はこの紫色をたいそう喜び、紫葉(むらさきは)漬けと名付け、それが今のしば漬けの名となったといいます。

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建礼門院・平徳子は、海に散った平家一族と幼い我が子を思いながら1人寂しく暮らしたのでしょうか。
それは確かにそうだったのでしょうが、決して孤独だったわけではありませんでした。

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彼女のそばには輔子や阿波内侍おり、そしてどこまでものどかな山里「大原」の村人たちに囲まれて、しっとりと最後の時まで生きていったのです。

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「京都を訪ねるなら、まずは平家物語を読みなさい」
平成20年(2008年)、母が僕にそう諭してくれたのを覚えています。思えばそれが僕の旅路に、歴史を偲う心が咲いた瞬間でした。
つまり『偲フ花』の原点がこの寂光院にあると言えます。
今年2022年の1月から放映されたアニメ「平家物語」はダイジェスト的内容ながらもよくできており、絵も美しくおすすめします。

祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず 唯春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ 偏に風の前の塵に同じ

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7件のコメント 追加

  1. CoccoCan より:

    「京都を訪ねるなら、まずは平家物語を読みなさい」
    →名言ですね。
     高校生の頃に読んだ以来だと思うので、読み直したいと思います。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      はい、その言葉が今の僕を作っています。
      じっくり浸るなら本が最適ですが、サクッと見るには、先のアニメもおすすめです。アマプラで見れます。

      いいね: 1人

  2. シゲちゃん より:

     おはようございます!!
    これはまた素晴らしい神社ですね!(^^)!
     そしてお鍋も美味しそうです♪
    僕も時間を見つけて県外の神社を巡ってみたいものです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      世界は素晴らしいもので満ちている、旅をしているといつもそう思います。
      まずは四国から始められてはいかがですか?僕もまた四国に焦がれています。

      いいね

  3. Nekonekoneko より:

    おごれる人も久しからず…平家の末路の哀れは人間の高慢と傲慢に対する警笛なのかもしれません。幼児も女性も入水し、生き残るも恥を晒して世を忍んで生きるしか無かった。人間の驕りとはなんと恐ろしい結果を招くのだろうか…

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      栄枯盛衰、これはもはや人の営みそのものと言えるのかもしれません。結局人は傲慢に生きることしかできないし、やがて哀れに生き恥を晒して生きていかねばならない。平家物語などが今に多く親しまれるのは、そうした根本が人の中にあるからなのでしょう。
      認めてしまって、人生とはこんなもんだと開き直ってみてみれば、存外楽なのかもしれません。

      いいね: 1人

      1. Nekonekoneko より:

        平家物語が親しまれるのは、もののあわれを感じる古来からの日本に住む人々の精神から来ています。それは生き恥とはあまり関係ありません。そんな開き直りは単なるあなたの恥です。まあ、結局、何らかの恥を晒しながら生きるのは我々の日常でもありますけど。

        いいね: 1人

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