高倉下の紀伊王国建国から始まった今回の和歌山旅、その締めくくりに訪れたのは、和歌山県田辺市本宮町本宮にある「熊野本宮大社」(くまのほんぐうたいしゃ)です。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に含まれ、熊野三山の一つに名を連ねる当社。
かつては「熊野坐神社」と呼ばれた神社で、「本宮」にふさわしい風格をにじませています。
鬱蒼とした杜に囲まれていることもさることながら、両脇にびっしりと立て並べられた「熊野大権現」の幟が、道ゆく者の気を引き締めます。
当社は本来、熊野川の中州「大斎原」に鎮座していましたが、明治22年(1889年)の水害で罹災、流失を免れた上四社3棟を現在地に移築し、再建したものです。
つまり当地自体の歴史は深いわけではありませんが、祈りを捧げに来る人の思いが降り積もり、すでに往年の風格が備わっています。
なかなかきつめの石段ですが、途中にある「功霊社」、
祓戸社などで一息つきながら、登りましょう。
当社の主祭神「家都美御子大神」(けつみみこのおおかみ)は別名を「熊野坐大神」(くまぬにますおおかみ)、「熊野加武呂乃命」(くまぬかむろのみこと)ともいいます。
「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとしています。
また当社の説明では、家都御子神は「素戔嗚尊」であると記してあり、他にも八咫烏を神使することから太陽神であるという説や、水神、木の神であるとする説、「五十猛神」とする説など多数議論されていますが、結局その素性はよく分かっていません。
古代から中世にかけて、当社の神職は「ニギハヤヒ」の後裔で熊野国造の流れを汲む「和田氏」が世襲していました。
ニギハヤヒとはスサノオ・ホアカリと同一の人物を指しており、その正体は支那・秦国からの渡来人「徐福」であると、富王家の伝承にあります。
第一次物部東征で熊野入りした一族の一部はそのまま熊野に定住し、熊野物部族は後世に熊野国造に任命されています。
また熊野川の中州に至ったウマシマジらは、その中心に名草で戦死した物部本家の長「五瀬」を祀りました。
つまり支那から飛来し、大斎原に降り立った神とは「五瀬」であり、その後裔・和田氏が代々祀り続けたと説明できます。
さらに、建久9年(1198年)の在銘最古の遺品として重要文化財に指定された「鉄湯釜」が当社に伝わっています。
この鉄の湯釜は、「湯立て」と呼ばれる神事に用いられた釜であると伝えられます。
「湯立」(ゆだて/ゆだち)とは、神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかりの状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後に自身や周囲に振りかける儀式です。
平安時代には宮中行事の一環としても行われていた湯立ですが、「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されていることや、熊野をユヤと読む際に「湯屋」や「湯谷」の字をあてられたことなどから、熊野信仰の中核に湯の観念があったとされています。
富王家の伝承では、スサノオを祀る時、「鉄釜」を神体とすることが多かったと記されています。
ならば「湯立」神事は本来、物部氏が始めた祭事だったのではないでしょうか。
熊野本宮大社の神域には、大きな本殿が3棟並び建ち、向かって左が第一殿「西御前」・第二殿「中御前」、中央が第三殿「証誠殿」、右が第四殿「若一王子」となっています。
第一殿には「熊野牟須美大神」「事解之男神」、第二殿には「速玉之男神」、第三殿には主祭神「家都美御子大神」、第四殿には「天照大神」が祀られます。
また第四殿のさらに右端に小社「満山社」が建ち、結ひの神として「八百萬の神」が祀られます。
神域内の上四社は、直接参拝はできるものの、大斎原と同じく撮影禁止となっています。
神域の外にはまた別に、拝殿も設けられていました。
拝殿には、年末に宮司が、来年はこのような年であってほしいという想いを込めて一文字の大筆書きにしたためる、「一文字揮毫」が掲げられています。
その横にはこれまた達筆な、「令和」の文字も掲げられていました。
熊野本宮大社の主祭神の神の使いとして有名なのが「八咫烏」(ヤタガラス)。
記紀には神武を大和に導いたアマテラスの使いとして登場しますが、その正体についても富王家の伝承は解き明かします。
しかしここで、僕は困ってしまいました。
大元出版が制作・販売する古代出雲王家・富家の伝承本は、いずれも大筋においては同じことを述べています。
その大筋は誠に整然としていて、これまでの日本神話にあった矛盾点がほぼ全て解決できうる、素晴らしい内容となっています。
これは富家に伝えられてきた「真実の日本史」がそれだけ正確であるということに他なりません。
ところが細かな部分で言えば、本ごとに、あるいは一冊の本の中でも、食い違っていたり齟齬があったりします。
このヤタガラスの正体について述べられる部分が、まさにそうなのです。
斎木雲州 著「出雲と大和のあけぼの」、この本がこの「八雲ニ散ル花」シリーズの根幹になっていますが、こちらで示すヤタガラスと呼ばれた人物は、登美家の当主「賀茂建津乃身」(カモノタテツノミ)と記してあります。
同じ著者の「古事記の編集室」でも同様の内容が記されていました。
これが勝友彦 著「親魏和王の都」によると建津乃身の祖父「大御気主」(オオミケヌシ)となっています。
さらに僕を困惑させたのが、著者名こそ富士林雅樹となっていますが、その内容・文面から、長らく待ち望んでいた「あけぼの」のリライト版だと確信する「出雲王国とヤマト政権」の内容です。
こちらではヤタガラスは、登美家の分家である「太田田根彦」(太田田根子)であるとしており、しかも五瀬やウマシマジを攻撃した大和のリーダーを「大彦」であると記しているのです。
最新の書籍である出雲王国とヤマト政権にそのように書いてあるので、それが大元出版の最新の見解であるのかもしれません。
しかしながらいくつかの神社の由緒や、系図作成時における時系的な流れから言って、僕は「出雲と大和のあけぼの」の「賀茂建津乃身」がヤタガラスであったとするのが一番しっくりすると思い至ってます。
共通点としては、登美家のヤタガラスが乱れた大和を統治するため、共闘することを条件にウマシマジらと合流し、熊野川支流の北山川に沿って北進、大峰山脈の東を抜け、井光の近くの吉野川上流を通ったと、全ての関連本で記されています。
その際、途中からは 1人ずつしか通れない狭い道になり、難儀ではあったが、道中一度も敵に遭うことなく大和入りを果たしたと云うことです。
ヤタガラスは中国に伝わる「太陽の中にいる三本足の烏」がその元となっていますが、登美家の名が鳥の「鳶」を連想させたこと、また出雲族の血を引く登美家もまた太陽神信仰を持っていたことなどから、例えられるようになったと伝えられていました。
帰り際、参道脇の「茶房珍重庵」さんで「もうでそば」と「めはり寿司」をいただきました。
もうでそばは特製の十割りそばに、細切りの大根と梅が入ったあっさりめのそばです。
ほんのりと香る柚子が、良いアクセントになっています。
めはり寿司はご飯を高菜の浅漬けの葉でくるんだ熊野地方の郷土料理。
お土産に熊野本宮大社御用達の「もうで餅」も買いました。
餡を包んだ餅に玄米粉をふりかけた、懐かしい味がするお餅です。
また、熊野三山では「熊野牛王神符」(くまのごおうしんぷ)を買い求めることができます。
八咫烏にちなんだ、「カラス文字」で書かれた熊野山独特の神符です。
あらゆる厄災から守る、とても強力な護符であるとのことです。