明日香村の石造群の中でも特にミステリアスなのが「酒船石」(さかふねいし)です。
酒船石は竹林の丘を登ったところにありました。
分厚い板状の花崗岩です。
この石造物は、現状では長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1mあります。
北側及び南側の一部は欠損しており、石割りの工具跡が残っています。
なんのために造られたのか、これといった定説もないのですが、酒を絞る槽とも、あるいは油や薬を作るための道具ともいわれ、その名が付いています。
様々な説の中で、僕が興味を持ったのは、カバラの「生命の樹」(セフィロト)を表していると云うもの。
確かに、そう見えなくもないです。
しかしこの下に亀形石造物もあり、斉明天皇が祭祀のために造らせた、というのが真相のような気がします。
酒船石から下ったとことにある「亀形石造物」です。
水を流す作りのようになっていますが、これらは「幸ノ神」祭祀の遺跡であると思われます。
斉明天皇は、歴史のターニングポイントとなった、天智・天武の両天皇の母親です。
このような祭祀遺跡を造ったということは、彼女は巫女体質だったのかもしれません。
さて、飛鳥寺から600mのところに「飛鳥板蓋宮跡」(あすかいたぶきのみやあと)という場所があります。
国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡として登録されていますが、そこの地表にあるのは飛鳥浄御原宮の復元だそうです。
皇極元年6月から酷い日照りがはじまりました。
皇極(斉明)女帝は2年後、板葺宮を建て、中国の水神「河伯夫妻」の石造を造り、降雨を祈りました。
しかしこの河伯は、雨の神というより治水の神であったので、日照りは収まらなかったと云います。
642年正月に旧皇極女帝は復辟し、斉明女帝と名を変えました。
女帝は新宮を建てる暇がなく、昔の板葺官に引っ越しました。
その板葺宮は10か月後に放火され、古い川原宮に遷都したと云われています。