鶴岡八幡宮

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神奈川県横浜市にある田谷山「定泉寺」(じょうせんじ)に立ち寄りました。

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定泉寺は天文元年(1532年)に鶴岡二十五坊相承院の僧快元法印の門弟「隆継」阿闍梨によって建立されたと伝わる寺院です。

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ここに立ち寄ったのは

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境内奥にある人工洞窟「瑜伽洞」(ゆがどう)参拝が目的でした。

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瑜伽洞は一般には、「田谷の洞窟」(たやのどうくつ)と呼ばれています。

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瑜伽洞の歴史は当寺創建よりも古く、原型は古墳時代の横穴墓ないし横穴式住居の跡ではないかと考えられています。

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鎌倉時代には真言密教の修行場として開鑿され、今も住僧や希望者による修行の場となっています。

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内部の壁には見事な彫刻が施されています。

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洞窟内部は上中下の三段構造で途中道がいくつも枝分かれしているそうですが、一般には「行者道」という順路が定められており、これから外れた道には入ることができないようになっています。

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洞窟はかなり狭い通路もありますが、途中10個前後の広い空間に出ることができます。

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そこには曼荼羅や十八羅漢などが彫られていて荘厳です。

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水が湧く場所や仏像が安置されているところもあり、信仰の深さを窺い知ることができます。

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残念ながらこの行者道は撮影不可となっており、僕が撮影できたのは洞窟入り口付近まで。
実際に訪ねてみないと、その世界を知ることはできません。

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さて、「鶴岡八幡宮」(つるがおかはちまんぐう)へとやってきました。
大臣山を背に、威風堂々と鎮座する鎌倉の象徴です。

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三ノ鳥居の先には石の太鼓橋があります。
この左右にある池が「平家池」と「源氏池」。

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太鼓橋は造営当時は朱に塗られており、「赤橋」と呼ばれていました。

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ここでちょっと寄り道。
右手の源平池に向かい、そこの小島にある「旗上弁財天社」を参拝します。

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1982年に鶴岡八幡宮創建800年記念として復元された社殿。

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社殿の裏には「政子石」なるものがあるので忘れず参拝します。

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政子石は源頼朝が妻の政子の安産を祈願したとされる石なのだそうです。
姫石とも呼ばれ、夫婦円満、子宝・安産のご利益があると伝えられます。

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再び参道へ。

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義経を慕う静御前が舞をおさめたとされる若宮回廊跡に建てられた「舞殿」。
「鎌倉まつり」でもここで「静の舞」が演じられます。

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しかし何故、頼朝は義経を討ったのか。

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往古の事情は推し量りきれませんが、いまいち頼朝を崇敬できないのは日本人なら尚更のことでしょう。

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本宮に向かう大石段の右側に「若宮」があります。
鶴岡八幡宮は、本宮(上宮)と若宮(下宮)の上下両宮の形態をとっています。
建久2年(1191年)の火災により社殿が焼失、それを機に現在の姿に整えられたそうです。
若宮は「仁徳天皇」、「履仲天皇」、「仲姫命」(なかつひめのみこと)、「磐之媛命」(いわのひめのみこと)を祭神としています。

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若宮の奥に心地よい参道が伸びており、「由比若宮遥拝所」がありました。
由比若宮は康平6年(1063年)に源頼義が源氏の守り神として由比郷鶴岡(現在の材木座)に京都の石清水八幡宮を勧請したもので、後に源頼朝が当地へ遷し、今の鶴岡八幡宮となりました。

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隣にある「鶴亀石」は、

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水で洗えば鶴と亀のような輝きを出す霊石と伝えられます。

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さらに参道を奥まで進むと「白旗神社」に行き着きます。
源頼朝公、実頼公を祀る黒塗りの社殿は、当社の末社群の中でも異様な存在感を放っていました。

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大石段に戻ってきました。

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石段の上から舞殿を見ると、由比ヶ浜までまっすぐに続く約2kmの参道が望めます。
平安京を手本として町づくりを行った源頼朝は、この「若宮大路」を朱雀大路になぞらえたのだそうです。
また妻「政子」の安産を祈願して、頼朝公自らの指揮をとり、御家人たちが土石を運んで築造したと『吾妻鏡』に記されています。

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大石段を上った先にある本宮の楼門。
撮影できるのはここまで。
本宮は本殿、幣殿、拝殿が縦に並び、漆の朱と極彩色の彫刻が華麗な造りです。
1828年に江戸幕府11代将軍徳川家斉の命により再建されたもので、日光東照宮などに通じるものがありました。

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扁額の「八」は鳩の向き合う形をしていますが、これは八幡神の使いが鳩であることに因むようです。

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本宮から右に抜けると「丸山稲荷社」があります。

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社殿は鶴岡八幡宮の中で最も古く、室町時代に建てられたものと云われています。

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また鶴岡八幡宮の後方、東谷には、承久の乱で配流となった後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の怨霊を鎮める新宮「今宮」が鎮座しています。
後鳥羽上皇は流された隠岐で亡くなり、順徳上皇は佐渡で断食をして頭に焼石を乗せて亡くなったと云われています。
今宮の後ろには、一つの根から六本に分かれていた「六本杉」があり、天狗が住み着いていたと言い伝えられていました。

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