「ヲウスよ、頼んでおいた兄への説得はやってくれたのか、オオウスはまだ姿を見せないが」
ある時、オオタラシ大君は、美姫と名高いエヒメとオトヒメを妃にするため、長男のオオウスに迎えに行かせた。
しかし姫のあまりの美しさに惚れ込んでしまったオオウスは、二人を自分の妻にしてしまい、父たちとの食事の席に顔を出さなくなってしまった。
これを憂いたオオタラシ大君は、次男のヲウスに彼を懇ろに説得するよう命じたのだった。
「はい、父上の申し付け通り、兄上はすっかり懇ろになっております。兄上が厠に入った時に手足を引きちぎり、むしろに包んで捨てました」
「なんと…(兄の説得を命じたのに、殺害を命じられたと思ったのか、我が子ながら恐ろしいことよ)」
「ヲウス、そなたに命じる、西に熊曾という大和にまつろわぬ者どもがいる。その首領を討ち取ってまいれ。従者を数名付けることを許そう」
オオタラシ大君は息子の残虐さを恐れ、彼を遠ざけるため西国の熊曾タケルの兄弟を討つよう命じた。
長い船旅と陸路の果てに辿り着いたのは、薩摩の山中にあるという熊曾の館であった。その館は、多くの兵士によってかたく守られている。
「ヲウス様、この館は最近できたもののようで、近々新居落成の祝宴が開かれるようです」
そこでヲウスは、束ねていた髪をたらし、叔母の大和姫からお守りがわりに受け取っていた衣装を身にまとって少女になりすました。
熊曾の館では宴会に大勢の女達が呼ばれ、その中にヲウスは紛れ込んだ。
「そこの女、俺の酌をしろ」
美しい少女に化けたヲウスを気に入った熊曾タケルの兄はヲウスを引き寄せ、横に侍らせた。
「愚か者め」
ヲウスは懐の短刀を引き抜き、それを兄の胸に突き刺し、一気に殺した。
兄は声を上げる間もなく、手に持った酒をぶちまけながらその場に倒れた。
不意をつかれた熊曾タケルの弟は背を向けて走り逃げ出す、しかしヲウスは彼の背を捕まえ、剣を尻から突き刺した。
「ま、まて、俺を殺す前に言いたいことがある」
「なんだ」
「われら熊曾の兄弟は西方に敵なしと言われたが、われらをしのぐ強者がヤマトの国にはいた。どうか我らの名を受け取って欲しい」
「言いたいことはそれだけか」
ヲウスはそのまま短刀を引き上げ、弟の体を裂いた。
飛び散る血が、ヲウスの顔を染める。
「ヤマトタケルか、悪くない名だ」
鮮血の中で、ヲウスはニヤリと嗤っていた。
鹿児島県霧島市隼人町、妙見温泉の西側の山腹に「熊襲の穴」(くまそのあな)と呼ばれる場所があります。
入口に置かれた彫像は、芸術家・竹道久氏の作品「神々の想い」と名付けられています。
ちょっと気持ち悪いこの作品、近年の芸術家の作品は、生理的に受け付けにくくなりました。
木製の鳥居があり、
しめ縄のようなものもありました。
駐車場から熊襲の穴までは約200m、階段を300段ほど登ります。
最後の急坂を登れば、
巨大な崖が姿を現します。
神門のようなものを潜ると、
わずかな平地があります。
ぽつんと置かれた絵馬かけ。
絵馬は麓で売っているのでしょうか。
そして不気味な闇が口を開いて待っています。
こ、この中に入るのかー…
洞窟は苦手です。
しかし足を踏み入れてびっくり、
想像とは全く違う世界が広がっていました。
なんだこれは??
壁一面に描かれたアート。
まさか古代から描かれていたものではないだろう。
このカラフルな文様は、1990年に鹿児島出身のアーティスト「萩原貞行」さんが描いたもの。さらに近年描き直しが行われたそうです。
かつての熊襲の穴は落書きが彫られていたりと散々な様子だったとのこと。
それを洞窟の所有者である旅館妙見石原荘の社長が萩原氏の作品を気に入り、温泉街活性化のために制作を依頼。
洞窟を、神聖な儀式の場として蘇らせたかったとのことでした。
熊襲の穴は、入口は狭いものの中は広く、奥行き22m、幅10m、高さ6mの空間となっています。
さらに奥には300畳程の広さの洞窟があるようですが、落盤などにより現在は立ち入りが禁止されています。
さて、ここは古代南九州・熊曾族の首領「川上梟帥」(かわかみたける)が住んでいたとされ、女装したヤマトタケルに殺されたと伝えられています。
しかし本当に熊曾の族長が、このような穴ぐら暮らしをしていたのでしょうか。
記紀にもクマソタケルの居住地は「館」とされています。
記紀は熊曾族を土雲族と同じようにまつろわぬ蛮族としたかったのでしょうが、彼らはむしろ崇高な一族であったと思われます。
クマソは熊曾・熊襲などと表記されますが、これは土蜘蛛や蝦夷といった蔑称ではありません。文字にも崇高さを読み解けます。
熊曾は歴史の中からこつ然と消えてしまいますが、ほぼ同一地区から次いで隼人族が登場してきます。従って、熊曾は隼人の前身とみるのが妥当でしょう。
富氏によると、ヤマトタケル神話は創作であり、特に九州西征の話は景行帝の話を元にされていると云います。
しかも景行帝の足取りを追ってみると、どうも日向の西都が終点のようであり、熊襲討伐までには及んでいないようです。
熊曾族は兵士として雇われ、第一次物部東征に参加しています。
しかも第二次物部東征の発起人である物部イニエ王(崇神帝)は薩摩のアタツ姫を后に迎えており、親族関係にあたります。
このアタツ姫が美姫と名高い木花咲耶姫です。
アタツ姫は早逝し西都に葬られ、東征以降、熊曾・隼人族は物部王朝に重用されませんでした。
しかし、土雲族のように王家の姫を暗殺されるような裏切りを受けるほどでもなく、土雲族に便乗して反旗をひるがえしてはいたでしょうが、本気で景行軍とやりあう気はなかったのではと思います。
ところでこの熊襲の穴が川上梟帥の居住跡であったかというと、そうではなく、風葬地であった可能性を含めて、祭祀の場だったと推察します。
熊曾族の大元は何人であったかと考察した時に、おそらく南方インドネシア系の移住民族である可能性が濃厚だからです。
彼らは海洋族の一面もありましたから、本当に洞窟内をこのように彩ったかもしれません。
熊襲の穴を彩色することに、当時地元では反対意見もあったそうですが、話し合いを重ね、妙見石原荘の社長の思いが受け入れられることとなりました。
確かに古代聖遺跡に手を加えることは不敬であると思わなくもありませんが、神社の社殿も元は何も人工物のなかった自然崇拝の聖地に建てられていたりします。往古の祈りと現代の思いが折り重なるのなら、このような試みもありなのかもしれないと思うのでした。