本明寺(石川精舎):八雲ニ散ル花 76

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552年の10月、百済の使者が来日した。
彼らは金銅仏1体と仏教経典数巻を大王に献じた。
これは日本の援助により、百済が、広州とソウルを取り戻したお礼であったと云う。

「素晴らしい、なんと素晴らしい教えだ。
そしてこの像の、美しくも威厳ある姿よ。
仏とはかくもあるものか。」

時の帝、欽明大王は使者から仏教の解説を聞き、顔をほころばせた。
これが、いわゆる「仏教の公伝」であった。

584年、再び百済から、2体の仏像がもたらされた。
時は敏達大王の時代になっていた。
弥勒の石像を鹿深臣が、木造の仏像を佐伯連が運んで来た。

「麻古よ、これは其方に託す。
まずは其方が仏教を世に広めよ。」

石川臣麻古は大王から、それらの仏像を貰い受け、石川の自宅に仏殿を造った。
それは「石川精舎」と呼ばれた。
石川精舎には、仏像が安置され、次第に人々が礼拝するようになった。
麻古は仏を祀る僧を探させた。
やっと見つけた僧は、播磨国で還俗僧となっていた高麗人の僧「恵便」(えべん)であった。
麻古は恵便を仏法の師とし、招いて修行させた。

これは「日本仏法の始まり」であった。

翌年、麻古は豊浦の大野丘の北に、仏塔を建てた。
塔の心柱の上に、司馬達等の持ち来る仏舎利を収めた。
その建立時の大会には、大勢の参列があり、華々しいものとなった。

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奈良県橿原市石川町に、孝元天皇の陵墓とされる「劔池嶋上陵」があります。そこから数分、民家の中に進んだところに、「本命寺」がひっそり佇んでいます。

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本命寺は、石川臣麻古が造った、「石川精舎」の跡に建っていると云います。

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石川臣稲目の息子の1人に「石川臣麻古」がいました。
記紀に名高い、「蘇我馬子」のことです。
宣化大王は、石川臣稲目を大臣に任命しました。
大和川の支流・石川流域が、武内襲津彦の子孫・石川臣家の地盤です。
同じ襲津彦の子孫で北陸に進出した一族が、蘇我家です。
北陸の蘇我家と、河内に残った石川家は250年も分かれていたので、もはや両家は別の家系であると言えます。
しかしに奈良時代にできた古事記と日本書紀は、「石川麻古」の名前を「蘇我馬子」と書きました。
記紀は蘇我家から大王が出たことを隠し、継体大王を応神大王の子孫のように見せ掛けたかったのです。

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欽明大王は先帝と同じく、石川臣稲目を大臣にしました。
ほかに大伴金村と物部尾輿を大連とします。
欽明は先帝の姫皇女「石姫」を皇后に定めたのち、稲目から二人の娘を妃に迎えました。
稲目の娘「堅塩姫」が大兄皇子など3人の皇子と「額田部皇女」を生み、妹の「小姉君」が「穴穂部皇女」や「初瀬部皇子」を生みます。
こうして石川臣家の娘たちが多くの皇子や姫御子を産んだので、石川臣家の存在は大王家に次ぐ大きさになっていきました。

また稲目は、大蔵の仕事も受け持ちました。
そして子らにもその仕事をするように命じたので、大蔵の仕事は石川臣家の世襲となっていきます。
大蔵は租税の収集管理のほか、官吏の任命や昇任、給料を管理する役目もありました。
それで官人たちは、石川臣に頭が上がらなくなったと云います。

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552年10月、百済から「仏教の公伝」がもたらされた時、欽明はその教え、また仏像の容貌の立派さに感銘を受け、崇拝したい気持が起きました。
ところが、欽明大王がその受け入れにつき、重臣と相談すると、神道の家系であった物部大連と中臣連の猛反対を受けます。
彼らは、自分たちの仕事が、仏教に奪われる危機を感じていたと云います。

「わが大王家は神道の神を祭ることが、古代から重要な職務となっている。今後に蕃神(外国の神)を採用することに変わると、日本古来の神々の怒りを招くと思われます」と物部大連「尾輿」と中臣連らは主張しました。

これに対し、大臣稲日は、「西の諸国が敬う仏教を、日本だけ尊ばないのは、いかがなものであろうか」と疑問を投げかけます。

そこで欽明大王は仏像と経典を、石川臣稲目に渡して「なんじ、試しに敬い拝むべし」と告げました。

稲目は小治田の別宅に仏像を収めて仏事に励むことにしましたが、折り合い悪く、その頃各地に疫病が流行したのです。
排仏派の大連らは大王に、「この疫病は神をないがしろにして仏を敬ったからである。仏を排し、神を敬えば必ず福が訪れるだろう」と忠告します。
これに大王は「そのように致せ」と答えました。
役人は仏像を難波の堀江に捨て、石川臣の仏殿に火を付けたので、仏殿は焼き尽きて、跡形もなくなりました。
すると不思議なことに、風もないのに宮殿に火災が起きたと云われています。

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元・石川精舎と呼ばれる本命寺に、高さ2.3mの巨大な五輪塔があります。
この五輪塔は「蘇我馬子」の塔と伝えられ、石川精舎の名残であると伝わります。
当事の由緒書きには「石川精舎 今本名寺と称す 敏達天皇十三年、蘇我馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川宅に於いてこれを安置す 仏法の初まりは茲より作れという」と記されています。

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稲目の息子、石川臣麻古は河内国の石川郡から、大和国高市郡(現橿原市大軽町)に移住しました。
弟の「摩理勢」の家は、石川町の南隣り、大軽に造られたと云います。
石川臣本家は稲日と雄正、最後の林太郎まで、石川町の東方、豊浦に住んでいました。

584年、再び百済から、2体の仏像がもたらされると、敏達大王はこれを麻古に授け、石川臣家だけに仏を祀ることを許しました。
しかしこの時も全国的に痘塘、いわゆる天然痘が流行していて多くの民衆が死ぬ事態となっていました。
これに物部守屋と中臣勝海が再び激しく、仏法を禁じることを忠告します。
それを大王が認めると、物部守屋たちは家来を連れて、石川精舎を襲い、その仏塔と寺を焼き払いました。

守屋らはそれからも数々の寺を焼き討ちしましたが、痘塘は寺を壊しても衰えず、死者はさらに国中に満ちあふれました。
やがて「この病は、仏像を焼いた天罰に違いない」と人々は噂するようになります。
その後、石川精舎は本明寺に造り変えられ、今に存続することとなったのです。

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585年8月、大王は病没されました。
モガリの宮に訪れた石川麻古と物部守屋が、そこで鉢合わせします。
麻古が長い剣を身に帯び、弔辞を述べると、守屋が参列者に向かって「大臣は矢が当たった、スズメのような格好だ」と嘲笑いました。
守屋が弔辞を読むとき、緊張のあまり手足が震えたのを見て、今度は麻古が「大連の足に鈴を付けたら、さぞ鳴り響いただろうさ」と意趣返します。
このようにして2人の仲は、ますます悪くなったと云いうことです。

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