壮観だった。
青い海に浮かぶ千数百の船。
武内宿禰はその中でひときわ大きな御座船に神功皇后とともにいた。
船団はひとまず松浦を目指し、そこから壱岐・対馬へと航路を進む予定だ。
しかしどうも皇后の容体が思わしくない。
にわかに産気づいているようなのだ。
(早すぎる。いまご出産となれば、子はもとより、姫様のお身体も無事では済むまい。)
そんな不安げな顔を見てか、神功皇后は武内宿禰に話しかけた。
「案ずる必要はない。
もう少し進んだところに船のような平な島が見える。
そこで一度船を留めておくれ。」
畏まって海原を見つめてみれば、確かにそのような島が見えた。
「そこは神が在る島じゃ。
そこの霊石をもってこの子を今しばらく鎮めよう。」
苦痛に汗しながらも皇后は健気な笑顔を武内宿禰に向ける。
皇后の御座船は玄界灘に浮かぶ小さな台形の島に進路を向け、船団を導いていった。
【名島神社】
香椎宮から3kmほどのところに「名島神社」(なじまじんじゃ)があります。
この場所で兵士たちは名乗りをあげ、つぎつぎに船に乗り込みました。
その船の数、実に1600隻という話もあります。
しかもそれはあくまで、神功皇后を中心とする本軍のみの数です。
他の港から出港し、例えば宗像沖ノ島を中継するルートの船などを合わせると
その全体の総数は3270隻であると「壱岐名勝図誌」に書いてあるそうです。
一隻に20人乗ったとしたら、兵の総数は6万5千人です。
中国吉林省に「広開土王碑」(こうかいどおうひ)という石碑が立っています。
そこはかつて高句麗の地であり、広開土王とは高句麗の19代の国王です。
その石碑には391年に日本が海を渡って百済・新羅を臣民としたと彫ってあるそうです。
400年には倭軍(日本)に占領された新羅に5万の大軍を派遣し、これを救ったとあるそうですから、
数で言うなら、皇后の船団3270隻というのも、あながちかけ離れた数字ではないのかもしれません。
ここ名島神社の御祭神は現在、宗像三女神となっています。
神功皇后が出港の際、宗像三女神に祈り、兵士に名乗りをあげさせ、船に乗船したことから「名島」となったと伝わります。
そしてその凱旋の礼に皇后がここに三女神を奉斎したということです。
しかし元はここには「豊玉彦」が祀られていたという話があるそうです。
名島の「な」は元は港を表す「湊」であり、渡来人は湊を「浦」と呼んだそうです。
名島はその名の通り、かつては海に浮かぶ島で、渡来人は「浦島」とも言っていたらしいのです。
「豊玉彦」は「豊玉姫」の父と伝わっています。
であれば、太古の昔は、名島は豊王国、つまり邪馬台国と深い関わりのある場所だったのかもしれません。
拝殿はとてもすっきりとしていました。
狛犬の代わりに狛魚が迎えてくれます。
なぜかご神木が突き抜けた待合。
境内には「豊川稲荷神社」もあります。
稲荷神社には、「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)を祭神とする「伏見稲荷系」があり、
「豊川稲荷系」は「荼枳尼天」(だきにてん)を祭神としています。
荼枳尼天、ダーキニーはインドの地母神で、仏教では人の心臓を食べる女夜叉として扱われます。
どちらの稲荷も、連綿と続く朱色の鳥居は幻想的です。
名島神社は当初山頂にあったそうですが、小早川隆景が名島城を築城する際に中腹へ移築しました。
名島城へは「豊臣秀吉」やその妃「淀君」もお泊りになったそうです。
お隣にはお寺があり、「名島弁財天」が祀ってあります。
名島神社は本来は弁財天が祀ってあったそうですが、明治維新の神仏分離令により現在の宗像三女神を御祭神としたそうです。
その際、名島弁財天はこちらに移されました。
名島神社を降りると、すぐに博多湾に面します。
そこにある大きな石は「縁石」と呼ばれます。
神功皇后が三韓征伐から戻った際、この石に腰を下ろして休まれたそうです。
その後元気な子を出産したとして、安産・良縁のご利益ありと伝わっています。
さらにその先に「帆柱石」(ほばしらいし)というものがあります。
僕が訪れた時はゴミまみれでした。
これは神功皇后の船の帆柱の化石だと伝わります。
実際には樫属の桂化木で、土中に埋もれた樹木に桂酸がしみ込んで、木の組織と入れ替わり化石となったものです。
【小戸大神宮】
西区の姪浜に「小戸ヨットハーバー」があります。
その公園の中には「小戸大神宮」(おどだいじんぐう)がありました。
ひそやかな鳥居と石の階段があります。
途中には弘法大師のゆかりの何某かがありました。
小戸は「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原…」と黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊をした浜であると伝わります。
イザナギが禊をした場所というのはいくつか伝承地がありますが、有名なのは宮崎の「江田神社」の御池です。
また志賀島の先にもこの伝承にふさわしい場所がありました。
黄泉の国の入り口と伝わる場所が出雲にあり、イザナギもずいぶん遠くまで逃げてきたものだと思います。
小戸大神宮は、その名とは裏腹に、とてもこじんまりとして簡素な社があるばかりです。
そこには神功皇后が腰掛けたという「安産石」が二つ並んでいます。
また「姪浜」(めいのはま)とは皇后が上陸した時に下着の「袙」(あこめ)が濡れたので、砂浜で乾かしたところ、「あこめのはま」がなまったそうです。
【壱岐神社】
神功皇后らは名島を出港した後、博多湾を西に進み、松浦を目指します。
そこから壱岐・対馬を経て新羅へ向かったようです。
姪浜から西に進んだところに「生の松原」があります。
その中に「壱岐神社」(いきじんじゃ)がありました。
壱岐神社の御祭神は「壱岐真根子」(いきのまねこ)です。
壱岐真根子は壱岐の県主で、後の応神天皇の時代に、嫌疑をかけられ死罪になるところの武内宿禰の身代わりとなった人です。
武内宿禰の弟は、応神天皇に「武内宿禰が天下を狙っている」と讒言し、天皇はそれを信じてしまいます。
天皇は武内宿禰に死罪を言い渡しますが、無実の罪で死ぬのを惜しんだ壱岐真根子は武内宿禰と容姿がよく似ていたこともあり、
代わりに自害します。
武内宿禰はこのことを大変悲しみますが、とりあえず逃げ出すことに成功し、後日天皇に無実を証明します。
壱岐神社の参道は「生の松原」を貫いています。
生の松原の名は、神功皇后が逆さに植えた松が生き生きとそだったことに由来するとありますが、
この壱岐真根子に由来するとも考えられます。
さらになぜ壱岐を里にする壱岐真根子がこの地にいたかと言うと、この生の松原がある浜が壱岐族の寄港地だったのではないかと思われます。
参道から生の松原を突き抜けた先には、海に面して鳥居がありました。
生の松原とは「壱岐の松原」だったのかもしれません。
【塞神社】
前原方面に「五十迹手」(いとて)が仲哀天皇を迎えるべく出港した湊と伝わる場所があり、そこを「塞神社」(さいじんじゃ)といいます。
とてもひっそりと、小さな社がありました。
【鎮懐石八幡宮】
神功皇后は松浦に向かう途中、にわかに産気づきました。
そこで皇后は、美しい卵形の石を二つ求め肌身に抱き、出産を遅らせたと言います。
凱旋後、無事出産を終えられた皇后は、自らこの石を祀ったといいます。
その場所が糸島の二丈に「鎮懐石八幡宮」として伝わっています。
そこに皇后の船を結びつけた「船繋石」があります。
太古はここまで海が押し寄せていたということです。
境内には二つ社があり、手前の社では陰陽石を祀っていました。
さらにその奥に、本殿があります。
丘の上にあり、風が強かったです。
皇后が肌身に着けた鎮懐石はその後盗まれたそうですが、里人がとある石を見つけ、それに鳩が止まったのでそれを納めたそうです。
境内には角の取れた、丸い石があちこちに見受けられました。
【神集島】
さらに船を進める神功皇后らは唐津の沖に浮かぶ「神集島」(かしわじま)へ向かいました。
神集島はその姿が平たく、船のように見える島です。
神集島は勾玉のような形をした島で、弧を描いた島の先端には細長い突堤が伸びています。
その先には「住吉神社」がありました。
神集島は神功皇后がこの島にやってきた時、戦勝祈願のため軍神を集めたことが名の由来となっています。
小さなこの島には古墳も数々あり、太古より聖地として崇められていたようです。
突堤の先の住吉神社を訪れます。
海神にふさわしい雰囲気です。
ここには干珠・満珠の二宝が納められていると伝わっています。
境内の中は、どこか南国を思わせる雰囲気です。
ここに至る突堤には、小石が積まれた積石塚がいくつもあり、独特の雰囲気をもっています。
さまざまな祈りが、今に連綿と受け継がれているのでしょう。
皇后と重臣たちはここから壱岐の島を望み、軍議を執り行いました。
神功皇后は穏やかな海を抜け、いよいよ大海原へと船を進めます。
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