京丹後市久美浜に凄い磐座があると聞き、たまたま訪れたのが「神谷太刀宮神社」(かみたにたちのみやじんじゃ)でした。
一般には「神谷神社」と呼ばれますが、旧社地は明神谷というところにあったのを、中世の兵乱で社屋が破損したので、現地の太刀宮に合祀したと伝えられます。
当社は磯城・大和王朝最後の大王、「丹波道主命」を主祭神とする全国でも唯一の神社だそうで、
由緒には丹波道主命が出雲より大国主命を招いて祀った神谷神社と、丹波道主命亡き後、命を追慕して愛剣「国見剣」(くにみにつるぎ)を祀った太刀宮が合祀されて現在に至るとあります。
国見剣の「国見」が訛って「久美」となり、久美浜の語源になったと云われています。
ちなみに国見剣は奈良朝の頃、紛失して今はないそうです。
ところで由緒では、日本書紀の記述に合わせて、道主命を「四道将軍」(しどうしょうぐん / よつのみちのいくさのきみ)の一人であると説明しています。
四道将軍とは崇神天皇(物部イニエ王)が日本を統治するために、北陸、東海、西道、丹波の各地に派遣させた皇族(王族)の将軍のことで、他に「大彦命」(オオビコノミコト)、「武渟川別命」(タケヌナカワワケノミコト)、「吉備津彦命」(キビツヒコノミコト)の名を挙げています。
しかしこれは全くの嘘で、「大彦」は第1次物部東征で東北に敗走した、いわゆる「長髄彦」のことですし、「渟川別」は大彦の子になります。
「吉備津彦」も第2次物部東征で攻撃を受けた吉備国の王ですので、これら四道将軍とは、物部勢に破れた面々ということになるのです。
磯城・大和王朝11代「彦道主」大王は、大和の和邇の地に宮殿を構えていました。
しかしイクメ軍に圧され、丹波に移り、ついに敗れて因幡国造として因幡に去りました。
彦道主は負けを認める時、娘の「日葉酢姫」(ヒバスヒメ)をイクメ王に差し出し、イクメはこれを后にします。
そしてヒバス姫を三輪山の姫巫女に任命しました。
ヒバス姫は父の古墳である、和邇の東大寺山古墳を造り直し、晩年には父の住んだ因幡の国に住みました。
その話が変遷し、イザナミが比婆山に葬られた神話が作られたと云うことです。
ちなみに265年に晋に使者を送り、晋書にヒミコと書かれたのはこのヒバス姫になります。
神谷太刀宮神社と道挟んで向かい側に、お目当の磐座がありました。
そこには境内社の八幡社がありました。
磐座ってどこかな~って思っていたら、
八幡社の横にありました。
「神谷磐座」と呼ばれるその岩は、写真では分かりにくいですが、かなり大きく、迫力あります。
皇大神宮と記された小さな祠の前に、
この磐座の中心という石があります。
この中心の石から巨石が割れていて、
夏至の日に割れ目から太陽の光がこの石に当たるのだそうです。
その割れ目の道を歩いてみましたが、
何やらぞくりと来るものがあります。
割れ目の先に「秋葉神社」がありました。
この磐座は、古代祭祀場であり、近年まで女人禁制の地だったそうです。
また盤座の別の割れ目からは、延長線上に北極星が見れるそうで、道教の星神を祀った場所なのかもしれません。
大和の大王のうち、10代「日子坐」(ヒコイマス)大王と11代「彦道主」大王は、記紀の万世一系の系統から外され、代わりに物部の「イニエ」王(10代崇神)、「イクメ」王(11代垂仁)が割り当てられました。
彦道主王は、因幡国に移住した際、若い頃の名の「彦多都彦」を名乗ったと云います。
『先代旧事本紀』「国造本紀」の因幡国造の条には、「成務朝の御世に、彦坐王の子の彦多都彦命を国造に定めた」と記されています。
道主王の子の中には、磯城王朝の直系であることを誇りとして朝廷別王を名乗り、三河の豪族になった人がいるそうです。
また丹後半島東岸の「宇良神社」(浦嶋神社)の社家は、道主王の子孫だと云われているということです。