氣多大社:八雲ニ散ル花 番外

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人王八代・孝元天皇の御宇、北国越中の北島の魔王が鳥に化して国土の人民を害し、鹿島路湖水には大蛇が出現して人々を苦しめた。
この時、大己貴命が出雲国より三百余神末社眷属を引き具して来臨、化鳥と大蛇とを退治して、この南陽の浦に垂迹して、天下国家君民守護の神と仰がれた。

– 『大社古縁起』 –

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能登半島の付け根あたり、石川県羽咋市に鎮座する「氣多大社」(けたたいしゃ)にやってきました。

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能登国一宮を称し、古くは「氣多大神宮」とも呼ばれた当社。

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現在は神社本庁に属していないといいます。

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参道に入ってすぐ左手には「養老大黒像奉安殿」と「奥津島神社」が鎮座します。

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養老大黒像はなんともおおらかな姿をされていました。

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まっすぐに伸びた参道を少し歩くと、すぐに神門が見えてきます。

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その手前に手水舎。

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手口を清め、聖域に足を運びます。

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この見事な神門と拝殿、本殿、そして本殿両脇に鎮座する若宮神社と白山神社は、国指定の重要文化財に指定されています。

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神門をくぐると御神職から「まずこちらからどうぞ」と勧められたのが「幸せむすびどころ」という御堂です。
ここは日本で唯一の縁結び専用祈願所だという話です。

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中に入ってみると、冷房が効いていて嬉しかったです。

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祭壇や神輿が置かれた中に、数多く飾られた美しい写真に目が行きます。

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氣多大社は縁結び専用祈願所を設けるほどに、縁結びのご利益を前面にアピールしています。

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祭事も「ついたち結び」「縁結び祭」「心むすび大祭」など、多種にわたります。

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これは祭神の「大己貴命」(おおなむちのみこと)が出雲大社の祭神「大国主」と同一神であるという前提で作られた設定なのだと思われます。

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しかし氣多大社の大己貴は大国主ではないでしょうし、大国主も縁結びの神などではない、と僕は考えます。
大国主は確かに、争うことなく他国と縁を結んだ出雲の偉大な王の一人でしょうが、彼は支那の渡来人を受け入れたために非業の死を遂げる結果となりました。

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『斧入らぬみやしろの森めづらかに からたちばなの生ふるを見たり』
昭和58年5月22日には昭和天皇も行幸され、当地にある「入らずの森」にお踏入され多時の写真も掲げられていました。

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参道の正面に位置する拝殿へと伺います。

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鎮座するのは「大己貴命」(おおなむちのみこと)。
大己貴は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされます。
その際に化鳥と大蛇とを退治したと伝承されます。

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当初大己貴命は、8代「孝元天皇」によって七尾市の所口に祀られましたが、10代「崇神天皇」の頃に祭神を当地に分霊し祭祀したと伝えられます。
故に当社を氣多大社、所口の元宮を「氣多本宮」と呼ぶようになったそうです。
当社にて行われる「平国祭」(へいこくさい)は、羽咋・鹿島郡内の2市5町を巡りつつ、氣多本宮まで渡御する大規模な神幸祭で、通称「おいで祭」と呼ばれます。
この祭りは途中、鹿西町金丸の「宿那彦神社」に一泊し、祭神の少彦名命を神輿に同座して氣多本宮へ趣くという、出雲の大名持と少名彦がとともに能登を平定した往時を偲ぶ行事になっています。

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氣多大社本殿の左手には、

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事代主命を祭神とする「若宮神社」、

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右手には菊理姫命(くくりひめのみこと)を祭神とする「白山神社」があり、

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共に拝殿・本殿同様、国指定重要文化財になっています。

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またこれら社殿の背後には、禁足地「入らずの森」が広がり、中に「素盞鳴尊」と「奇稲田姫命」を祭神とする「奥宮」が鎮座しているそうです。
この森は、約一万坪(33,000㎡)の広さをもち、タブ・スダジイ・ツバキ・ヒサカキなど亜熱帯性照葉樹林に覆われた原生林で、中には3基の円墳もあると伝えられています。

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白山神社の左手、神庫の先で「入らずの森」の深淵を垣間見ることができました。

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そこに溢れ出る、驚くべき森の氣。

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この鳥居のある場所は、末社の一つ「楊田神社」(やなぎだじんじゃ)とされ、祭神は「迦具土命」(かぐつち)とも、大己貴の「荒御魂」であるとも云われています。
が、そこには素木の鳥居一基が立つのみで社殿はなく、おそらく、入らずの森・奥宮の遥拝所であると思われます。

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奥宮は周囲に巨石を積み石垣をめぐらした霊域に、切妻造妻入りの小祠二社が鎮座していると云われます。
そこにはスサノオとクシナダヒメが祀られるといいますが、スサノオは出雲の神ではありませんので、本来祀られていたのはクナトの夫婦神だったと思われます。

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加賀藩が保護し、国指定天然記念物になっている「入らずの森」は、多くを語らず、深淵からじっとこちらを窺っているように感じられました。

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楊田神社のさらに先に「太玉神社」がありました。
この摂社の存在は、当社氣多大社鎮座の謎を解き明かしているように思えます。

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祭神の「太玉命」(ふとたまのみこと)は、古代宮中祭祀にかかわった「忌部氏」の祖神です。
出雲王国時代、王族の証として重宝されていた装飾品が「勾玉」でした。
出雲で勾玉制作を一手に担っていたのが「玉造」ですが、太玉命はそこの出身です。

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彼は、東出雲王家のクシヒカタに従って、畿内の大和葛城に一緒に移住しました。

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当時の福井県敦賀市西端の関峠から新潟県の弥彦山までは「越国」(高志国)と呼ばれ、当地もそこに含まれていました。
越国は出雲王国と深い結びつきがあり、王家に姫を嫁がせ、親戚関係となった一族も多かったと伝えられます。

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新潟糸魚川の「ヒスイの精霊」と称される「沼河姫」(ぬなかわひめ)もその一人で、東出雲王国8代少名彦の「事代主」こと「八重波津身」の元へ嫁いでいます。
古事記では沼河姫は大国主の妻になったと記されていますが、これは間違った伝承です。
糸魚川は良質な翡翠の産地であり、勾玉の素材として王国では重宝されていました。
沼河姫の「ヌ」は、古代の日本語において「瓊」、つまり「玉」を表わし、翡翠のこととされています。

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出雲と越国の結びつきは古墳の分布にも見られ、福井・石川・富山といった北陸の各県の日本海側にも、出雲王家の古墳形式とされる「四隅突出型墳丘」が多く造られています。

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これらの事と、この太玉社が氣多大社境内の奥に神々しく祀られている事とは無関係とは思えず、古代から出雲王国の某かが、当地に出雲の祖神を祀ってきたのだと考察します。

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その某は、あるいは太玉の子孫「忌部氏」であった可能性は高く、当社祭祀にかかわる氏族は不明とされていますが、『続日本紀』に見られる「氣多十千代」とその一族につながる者であるように思われるところです。

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太玉神社の隣には「菅原神社」が鎮座します。

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祭神は当然「菅原道眞」ですが、道眞もまた出雲の血を引く末裔の一人です。

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氣多大社の文献上の初見は、『万葉集』に載る大伴家持の歌とされ、

– 気太神宮に赴き参り 海辺を行く時に作る歌一首 -(万葉集・4025番)
「志雄道から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 舟梶もがも」

とあり、当社は8世紀には存在していたとみられます。

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折しも令和の世となり、万葉集と太宰府がクローズアップされている現代に、奇しき縁を感じるに至ります。

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当社案内図を見ると、入らずの森の周囲を散策できるようになっています。

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ひょっとすると奥宮を垣間見れるのではないかとの下心で歩いてみましたが、深い森にそんなことは決してないのです。

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が、その道はとても心地よく、聖域の安らぎにあふれているように感じました。

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奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっていたという氣多大社。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳に「氣多神社 名神大」と記載され、大正4年(1915年)には国幣大社に昇格しています。
しかし近年、神社本庁からの離脱に関してひと騒動起きています。

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氣多大社が規則の変更を申し出た際、石川県知事は認めたが、神社本庁は認めなかったということがありました。
この時、神社本庁は当時の宮司を免職にし、自分たちが決めた新しい宮司を送り込んできたのです。
こうした神社本庁の強引なやり方に嫌気がさした当社は、ついに神社本庁からの離脱を決意、裁判となりました。
裁判は最高裁までもつれ込み、当社の言い分が認められ、平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となっています。

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最近はNHKやJASRACのような組織が、常識を外れた権限を行使するといった事案が噂され、我々一般人を悩ませ、不安にさせます。
神社本庁にも、そんな淀みが生まれているのかもしれません。

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先の氣多本宮でも触れましたが、「氣」の字も、日本人の生きる力を封じ込めるために「気」と書き換え、教育者を使って教え込まれた疑いがあります。
「米」はそのまま生きる主食の「コメ」であり、八方へ広がるエネルギーを表します。
古代出雲で信仰されていた母神「幸姫」は別名「八地股姫」(やちまたひめ)とも呼ばれており、これは「八方に伸びる道に宿る神」であることを意味しています。
八というのは出雲にとって最も大切にされた聖なる数字であり、「氣」の字はまさに「出雲的」で、日本人として行きていく大切な文字であると言えるのです。

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