寒川神社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 16

投稿日:

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大彦は北陸道を通り信濃国で没し、当時はすでに更級郡の布制神社に祭られていた。
かれは越前国足羽郡に子孫を残したが、子孫・足羽臣は阿須波の神を祭る足羽神社の社家となった。
足羽氏は信濃にも移住し、諏訪大社上社の社家になっている。
また諏訪大社の神氏の一部が相模国に移り、寒川神社を建て祭祀をつかさどったと言う。
神氏の後裔に阿倍氏と足羽氏があって、久奴国の領域に浅羽氏の地盤があった。

ー 大元出版 谷日佐彦 著『事代主の伊豆建国』 ー

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神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する、相模國一之宮「寒川神社」(さむかわじんじゃ)を訪ねました。
神奈川県内の神社では、初詣の参拝者数が鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多いのだそうです。

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寒川神社本殿参拝に先立って、末社の宮山神社を奉拝しました。

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宮山神社は寒川神社境内の西方に位置し、宮山地区にあった琴平社・八劔社・雷社・若宮八幡社・祢岐志社・稲荷社・三峰社の7社を合祀した神社です。

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祭神は大物主・須佐之男神・建御雷之男神・大雀命・聖神・宇迦之御魂命・伊邪那岐命・伊邪那美命の8柱。

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白豆腐を供えて祈ると母乳に恵まれるそうで、安産・子安の信仰が窺えます。

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また境内には大東亜戦争終結20年を機に建立された平和塔「和光」が置かれていました。

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参道入口へ戻り、改めて寒川神社参拝へと進みます。

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この神社は「ご来光の道」といわれるレイライン上に鎮座し、春分・秋分・夏至・冬至の時に太陽が神社の真上を通ると云われています。

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また寒川神社から見た時、夏至の日は丹沢の大山に、春分・秋分の日は富士山に、冬至の日は箱根の神山に陽が沈むそうで、太陽信仰を持つ一族が当地を聖域とした可能性が濃厚です。

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心地よい参道の先に、立派な神門がありました。

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社伝によると、創建時期は不詳であるが極めて古いとされ、約1600年前の雄略天皇の御代には既に朝廷より幣帛の奉勅があったとされ、延喜式神名帳には相模国唯一の国幣大社として朝廷の名神大社に列格されていたそうです。

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神門の手前に神馬舎がありましたが、

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見目麗しい神馬の手綱を引くのはなんと、

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白毛の神猿でした。

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身を正して神門をくぐると、

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とても見事な社殿がありました。

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当社の祭神は、「寒川比古命」(さむかわひこのみこと)と「寒川比女命」(さむかわひめのみこと)の2柱で、「寒川大明神」と総称されています。

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この神は記紀に記載がなく、詳細は不明とされ、「大水上命」(おおみなかみのかみ)の御子、八幡神、菊理媛命、澤女神、素盞嗚命と稲田姫、大己貴尊であるなどと諸説考察されています。

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古代出雲王家の子孫「富家」の伝承本、大元出版系の書籍にもほとんど記されることは無いのですが、唯一、谷日佐彦著の『事代主の伊豆建国』にその記述を見つけました。
それによると、「諏訪大社の神氏の一部が相模国に移り、寒川神社を建て祭祀をつかさどった」と記されています。

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大彦が越前国足羽郡に残した子孫に足羽氏がおり、足羽の一族は信濃にも移住し、諏訪大社上社の社家になっていると云います。
諏訪大社の神氏(みわし)といえば年少の現人神「大祝」(おおほうり)を務めた氏族です。
一般にはタケミナカタの子孫であるとされていますが、僕は大彦の子孫であった可能性を考えています。

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拝殿の右手には寒川神社のドラゴンボール「渾天儀」のレプリカがあります。
これは天体の位置や星を観測するための器具だと云われています。

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寒川神社は、全国で唯一の八方除祈願の神社として信仰厚く、日本で最も昇殿祈祷者が多い神社としても知られています。

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古代出雲族のサイノカミ信仰で、幸姫は「ヤチマタヒメ」とも呼ばれていました。
「チマタ」とは八方に道が伸びる分かれ道を意味しており、子孫繁栄の中心である母神を表現した呼び名でした。

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つまり当社における八方除祈願とは、大彦の子孫が当地に至り、サイノカミを祀った名残ではなかろうかと推察するに至るのです。

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日を改めて、再び寒川神社を訪れました。

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この日は雨、晴れた日の清々しさもさることながら、雨の日の神々しさに息を呑みます。

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再度当社を訪問したのは、本殿の裏手にある「神嶽山神苑」(かんたけやましんえん)を訪ねるためでした。

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入苑料は無料なのですが、本殿で祈祷を受けた者に限り拝観できるという条件があります。

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前回はあいにく神苑が休苑中で伺うことが叶いませんでした。
なので今回も本殿祈祷を受け、ようやく念願の神嶽山入苑を果たします。

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外門より足を踏み込むと、正面に「難波の小池」があります。
古来より本殿の真裏に位置し、寒川神社の起源に深く関わりがある神聖な泉として伝えられてきました。

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一月二日の追儺祭では、この池の水を竹筒に汲んで神前に供えたあと、境内に撒き一切の邪気を祓うのだそうです。

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難波の小池は小ぶりな池に、八角の石杭が打ち込まれていてしめ縄がかけられています。

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撮影禁止でしたので、写真は寒川神社公式HPよりご確認ください。

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この神嶽山神苑は元は禁足地でした。

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それが整備され、このように拝観できるようになったのは2009年のことでした。

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少し歩くと「裏参拝所」がありました。

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神嶽山を通して大明神を裏から拝する場所ですが、寒川神社の境内の全ての中でここが一番ビリビリする気がします。
この丘は古墳ではないのでしょうか。

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内門をくぐると

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池泉回遊式庭園へと続きます。

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寒川神社のHPでは茶の湯の世界「真・行・草」に倣い、内門は、厳粛な「真」の世界から俗世である「草」の世界へと切り替わる結界であると説明されています。

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確かに、難波の小池から裏参拝所に至る神嶽山の霊域から抜け出し、心緩やかになる感じがします。

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この湧水台は「八氣の泉」と呼ばれ、手水鉢と同じ旧三之鳥居の基礎石を用いています。
その様相は陰陽の関係を現しており、辺りには八方除の精気が漂っていると社は説明します。

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寒川神社が建立された当時は海水準が高く、この辺りは直接相模湾に面していたと考えられているそうです。

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また近辺には縄文時代の祭祀跡や遺跡も数多く発掘されており、大彦の時代よりはるか前から住まう民族がいたことを示しています。

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谷日佐彦著の『事代主の伊豆建国』にあるように、大彦の子孫が当地にやって来る以前にここにどのような一族がいたのか。

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大彦の息子・沼川別らが伊豆方面から東方へ逃れてきます。

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その前には三島溝咋姫の一族が移住してきている可能性があります。

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さらにその前には、諏訪からタケミナカタの子孫が移住してきているでしょう。

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そう言えば沼川別らを追って物部もやってきていました。

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しかしそれらよりも古い時代に、当地に住まう民族がいたということです。

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それはアイヌ族だったのではないでしょうか。

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古代にはアイヌ族は、僕らが思っている以上に西方面に定住していたようです。

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方徳資料館で神社の歴史と八方除信仰の歴史を学んだあと、「茶屋 和楽亭」さんで一休みしました。

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こちらでは神嶽山神苑の四季の移ろいを楽しみつつ、抹茶と菓子をいただけます。

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日によっては、向かい側の石舞台で行われる神楽の舞や雅楽の演奏を眺めることができます。

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また「茶室 直心庵」も神苑内にあり、毎月一日のみ先着順で利用することができます。

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神嶽山神苑最奥には末社の「御祖神社」が鎮座します。

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氏子の先祖代々を祀っているという神社。
禁足地であった神苑を整備した時に遷されたそうです。

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果たして神を遷して良かったのかどうか。
一部にはここが怖いと書かれている情報も目にします。

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僕が訪ねた日は雨も降っており、朝一番であったこともあって確かに異様な神気を放っていました。
しかしそれは怖いというよりも、畏れ多い、という印象でした。

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日本各地の禁足地を不用意に開放する向きには疑念を感じていますが、とりあえずこの神苑はとても心地よく、氏子の先祖代々も嫌な気はしないだろうと思われました。

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初回の訪問で神苑の外周をぶらり歩いていると、ひっそりと一角に道祖神が祀られていました。
こんなところにも出雲の痕跡があったものだと、それを見て、ニヤリ笑みを漏らしたものです。

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8件のコメント 追加

  1. 8まん より:

    八方除けは寒川神社へようこそ(笑)一の宮巡りにもなってますな(笑)ここは御朱印帳がカッコよすぎて、わざわざ埼玉から購入に出掛けたほどです。
    活気ある社に宿る気は、心と体を癒してくれます。訪れただけで厄除けできそうなここも良い神社。CHIRICOさん運気アゲアゲになってませんか?
    執筆は順調ですかな?まだまだコロナ蔓延は収まらん事態。体調にも周囲から貰わないよう息災であって下さいませ。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      運気は上がったり下がったりですが、執筆はちょっと重大な局面を迎えています。
      富さん、ちょっと御容体がよろしくないようです。
      急ピッチで執筆します。

      いいね

  2. れんげ より:

    こんにちは。
    この「富王家伝承考察への誘い」一連の記事を、これまではせっかくだから上から順に、と、親魏倭王ノ都まで読み進めていたのですが、西日本に行きたいけどなかなか行けない現状が苦しく、では、もう少し行きやすい近郊に目を向けようと、ここで蝦夷ノ王篇、東ノ国篇を先に見させていただくことにしました(^^;;。
    寒川神社は私には身近な神社です。こんなところまでよくお越しくださいました!
    しかし、身近なのに何も分かっていませんでした。八方除は知っていても、八街姫につながる可能性は全く気付きませんでしたし、「ご来光の道」と言われるレイライン上にあるということも知りませんでしたし、神嶽山神苑も気に留めたことがありませんでした。
    難波の小池…。古代語で寒いは清らかなこと・川は泉のこと、とか。元々の御神体はこれ?と考えると関連して思い出すことがあります。寒川町の北・海老名市には有鹿神社という相模国最古の神社であり式内社でもある(だけど現在は寒川神社の方がずっと大きい)神社がありまして、ここの奥宮はさらに北の相模原市にある清水の湧く場所が御神体となっています。この奥宮の場所が縄文中期の勝坂遺跡内。縄文中期の代表的な土器形式となっている勝坂式土器の勝坂遺跡です。
    有鹿神社の御祭神は有鹿比古命・有鹿比女命、大日孁貴。寒川比古・寒川比女と同じようなネーミングです。
    寒川神社は、縄文から続く清水の湧く聖地に大彦の子孫が太陽神やサイノカミを祀ったのかもしれませんね。

    東ノ国篇の神社でも行ったことがあるのは半分。まだまだ行くべきところはあるな、と思うのですが、しかしこちらの方はいかんせん痕跡が薄いと言いますか…。ただ、記事を読ませていただいて、少し納得できました。大彦の子孫が東へ移り、開拓・発展させ、それはいつまでも物部の脅威となり執拗に追う。そんな動きの中に出雲寄りの海部氏が入ったり、たまたま流れ着いた秦氏も入ったかもしれず…そんな複雑さが関東にはあるのだな、と。

    長くなって申し訳ありませんが、日本人の血の入り混じり具合というような話に至りましたのでもう一つ。その混じり具合の科学的な根拠というとDNA解析になりますが、以前、知人が、私が面白がるかとプリントアウトしてくれた読売オンラインの記事がありまして。国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのグループによる核DNA解析についてのものなのですが、この記事の終わりの方に、ややオマケ的に書かれていたことが面白いので引用させてください(ご存知でしたらすみません)。

    「日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。
    数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる『東京いずもふるさと会』から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に強く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。
    『衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。 〜中略〜 その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。』」
    (2017年12月15日 読売オンライン 「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! より)

    クナト族の足跡の裏付けにも、関東のごちゃ混ぜ感の裏付けにもなっています!

    今回、この記事を読み返して、改めて「東京いずもふるさと会」とは?と思い調べてみると、関東在住出雲出身者の交流の場であるだけでなく、古代出雲人人骨DNA解析のためにクラウドファンディングでお金を集め、最近では猪目洞窟の人骨(古墳時代)から得た核DNAも分析してもらい、「概ね現代日本人の範疇に入るものの、より縄文人に近いという結果か得られた」そうです。すごいことをしています。

    ただの出雲好き関東人である私の助けとなってくれている「【首都圏近郊】出雲系神社探索ガイド」というありがたい本を出してくれている出川通さんという方は、出雲出身の東京在住の方で、著者紹介によると島根大学客員教授だそうです。出雲愛故にこの本を書かれたようです。

    出雲人の出雲愛、すごい。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      このとりとめのないブログにお付き合い頂き、ありがとうございます😊
      もちろん、ご興味のあるところから目を通していただけると幸いです。
      そして、いつも貴重な情報、嬉しいです。

      東方は大元本に記載が少なく、ほぼ自力で探っていくしかなく、苦労しています。
      内容もとりとめのない事が多いと思います。
      しかし新たに気付いた事もあり、やはり一度長野から群馬方面には旅立とうと計画を練っているところです。
      もちろんコロナには充分注意して。
      有鹿神社、これも訪ねて行かねばなりませんね。
      神苑も心残りなのです。

      DNAの話も、とても興味深いですね。
      実はごく最近、タケミナカタのご子孫という方と交流する機会をいただいております。
      大元本に沿った伝承も受けつつ、またちょっと、今の私の理解を超えた話も頂き、戸惑いつつもどのように消化していくべきか考えているところです。
      ただ、本当に言えるのは、出雲愛の深さ!
      でも出雲人が情熱的ですと、日本もまだ大丈夫だと、安心しますね♪

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  3. KYO より:

    相模國一之宮にも行かれたんですね☺️
    最近のことは判りませんが、以前は特に車の御守りはこちらで、という人が多かったように思います。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、KYOさん。
      この鎌倉旅の最大の目的地が寒川神社でした。
      鶴岡八幡宮や江ノ島のような華やかさは無いものの、どっしりと落ち着いた良い雰囲気の神社でした。
      八方除け故に交通安全なのでしょうかね。
      福岡では宗像大社が有名です。
      裏の神苑に行けなかったのが心残りです。
      コロナが落ち着いたら、また訪ねたいです。

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    2. 宮比たいこ より:

      お詣りするときの柏手の鳴り具合が、その神社と自分のつながり方に関するなんらかのシグナルと感じることがあり、祝詞(短くても、声に出せなくても)ですぐ変わる時もあれば、その神社についてもっと理解が深まる余地があることを知らせている場合もあり(そのほかにもあるかもしれませんが)、私にとって寒川神社は後者です。(ちなみに、これまでの経験では、熊野神社だと御祭神がどなたかに関わらずよく鳴り響きます)

      いいね: 1人

      1. CHIRICO より:

        二礼二拍手一礼の作法は戦後あたりから定着していったそうで、古来からの習わしではないようですね。
        果たして古代から神前で柏手を打ったのかどうか。
        しかし柏手の音は心を神に集中させるのに効果的だと思っていて、僕は二拍をゆっくり間を置き、余韻を響かせてすることにしています。
        古代出雲王家の末裔である富氏は「出雲族の大祭の最後には一同そろって、永遠の弥栄を祝い万歳三唱をした。その万歳の言葉は『イヅメーイヅメーイヅメー』だった。万歳の回数の三は、サイノカミの聖数であった」と伝えてあります。
        三拍するのも良いのかもしれません。

        いいね

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