高山神社

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福岡の久留米に「高山彦九郎」氏の墓があるご縁もあり、群馬県太田市の「高山神社」を参拝してきました。

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高山彦九郎は、延享4年(1747年)5月8日に上野国新田郡細谷村(現大田氏細谷町)に農家の次男として生まれ、江戸時代中頃の勤皇思想家として活躍した人物です。
詳しくは当ブログ「高山彦九郎の墓」の記事をご参照ください。

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寛政5年(1793年)筑後国久留米の友人「森嘉膳」宅で自刃。
享年46歳でした。

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明治6年(1873年)に高山彦九郎生誕の地に小祠が設けられました。
それより以前に橋本多賀之助ら地元有志が神社造営の建言書を太政官に提出。
明治11年(1878年)3月に高山彦九郎に正四位が追贈され、社殿創建・社号公称願いが大久保利通内務卿より許可されました。

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これに併せ、宮内省・各宮家・岩倉家その他当時の太田町をはじめ全県からの寄付金などにより、明治12年(1879年)に天神山中腹に社殿が造営されます。
大正14年(1925年)、社殿改築が新たに計画され、神明造の社殿が建立。
昭和7年(1932年)3月14日に遷座祭が執り行われました。

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長い階段の途中、拝所と思われる場所に、普段の神社では見慣れないものが置かれています。

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それは焼け焦げた社殿の一部でした。

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この高山神社はあろうことか、平成26年12月30日に放火による火事で、神殿が全焼してしまいました。
当社祭神の高山彦九郎は尊皇思想家で、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えたことなどから、国家安泰、家内安全、学業成就の信仰があるのだと云われています。
この頃は至る所で放火が相次ぎました。

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階段を上ると、そこには簡易的ながらも想いのこもった社殿が建設されていました。

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当時の面影を唯一残しているのは社務所風の建物。

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神明造風の建物の中に、小さな社殿が置かれていました。

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背後には往年の気配だけが残されています。
かつての立派な社殿は、公式ホームページの方で、少しだけ見ることができます。

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蒲生君平、林子平らとともに「寛政の三奇人」
と称された高山彦九郎の遺志は吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛らをはじめとする幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
愚か者が姑息に聖域を犯そうとも、その高潔な魂までは穢すに及ばないことは、言うまでもないことなのです。

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2件のコメント 追加

  1. 創る塾 より:

    私も是非、久留米の方にも参りたく思います。
    いつも良い記事を有り難う御座います。(^^)

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ようやく宿題を終えました😊
      ぜひ、久留米にもお越しください!

      いいね: 1人

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